てらまっとのアニメ批評ブログ

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ロンドン、天使の詩:『映画けいおん!』と軽やかさの詩学 ver. 3.5

以下の文章は同人誌『セカンドアフター vol.1』(2011)の特典として2012年のC81で限定頒布したペーパー「ロンドン、天使の詩──『映画けいおん!』とスカイ系アニメの詩学」を改稿したものです。


「スカイハイ!」──平沢唯

 1990年代後半から2000年代前半が「セカイ系」と総称されるアニメの全盛期であったとするなら、2000年代後半以降は「空気系」ないし「日常系」と呼ばれる新しいジャンルの台頭によって特徴づけられるだろう。そしてこの二つの傾向は、これまで互いに相容れないものと見なされてきた。その理由としてまず考えられるのは、「空気系アニメには物語がないからつまらない」というステレオタイプな批判である。たしかにセカイ系の作品には濃密な「物語」があるが、空気系にはそれが希薄であるように見える。そこには恋愛の苦悩も自意識の葛藤もなく、少女たちの穏やかな日常を揺るがすような大事件も起こらない。かつてセカイ系が「社会を描いていない」と揶揄されたように、あるいはそれよりもっと悪いことに、空気系には「社会」どころか「物語がない」というのである。たとえば『思想地図 vol.4』に収録された座談会「物語とアニメーションの未来」では、空気系アニメには「不可能なものへの志向」や「遠いものに対する執着」といった「遠景」が欠けており、それゆえ「奇跡」を描くことができないとされている。「近景しかない、敵がいない、ドラマもないという『けいおん!』の徹底したミニマリズム*1こそがアニメの最先端と見なされつつあることに、東浩紀はいらだちを隠そうとしない。

 空気系アニメをめぐる言説のほとんどすべては、こうした批判に対する応答によって形作られていると言っても過言ではない。たとえば宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』のなかで、空気系の代表作のひとつである『らき☆すた』を積極的に評価している。宇野によれば、ロボットアニメをはじめとする「架空年代記」が「もうひとつの現実」を物語るのに対して、空気系アニメのキャラクターは「この現実」を拡張する。すなわち「〈ここではない、どこか〉へ誘うものから、〈いま、ここ〉を多重化するものへ──らき☆すた』の登場人物たちが、漫画、アニメ、ゲームなどの話題で日常の生活空間を彩るように、[…]現代の消費者たちはそんなキャラクターたちを用いて自分たちの日常生活空間を彩っていく」*2。宇野は「近景しかない」という空気系批判を逆手にとり、コミュニケーションを媒介するキャラクターの役割を肯定的にとらえ返している。空気系を否定するにせよ肯定するにせよ、そこではつねにセカイ系との緊張関係が温存されてきたのである。

 しかしながら、物語をめぐる空気系とセカイ系の対立は、一見してそう思われるほど自明ではない。志津Aは「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」と題された重要な論考のなかで、両者の断絶ではなく連続性を強調している。彼の考えでは、どちらも「日常の価値」を称揚するという点では一致しており、そのために「非日常的な設定」を採用するかどうかのちがいでしかない。そうだとすれば、これまでの議論に反して「いわゆる日常系作品のうちにセカイ系の要素を見出すことも可能」*3であるはずだ。こうして志津Aは、京都アニメーションの系譜を手がかりに、『らき☆すた』や『けいおん!』といった空気系アニメにも遠景が存在することを明らかにしていく。空気系/セカイ系という二項対立を脱構築したところにあるもの、それは近景と遠景を自在に往復する「軽やかさ」である。

世界の終わりといった極限状況を背景に絶対不変の基盤(きみとぼくとの合一)を探求することが奨励されないのはもちろんのこと、後に見るように、日常生活における具体的な人間関係の親密なコミュニケーションへの埋没も是とされない。そこで目指されているのは、言ってみれば、日常から緩やかに飛翔し、再び日常に緩やかに着地するという、そうした軽さなのだ。こうした軽やかさを(とりわけ風景というかたちで)描き出すことが京都アニメーションの方向性だと言っていいだろう。*4

 近景と遠景、空気系とセカイ系を軽やかに往還すること。それは言い換えれば、〈いま・ここ〉において〈いつか・どこか〉を見出し、〈いつか・どこか〉において〈いま・ここ〉を見出すことでもあるだろう。そして『映画けいおん!』で主題的に描かれていたのは、まさにこうした「軽やかさ」そのものだったのではないだろうか。

 ロンドン行きの飛行機に乗りこむ少女たちは、文字通りの意味で「日常から緩やかに飛翔し、再び日常に緩やかに着地する」。けれどもそれは、見知らぬ異国の地で大事件に巻きこまれ、以前よりもひとまわり成長して帰ってくるということでは決してない。映画公開前にロンドン暴動が起こったこともあって、彼女たちの音楽が混乱を鎮めるとか、怒れる群衆を導くとかいうマクロス的風説が乱れ飛んだこともあったが、もちろんそんな展開にはならなかった。そうではなくて、彼女たちにとってはロンドンも学校もほとんど変わらないということ、そしてその事実に気づかされるということが重要なのだ。たしかに小さな失敗はいくつも描かれている。言葉が通じない、スーツケースが届かない、タクシーで酔う、ホテルをまちがえる、お寿司を食べられない、ドライヤーから火花が飛ぶ、本場のアフタヌーンティーにありつけない──だがこれらの微笑ましい出来事は、少女たちの日常を脅かすものというよりは、思い出をいっそう色鮮やかに彩るものにほかならない。彼女たちは〈いつか・どこか〉に魅せられているわけでも、また〈いま・ここ〉に縛られているわけでもない。鳥のように軽やかに大空へと舞い上がり、また大地へと舞い降りること。本当はそれはメールの送信ボタンを押すように簡単なことなのだ。少女たちの華奢な背中には、いつしか天使の翼がひるがえっていた。

映画けいおん!』は天使をめぐる物語である。なぜなら「軽やかさ」とは天使の属性であり、翼あるものの特権なのだから。ひとり残される後輩のために、空を見上げながら先輩として何ができるか思いをめぐらせていたとき、そのことはすでに予感されていた。青空に流れる飛行機雲の白い航跡が、少女たちの行き先を告げている。あるいはロンドン滞在の最終日、ジャパンフェス会場でのライブ演奏のシーンでは、夕暮れの空にクロスする飛行機雲が風に流され、まるで天使の翼のように漂っていた。立ちこめる放課後の光に見守られながら、少女たちの等身大の歌詞が異国の空に響きわたる*5。日本語で披露された『ごはんはおかず』は、近景と遠景を媒介する放課後の空気を振動させ、両者のあいだに広がる距離を軽やかに飛び越えていく。そのようにして〈いつか・どこか〉にありながら、つねに〈いま・ここ〉にあるということ。それは彼女たちが「関西人」であり「ロンドン人」であり──「どないやねん」──、そして翼をもった小さな天使であることを示唆している。母の胸に抱かれた赤ん坊と視線を交わし、同時に視界の端に鳥の姿をとらえたとき、最後の空欄を埋める言葉がロンドンの風に混じる。振り返るとそこには、いつもと変わらぬ少女の微笑みがあった。

 ロンドンから帰国した少女たちは、かつて願ったものがすでに与えられていたことに気づく。それは言うまでもなく、テレビシリーズの『けいおん!』第1話で演奏された『翼をください』のことである。だが彼女たちに翼を授けたのは誰だったのだろうか。ロンドンへの卒業旅行は、ひとりの少女の「名前」をめぐる旅でもあった。まるで子猫のように愛らしい彼女の名前は、機内食を待つあいだに「あずにゃん」から「Az-cat」へと翻訳される。鼻にかかった「にゃん」と跳ねるような「cat」のちがいは決して小さなものではないが、この耳慣れない愛称は「あずきゃっと(く)[=預かっておく]」として動詞化され、少女たちの親密なコミュニケーションへと差し戻されていく。したがって彼女が「靴ずれ」を起こすのは偶然ではない。「あずにゃん」はしだいにずらされ、意味をもたない音素へと分解されて、隠された名前を暗示するアナグラムへと変容する。それは「あずにゃんにゃんにゃん、あずにゃんにゃんにゃん」という果てしないリフレインを解除するために必要な手続きでもあった。反復と回転、リサイクルとリユースの円環から、ときおり啓示の風が吹きつける。

あずにゃん」という名前に預けられていたもの、とはつまり「預言」が不意に姿を現すのは、ライブの前夜、ホテルでくつろぐ少女たちのベッドの上である。『ごはんはおかず』を英訳する過程で、受験英語のありふれた構文が呼び出される。彼女たちはそれをほんの少しだけずらし、書き換える──「not so much A as にゃん」。無理に直訳すれば「Aというよりむしろ[あず]にゃん」という意味にでもなるだろうか。あるいは「あずにゃん」と「Az-cat」から「にゃん=cat」を代入して、「Aというよりむしろ猫」と訳すこともできるかもしれない。だがそうだとするなら、ここで比較されている大文字の「A」とはいったい何だろうか。それはもちろん「not so much A as B」という構文の名残りであり、それ自体としては何の意味ももたない。けれどもひとたび「B」が「にゃん」に置き換えられてしまうと、比較対象を分離するはずの「as」が「にゃん」へと引き寄せられ、構文全体の意味が崩壊する。「as にゃん」の引力が意味を引き裂き、アルファベットの瓦礫のなかに「A」が舞い降りる。ふわりと降り立った三角形の文字像、それはツインテールの少女をかたどったヒエログリフ*6。彼女は翼のように長い髪を左右に垂らし、再び意味が充填されるのを待っている。少女たちはまだ気づかない。子猫の傍らで眠っていたひとりの少女、夜中にふと目を覚ました彼女だけが、夢のなかで何か「すごい大発見」をしたことに気づく。「にゃん」ないし「cat」に先行し、「というよりむしろ」というかたちで抑圧される大文字の「A」。それが意味するものとは、ほかならぬ「あずにゃんAznyan」の「A」であり、「アレゴリー[=寓意]Allegory」の「A」であり、そして──「天使Angel」の「A」である。

 少女たちに翼を授けたのは、猫をかぶった小さな天使だった。とはいえそのことをはっきりと自覚するのは、ようやく卒業式当日の朝になってからである。部室の向かい側にある屋上への扉が開かれ、降りしきるまばゆい光のなか、少女たちは歓声を上げて走る。軽やかに、軽やかに。画面は真っ白にハレーションを起こし、無数のたまゆらが踊っている。音楽室では小さく折りたたまれていた翼を、まるで深呼吸でもするかのように、思いっきり広げてみる。不意に強い風が吹きつけ、彼女たちの柔らかな髪を揺らす。白い飛行機雲。飛翔する鳥の羽ばたき。風に乗って降りてくる言葉。それは誰に呼びかける詩だったのだろうか。「君」でもなく「子猫」でもなく、そうだ、彼女は「私たちに翼をくれたちっちゃくて可愛い天使」だった。風はそのまま天使に知らせを運んでいく。あの謎めいたセリフ──「あんまり上手くないですね!」──を解釈する必要はもうない*7。私たちは彼女が誰であるかを知っている。天使にふれたことを、翼を与えられたことを知っている。

 放課後の光と風のなかを駆ける少女たちの、羽根のように軽やかな足どり。彼女たちは〈いま・ここ〉の重力とも、また〈いつか・どこか〉の引力とも無縁である。足元を映すフレームの外側には、風を受けてはためく天使の翼がひるがえっている。黄金色の過去から吹きつける歴史の風にあおられて、少女たちは未来のほうに押し流されていく。いまにも浮き上がりそうになりながら、互いにしっかりと寄り添って、前を向いて。それは飛翔するための助走だ──軽やかなる空へ!


*1:東浩紀宇野常寛黒瀬陽平・氷川竜介・山本寛「物語とアニメーションの未来」『思想地図 vol.4』NHK出版、2009年、204頁。

*2:宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011年、392頁。

*3:志津A「日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」『アニメルカ vol.2』2010年、9頁。

*4:同上、10頁。

*5:映画の冒頭で再生された「DEATH DEVIL」の曲名が『光』であることを考慮するなら、この暖かな放課後の光は、少女たちの生を祝福する先行世代の遺産としてとらえられるかもしれない。

*6:ヒエログリフというのは、古代エジプトで使用された神聖文字のことである。劇中に何度か登場する「ロゼッタ・ストーン」には、同じ内容がヒエログリフとデモティック(民衆文字)、ギリシャ文字で記されており、1882年にフランスのシャンポリオンによって解読された。「宇宙との交信」──とはつまり〈いつか・どこか〉への接続──を試みる「オカルト研」とのつながりを示唆するものとして、無視することのできない重要なモチーフのひとつである。

*7:この問題については、拙稿「ツインテールの天使──キャラクター・救済・アレゴリー」『セカンドアフター vol.1』2011年、8-56頁を参照。