てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

ワルプルギスの夜:『魔法少女まどか☆マギカ』——風景の/による革命

まだ『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)を見ていないという人は、僕のつまらない文章を読んでいるヒマがあったら、いますぐ視聴するべきだ。ほんの一部でもいい。検索窓にキーワードを打ち込もう。…それから興奮冷めやらぬ頭で、またここに戻ってきてくれると嬉しい。
僕は個性的な演出で知られるアニメ制作会社「シャフト」の信者でもアンチでもないが、昨夜は興奮してなかなか寝つけなかった——それは悪夢的な体験だった。僕の部屋の小さな液晶画面のなかに、まったく新しい「風景」が広がっていた。文字通りの意味で、だ。
僕はいま風景と言った。『まどマギ』が切り開いた——むしろコラージュしたと言うべきかもしれない——新しい風景。だがアニメの風景とは何だろうか。少し寄り道しよう。
ゼロ年代、深夜アニメのメインストリームは、いわゆる「セカイ系」から(「バトロワ系」を経て)「空気系」へとしだいにシフトしていったと考えられている。異論はさまざまあるだろうし、無視すべきでない例外もたくさんあるが、とりあえずそのような認識が広く受け入れられていることは事実だ。僕も何となく正しいと思う。
けれども不満がないわけではない。セカイ系にせよ空気系にせよ、アニメを語る僕たちの語り口は、しばしばあまりにも「物語」に、あるいはその反対の極である「キャラクター」に捕われすぎていたのではないか。物語がつまらないと言われればキャラクターが可愛いと反論し、キャラクターが古いと言われれば物語に新しさがあると主張する。僕たちはその両極端のあいだを、ここ10年行ったり来たりしていたのではないだろうか。
僕がここで風景と言ったのは、そういう現状を踏まえてのことだ。セカイ系も空気系も多いに語られた——実に結構。しかしそのほとんどは、セカイ系の脚本、あるいは空気系のキャラクターデザインに一喜一憂していただけではないのか。アニメは小説ではないし、ましてや紙芝居でもない。僕たちはそろそろ映像について語るべきだ。セカイ系のセカイ、空気系の空気について語るときがきたのだ。…映像そのものへ!
できるだけ手短に、セカイ系のセカイの話をしよう。美しいグラデーションを描いて、キャラクターを支える堅固な大地から、果てしない宇宙の暗闇へと一直線につながる透明なセカイ。新海誠が「発見」した風景は、僕たちの視界をさえぎる中景が存在しないセカイだ。そびえ立つ真っ白な塔が、あるいはロケットエンジンの白い軌跡が、僕たちのまなざしを近景から遠景へと瞬時に連れ去っていく。新海のあまりにも美しい——としか言いようがない——風景が喚起するもの、それは永遠への憧れである。そこに中景は存在しない。社会は存在しない…。
空気系の空気とは何か。それは遠景なき風景だ。近景と中景から織りなされる小さな空間——それはたとえば、放課後の部室のようなものかもしれない。四方を壁に囲まれ、小さな窓からときおり光や風が舞い込む、穏やかな教室。そのなかで少女たちが世間話に花を咲かせ、太陽の光を浴びて細かなほこりが——宇宙の星ではなく!——きらきらと輝く、そんな風景。恋も憧れもない、けれども弦の振動を、あるいは声の震えを伝える空気は、そこにたしかに存在する。『けいおん!』の風景。
さてこれまで僕たちは、アニメを「遠近法」のメタファーで語ってきた。近景・中景・遠景。しかしこれはたんなるレトリックではない。それは心理的な距離であると同時に、具体的な距離の問題でもあるからだ。僕たちは近くにあるものに親しみを覚えるし、遠くにあるものに憧れや疎外感を抱く。人間関係を近さと遠さで表現することに、違和感を覚える人はいないだろう。これは認知言語学の用語で言えば、(たぶん)メタフォリカル・マッピングというやつである。そして僕は遠近法のメタファーを、さらにコンピューター・グラフィックス(CG)の「レイヤー」構造にもマッピングしたい。どういうことだろうか。
キャラクターと風景は別々のレイヤーに描かれている。僕はアニメを作ったことがないのでたしかなことは言えないが、それぞれが互いに浸透し、干渉し合わないように、キャラクターは一番上、背景は一番下に置かれているのがふつうだと思う。言い換えれば、近景はキャラクターを中心とした「動く」レイヤーであり、それに対して遠景は、比較的「動かない」レイヤーだということになるだろう。
このように捉え直したとき、たとえば新海誠が生み出したセカイの特徴は、次のようにまとめることができるのではないか——近景と遠景の分断。煩悶する内省的なキャラクターと細密に描き込まれた美しい風景とが、互いにほとんど無関係なまま——そしてそれゆえ涙を誘う——重ね合わされている。これに対して『けいおん!』はどうか。部室に流れる穏やかな空気は、キャラクターのさりげない仕草や髪の毛の流れ、つまり微細な近景によって醸し出されているように思われる。キャラクターは一段「下」あるいは「奥」のレイヤーに干渉し、部室のホワイトボードに落書きするように、あるいは校庭の銅像を着せ変えるように、風景を書き換えていく——近景によってある程度干渉可能なレイヤー、僕はそれを「中景」と呼ぶことにしたい。ほとんど直観的に語ってしまったが、おそらく詳細な映像分析によっても、似たような結論が引き出せるのではないかと思う。
それでは『まどマギ』の風景を見てみよう。興奮しすぎてぼんやりとした記憶を頼りに、それでも何とか再構成してみると、まずキャラクターの日常風景からしておかしいことに気づく。あまりにも人工的な描線と配色が、パステルカラーの萌えキャラと鋭い対立を成している。「キャラクターが浮いている」と感じた人は少なくなかったはずだ。レイヤーとレイヤーのあいだの「ズレ」が露出し、近景から遠景へとなだらかにつながっていくはずの風景にある種の軋みが生じている。白い塔の外壁に、あるいは穏やかな教室の窓に、深刻な亀裂が走っている。
しかしそれだけなら、いつものシャフト作品とさしてちがわない。問題は戦闘シーンだ。レイヤー同士の決定的なズレは、やがて争いに変わる。どう表現したらいいだろうか…いささか抽象的な言い方になることを許してほしい。そこではいわば風景が解体され、遠景が遠景であることをやめる。レイヤーとレイヤーのあいだで戦いが起こり、キャラクターが風景そのものと対決する——自らの自立性を賭けて。遠景が動きだし、キャラクターよりも手前に、上位のレイヤーに侵攻する。風景はいまや祝祭的であり悪夢的であり、コラージュされた無数の素材と過剰なエフェクトが氾濫し、キャラクターの色彩と輪郭線を占領しようと攻めたてる。これまでキャラクターを支え、生かし、そのリアリティを保証してきた母なる風景の、風景による「革命」。これは文字通り革命だ。そこには僕たちの憧れを喚起する遠いセカイも、穏やかに包み込む空気も存在しない。キャラクターに牙を向き、猛然と襲いかかるむき出しの「映像」だけがある。
映像表現として見たとき、これまでアニメの風景ほどつまらないものはなかった。というのもそれは、キャラクターに奉仕し、キャラクターに生気を与え、キャラクターを自立させるためだけに存在してきたからだ。セカイ系のセカイはキャラクターに干渉せず、空気系の空気はキャラクターの意のままだった。風景は手足を縛られ、レイヤーの奥底に押し込められていた——『まどマギ』が解き放つまでは。いまやキャラクターが立ち向かわなければならないのは、別のキャラクターでも物語のプロットでもない。そうではなくて、敵は破壊的な風景そのものであり、自らを支える文法——キャラクターを構成する描線と色彩、これを僕はキャラクターの「実存」と呼びたい——を揺るがす多様な映像表現それ自体である。アニメの映像論的転回。その果てにいったい何があるのか。『まどマギ』の戦争は、まだはじまったばかりだ。