てらまっとのアニメ批評ブログ

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敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と「青春ヘラ」「負けヒロイン」についての覚え書き

 ここ最近、ゼロ年代批評に造詣の深い紅茶泡海苔さん(@fishersonic)の企画で、かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインさん(@wak)、大阪大学感傷マゾ研究会さん(@kansyomazo)、早稲田大学負けヒロイン研究会さん(@LoseHeroine_WSD)らとオンラインでお話しする機会があり、「感傷マゾ」や「青春ヘラ」「負けヒロイン」といった概念についていろいろ教えてもらった。当日の録音アーカイブYouTubeで公開しているので、興味のある方は聴いてみてほしい。

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 動画のタイトルにもあるように、これらの長い長い会話は「2020年代の批評ライン」の一環として企画されている。それが具体的にどのようなラインなのかは、動画のなかで断片的に語られている(ような気がする)ものの、全貌は私にもよくわからない。たぶん提唱者の紅茶泡海苔さんが、いずれどこかの媒体で発表することになるのだと思う。

 本稿はこの2つの会話をきっかけに私が感じたこと、考えたことを暫定的にまとめた覚え書きのようなものだ。そのため、個々の概念の理解や解釈については、感傷マゾ・負けヒロイン各研究会の公式見解と食い違っている可能性も少なからずある。というより、私自身の問題意識に強く引きつけて書いているせいで、おそらく両研究会の趣旨をかなりの程度ゆがめてしまっている。いちおうそれぞれの主宰者には目を通してもらってはいるが、筆者のバイアスが多分に入っていることをあらかじめ承知して読んでほしい。(以下敬称略)

 さて、私が個人的に気になっているのは、「感傷マゾ」や「青春ヘラ」「負けヒロイン」といった比較的新しく見える概念が、いわゆる「ゼロ年代批評」とどのような関係にあるのか、ということだ。紅茶泡海苔は当初、東浩紀宇野常寛に代表されるゼロ年代批評をモデルとした批評シーンの再興を企図しており、その過程でこれらの概念やそれを扱う各研究会を「発見」したかのように見える。けれども、それらは必ずしもゼロ年代批評とは直接関係がない──というか、むしろ全然違うところが出てきたものだ。にもかかわらず、私は(そしてたぶん、紅茶泡海苔も)この2つのグループのあいだに、ある種の連続性があるのではないかと考えている。

※本稿では諸般の事情により「感傷マゾ」には立ち入らない。気になる方は各自で検索してほしい。

 「青春ヘラ」とは何か。この言葉を作り出した大阪大学感傷マゾ研究会の記事*1をもとに私なりにまとめると、それはノベルゲームやアニメ、漫画、ライトノベルなどの若者向けフィクションで描かれるような輝かしい「青春」を送ることができなかった(と感じている)高校生や大学生が、その苦い記憶をいつまでも引きずり、自己愛の裏返しとしての自己嫌悪や自己卑下にとらわれ、否定的なアイデンティティを獲得してしまうことを指す。「ヘラ」というのは「メンヘラ」、つまり心の健康に問題を抱える人を意味するネットジャーゴンに由来する。同研究会の記事では「青春敗北者」という印象的な言葉も用いられている。

 他方で「負けヒロイン」とは、夜須田舞流のリサーチ*2によると2010年代後半頃に広まった言葉で、やはりライトノベルなどの若者向けフィクションにおいて、最終的に男性主人公の恋人としては選ばれなかったヒロインを指す。こちらは青春ヘラとは違い、若者の自意識というよりは物語のキャラクター類型に関するものだが、そこにもやはり、ある種の「敗北」の感覚が深く影を落としているように見える。早稲田大学負けヒロイン研究会の主宰者は、とあるフィクション作品で自分の好きなヒロインが「負け」たことをきっかけに、これまで自分が好きだったヒロインがことごとく「負け」ていることに気づき、やむにやまれず会を立ち上げたという。

 一見すると、これらは2000年代に一部の若者のあいだで流行した「批評」とはかなり異なるように思える。仮にこの批評という言葉を、個々人の私的な「感想」から区別される、ある程度の客観性を志向した価値評価(evaluation)の営みとして理解するなら*3、そこには当然、自分とは異なる価値観を持った他者への「批判」や「説得」のプロセスが含まれるだろう。プロ・アマ問わず、しばしば批評家同士が派手に喧嘩したり対立したりするのは、この批評という営み自体の闘技的ないしスポーツ的な性格に由来している。批評家志望の若者を募って選抜する「東浩紀ゼロアカ道場」(2008~09)などは、当事者ではないため推測にすぎないが、まさにその最たる例だったように思う。

 けれども、オンラインでお話をうかがうかぎり、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会の主宰者にはそのような動機があまり感じられない。それどころか、価値観の異なる他者との摩擦や衝突をできるだけ回避し、最初から同じ趣味嗜好を持つ人々とのみつながろうとする意識がきわめて強い。たぶん彼らは「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった概念を、他者の説得や自己の正当化のために使おうとはあまり考えていない。もちろん、こちらから説明を請えば快く教えてくれるが、その語り口もそれぞれの概念の内実と同様、どこか自虐的・自嘲的で、自分たちの価値評価(カントの言葉でいえば「趣味判断」)をまったき他者と共有しうる、普遍化しうるとはそもそも信じていないふしがある。要するに、紅茶泡海苔が「2020年代の批評ライン」と名づけたものは、少なくとも私から見ると、批評という営みからきわめて遠いのだ。

 にもかかわらず、というよりだからこそ、私はそこにゼロ年代批評との逆説的な連続性を感じてしまう。もはやかつてのような「批評」が事実上失効していることを、彼らの防衛的な振る舞いが如実に示しているように思えたからだ。

 ゼロ年代批評のグルとして君臨した東浩紀は、『動物化するポストモダン』(2001)の続編となる『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)のなかで、たんなる男性向けポルノグラフィとみなされていた美少女ゲームを本格的な批評の俎上に載せ、PCゲームのシステムと結びついた物語構造を鮮やかに分析してみせた。『AIR』(2000)をはじめとする一部の美少女ゲームには、少女を「所有」したい(つまりはセックスしたい)というプレイヤーの家父長制的な欲望を想像的に満たすと同時に、その欲望に「反省」を迫り、内向的なオタク男性の「ダメな僕ら」という自己欺瞞を解体する批評的な構造が備わっている、と東は主張した。

 これに噛みついたのが宇野常寛だ。宇野は『ゼロ年代の想像力』(2008)のなかで、東のいう「反省」がたんなるポーズ、彼の言い方では「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎず、結局は家父長制的な欲望が温存・強化されていると厳しく批判した。宇野に言わせれば、それは中年男性が女子高生と援助交際した後に、自分の後ろめたさを解消するために「こんなことをしていちゃいけないよ」と説教するようなものでしかない。彼はそうしたコンテンツ一般を「レイプ・ファンタジー」と呼んで切り捨てている。

 私個人としては、宇野の批判もわからなくもない一方、東の美少女ゲーム論にはいまなお参照されるべき重要な成果があると考えている。けれども、ここであらためて確認しておきたいのは、宇野の苛烈な批判がたんに東ひとりに向けられたものというより、彼の強い影響下にあったゼロ年代(前半)批評のシーンそのもの、いわば「東チルドレン」全体に向けられていたことだ。宇野は東によるセカイ系論や美少女ゲーム論が、それらを愛好する若いオタク男性に「ある種の免罪符として消費されることで無批判に受け入れられている」*4状況に苛立ちを隠さない。つまり、宇野の批判のポイントは、東の美少女ゲーム論の問題点を指摘するにとどまらず、それを「免罪符」として「ダメな僕ら」の自己正当化を図り、ポルノグラフィを「文学」とうそぶく東チルドレンを一掃することにあったわけだ。『ゼロ年代の想像力』のなかで、彼は2000年代前半の状況を次のように総括している。

東の両義的な評価をご都合主義的に解釈することで、ゼロ年代前半のサブ・カルチャー批評の世界は、もっともマッチョでありながら、そのことに無自覚な鈍感な想像力が「文学的」「内省的」であると評された時代を迎えた。だがそんな不毛な時代はもう終わりにしなければならない。結論ありきの自己反省パフォーマンスは、むしろ文学の可能性を剥ぎ取り、より単純化された思考停止に人々を導いていくのだから。*5

 当時の宇野の批判に対して、東が正面から反論したという話は寡聞にして知らない*6ツイッター上ではやり合っていた気がするが)。むしろ両者はその後接近し、2010年代前半に『AZM48』の権利問題をきっかけに決裂するまで一緒に仕事をしている。ともあれ、若者向けコンテンツを対象とした批評シーンは、2011年の東日本大震災福島第一原発事故による社会問題への関心の前景化や、同年の『フラクタル』騒動による東の離脱もあって急速にしぼんでいく。2000年代前半が「不毛な時代」だったかはともかく、一部のオタク男性のある種の「自己表現」としてのゼロ年代批評は、宇野の批判に適切に応答することなく退潮してしまった。近年SNS上で戦われている「表現の自由」論争には、後で述べるように、このときの「敗北」の記憶が遠く反響しているように思える。

 私が「青春ヘラ」や「負けヒロイン」を掲げる研究会から感じるのは、私自身とよく似た「ダメな僕ら」、つまりは「主体性の根拠を失い、父性や男性性を無自覚に担うことができず、文学的な内面を抱えた男性」*7としての自意識だ。そういう意味では「2020年代の批評ライン」もまた、ゼロ年代批評とほとんど同じような心性に支えられている気がするが、それでも2000年代とは決定的に異なる点がひとつある。そもそも彼らが「批評」を志向していないように見えることだ。そして私の考えでは、まさにこの点こそが、ゼロ年代批評との断絶にして継承なのである。

 紅茶泡海苔が企図していたように、仮にゼロ年代批評をモデルとする批評シーンを再興しようとするなら、東チルドレンが2000年代にやり残した課題、すなわち宇野による「ダメな僕ら」批判に正面から応答しなければならないだろう。けれども、私の見るかぎり、この課題をクリアするのは当時よりも現在のほうがはるかに難しい。いわゆる「リベラル」な価値観が一般化し、社会的・制度的な不利益を被っている女性やマイノリティの権利保護の要求が日増しに高まり、「価値観のアップデート」に乗り遅れた男性がフェミニストから糾弾される2020年代の日本社会で、コロナ禍があったとはいえアニメや漫画のような青春を送れなかったことへの鬱屈とか、主人公に選ばれなかったヒロインへの哀惜とかいったものを、真剣な議論に値するテーマとして正当化しうるとは思えないからだ。そんなものは所詮、フィクションに耽溺する若い高学歴オタク男性のナルシシズムでしかなく、自身の恵まれた境遇にあぐらをかいて現実の諸問題から目をそらしているにすぎない──こう言われたらたぶん、反論するのは難しいだろう。

 急いで付け加えておくと、だからといって私は、感傷マゾ研究会や負けヒロイン研究会を批判したいわけではまったくない。気候変動とかSDGsとかLGBTQ+とかの話をすべきだと言いたいわけでもない。そうではなく、私がここで強調したいのは、彼らがそうした批判の妥当性をあらかじめ深く認識しているということだ。

 「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、それらに執着してしまう「ダメな僕ら」のごく個人的な問題にすぎず、ポルノグラフィックな美少女ゲームと同様、もはや社会的に正当化するのが困難であることを、両研究会はおそらく完全に理解している。だからこそ、彼らは「批評」という論争的なフォーマットを採用せず、あくまで「自分語り」的な文体にこだわることで*8、2000年代に比べてはるかに道徳化・倫理化した社会から身を守ろうとしているのではないか。つまり、宇野による「安全に痛い自己反省パフォーマンス」批判に反論するどころか、逆にそうした批判を「正論」として受容し内面化した結果として、「2020年代の批評ライン」が形成されているように思えるのだ。私のいう「ゼロ年代批評との断絶にして継承」とは、おおよそこのような意味である。

 もちろん、これは感傷マゾ・負けヒロイン両研究会で実際に『ゼロ年代の想像力』が読まれているということではない。彼らより一回り以上年長の中年男性で、いわゆる「ゼロ年代の亡霊」にすぎない私が、無理やり自分の問題意識と結びつけているにすぎない(その暴力性もいちおう認識してはいる)。けれども、東に対する宇野の批判をあらためて議論の出発点に置いてみると、「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった個別の概念のみならず、現在の(とりわけSNS上での)批評=批判をめぐる状況がいくぶんクリアに見えてくるような気がするのだ。

 私の印象では、いま最も強力な批評的=批判的言説はフェミニズムである。これはフェミニズム批評が他の方法論よりも優れているということではなく、個人と社会とをダイレクトに接続する回路としてきわめて効果的に機能しているということだ。「個人的なことは政治的なこと」という1960年代の有名なスローガンのとおり、フェミニズムは女性ひとりひとりが抱えている生きづらさを、そのまま社会全体の問題へと引き上げることができる。「あなたが苦しいのはあなたのせいじゃない、女性差別的な日本社会のせいだ。一緒に社会を変えていこう」というわけだ。こうした傾向は近年、SNSの活用によって劇的に加速し、ハラスメントなどの問題を起こした男性を集団で追い込んで「キャンセル」したり、女性に対する「性的消費」を促進すると判断した図像を撤去させたりする「ハッシュタグ・ポリティクス」として結実する。

 その一方で、私の見るかぎり、男性には女性にとってのフェミニズムのような、個人と社会とをつなぐ回路が「仕事」以外に存在しないか、存在したとしてもほとんど機能していない。そこからドロップアウトした一部の男性がどれほど自分の生きづらさに悩んでいても、それはいわば「自己責任」であって、社会的に解決されるべき問題とはみなされない。男性にとってはあくまで「個人的なことは個人的なこと」*9なのだ。たしかにフェミニストからすれば、依然として男性優位の日本社会で、男というだけで「下駄を履かされている」にもかかわらず、なお生きづらさを訴えるような男性にかまっている余裕も理由もないだろう。彼ら/彼女らに言わせれば、それは男性自身が生み出したマッチョな価値観、いわゆる「有害な男らしさ」にとらわれているせいであり、そこから「降りる」ことで自己解決を図るしかない、というわけだ。

 だが「男性性から降りる」ための具体的な手続きが明らかでない以上、少なくとも「価値観のアップデート」が完了する(?)までは、現実では受け入れられない願望をフィクションを通じて想像的に満たすことが必要になってくる。自己と社会とをつなぐ回路を見失った、あるいは見失いがちな男性にとって、いまも昔もフィクションが心身ともに大きな慰めになっていることは明らかだ。

 そもそも東の美少女ゲーム論自体が、すでに見たとおり、フェミニズム的な「家父長制」批判を強く意識しつつ、それでもある種の「文学」として一部の美少女ゲームを擁護してみせる、きわめてアクロバティックな試みだった。ゼロ年代批評の盛り上がりの背後に、東の議論を「免罪符」として受容した若いオタク男性のセクシュアリティの問題があったことは無視すべきではない。そして彼らに対する宇野の批判は、東の美少女ゲーム論を流用して築かれたささやかな自意識の拠点を断固粉砕しようとする、フェミニズム的な批判の徹底として現れた。つまり、ゼロ年代批評のひとつのハイライトは、ともにフェミニズムを内面化した2人の男性批評家によって演じられたのだ。

 このように考えると、宇野による「安全に痛い自己反省パフォーマンス」「レイプ・ファンタジー」といった痛烈な批判が、リベラルとフェミニストに席巻された現在の「政治的に正しい」言論市場を正確に予言したものであることがわかる。そこに「ダメな僕ら」の居場所はない。家父長制的な欲望を嫌悪しながらも手放せない、屈折したオタク男性の自意識を受け止める場所はない。それはもはや決して正当化されえず、フィクションを通じてこっそりと、想像的に満たされるべきものでしかない。

 かくしてオタク男性は批評=批判のアリーナで劣勢に立たされ、日本国憲法に記された「表現の自由」という最後の砦に立てこもる。SNS上で一部の男性アカウントが「表現の自由戦士」と揶揄されるほどフィクションへの表現規制に激しく抵抗するのは、言うまでもないことだが、彼らが憲法の理念をことさらに重んじているからではない。そうではなく、自らの欲望の受け皿がもはやフィクションのなかにしか存在しえないことを知っているからだ。それはある意味で「レイプ・ファンタジー」批判への居直りとも言える。フィクションの美少女を想像的にレイプする(?)権利は憲法で認められている、というわけだ。そう考えると、昨今の「表現の自由」論争は、敗走を重ねたゼロ年代批評の最後の戦場、つまりは本土決戦なのかもしれない。

 かつて東は『動物化するポストモダン』のなかで、当時のオタクたちが人間性と動物性を乖離的に共存させる特殊な主体を形成していると論じた。けれども、私の見るかぎり、2020年代表現規制反対派が抱える分裂はそれよりはるかに深刻化している。彼ら(というか私)は、自分がまさにそのフィクションに日々慰められているにもかかわらず、というよりだからこそ、それが現実とはまったくの無関係であることを強調しなければならない。生身の人間よりはるかに深い愛着を抱いているにもかかわらず、というよりだからこそ、彼女がたんなるフィクショナル・キャラクターでしかないことを強調しなければならない。そうしなければ、「戦士」たちの休息の場はたやすく失われてしまう(と信じられている)からだ。愛することが同時に愛の否認でもあるようなこの新たな分裂は、ポストモダンな社会構造というより、リベラル+フェミニスト連合軍に対する防衛戦というきわめて政治的な状況布置によって引き起こされている。党派的なアンチ・リベラルやアンチ・フェミニズム、あるいはミソジニーに陥ることなく、この分裂をひとつの倫理として保ち続けるのは難しい。

 すでに述べたとおり、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会はいまのところ、こうした批評=批判のアリーナには上がろうとしていない。セカイ系的な「ダメな僕ら」を自己否定し、サバイブ系の主人公のように戦うそぶりを見せているわけではない。その代わりに、彼らは「表現の自由戦士」とは異なる仕方で、現代の男性性それ自体の困難、もっと言えば「敗北」と向き合っているように見える。もちろん、なかには女性会員や年長/年少の会員もいるのかもしれないし、そもそも公式には「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も若年男性限定のトピックというわけではないのだが、それでも私の目には、彼らが同世代のオタク男性にうっすらと共有されている「敗北感」に訴えることで、ある種のホモソーシャルな「連帯」を呼びかけているように映るのだ。そこでは誰が、何に敗北したかさえもはや重要ではない。それは青春かもしれず、受験かもしれず、就職かもしれず、あるいは人生そのものかもしれない。負けたのはヒロインではなく、自分だったかもしれない。

 感傷マゾ・負けヒロイン両研究会が「批評」というフォーマットを採用しないのは、こうした「連帯」を呼びかけるうえで合理的な選択であるように思える。繰り返しになるが、彼らが目指しているのは価値観の異なる他者、たとえば急進的なリベラルやフェミニスト、あるいは頭の固い先行世代を「説得」することではない。そうではなく、おそらくは似たような敗北感を抱える男性の「共感」を呼び起こし、彼らを迎え入れることで、ある種の互助的なコミュニティを形成することにある。先に触れた「自分語り」的な文体に加え、たとえば複数人でのリレー形式による連載記事*10などには、そうした方向性が端的に表れている。「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といったキャッチーな言葉を重視するのも、それらが一種のタグとして機能し、SNS上でのマッチング精度を高めてくれるからだろう。その意味で両研究会の戦略は、どちらかというとフェミニズムの文脈における「#MeToo」運動に近い。とはいえ、彼らは社会変革を志向していないという点で、ベクトルが大きく異なるのだが。

 仕事以外に社会とつながる回路を事実上持たなかった男性にとって、フィクションを含む「趣味」を媒介にしたゆるやかな相互扶助は、精神衛生上、きわめて重要な意味を持つ。それがいわゆる「メンズリブ」と異なるのは、両研究会が「有害な男らしさ」からの脱却を目指すどころか、むしろ自身の家父長制的な欲望をかなりの程度容認しつつ、半ば自虐的・自嘲的な振る舞いを通じて「安全に痛い自己反省パフォーマンス」を実践していることだろう。

 冒頭で紹介した動画のなかで、「感傷マゾ」の創始者であるかつて敗れていったツンデレ系サブヒロインは、宇野による美少女ゲーム批判に言及した私に対し「でも『安全に痛い自己反省パフォーマンス』だから気持ちいいんじゃないですか」と応答している。一見するとただの居直りにも思えるこの切り返しに、私はたいへん感銘を受けた。自身の趣味嗜好に対するフェミニズム的な批判に向き合ったうえで、いたずらに反論や自己正当化を試みるのではなく、あえて「それが気持ちいい」という美学的なカテゴリーへとずらしてみせること。家父長制的な欲望から自由になれない「ダメな僕ら」を引き受けつつ、「政治的正しさ」の要求をフィクションのただなかで美的に、あるいはマゾヒスティックに反芻し続けること。私の見るかぎり、ここには東の美少女ゲーム論の最も核心的な部分が、いわゆる「批評」とは異なる仕方で引き継がれている。そして、このぎりぎりの肯定/抵抗の身ぶりは、多かれ少なかれ、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会にも共通して見られるような気がするのだ。

 もちろん、そこに何か新しさがあるかと言えば、必ずしもそうではないかもしれない。2000年代以前、それどころか先の戦争での敗北からずっと、男性の屈折した自意識の問題を引きずっているだけなのかもしれない(私には十分展開することができないが、「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった概念を、江藤淳加藤典洋の問題意識に接続することは決して不可能ではないように見える)。両研究会が志向するホモソーシャルな互助的コミュニティに関しても、すでに宇野の『ゼロ年代の想像力』のなかに、セカイ系・サバイブ系を乗り越える「空気系(日常系)」の可能性としてあらかじめ書き込まれている。「敗北感」を共有する若者たちが集い、まだ何者でもない自分自身への不安に駆られ、互いの傷を舐め合いながら最後のモラトリアムを謳歌する──思えばいつの時代の青年も、そうやって大人になっていったのだろう。

 「自分がいかに負けたか」を切々と語れるだけの教育環境で育った彼らの多くは、各研究会に冠された一流大学を卒業した後、名だたる企業に就職し、あるいは大学院に進み、やがて家庭を持ち、相対的に安定した生活を送れる可能性が高い。目の前の仕事に忙殺されるうちに、いつしか「ダメな僕ら」という自意識は薄れ、かつての「敗北」の記憶も遠ざかり、いやおうなく社会人としての自負と責任感が芽生えていくだろう。「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、いまとなっては大学時代の気恥ずかしい「黒歴史」のひとつにすぎなかったと、懐かしく思い出す日が来るのかもしれない。

 それでも彼らが、というより私たちが人生のどこかで運悪くつまずき、望まないn度目の「敗北」を喫したとき、せめてその「敗北感」を受け止めてくれるコミュニティが、あるいはフィクションが用意されていてほしい。公共空間でガソリンを撒き散らすことも、SNSでヘイトを書き散らすこともなく、ただ自虐的・自嘲的なネタでともに笑い合い、慰め合えるささやかなアジールが存在してほしい。いまだ制度的救済のおぼつかないこの社会にあって、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会の扉に掲げられているのは、かつて敗れていった者たちへの、そしてこれから敗れていく者たちへの親愛と連帯の挨拶なのだ。

 

*1:

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*2:

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*3:たとえばノエル・キャロル『批評について──芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年などを参照

*4:宇野常寛ゼロ年代の想像力』、早川書房、2011年、237頁

*5:ゼロ年代の想像力』、241頁

*6:2021年12月5日追記:東による宇野への反論は、たとえば『PLANETS』vol.4(2008)に収録された両者の対談などに見てとることができる。この点については完全に私の不勉強で、同書を貸してくれた倉津拓也さん(@columbus20)に感謝したい

*7:東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生──動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007年、320頁

*8:以下の2つの記事などを参照

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*9:かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインが本稿のラフに寄せてくれたコメント

*10:

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ポスト日常系アニメのハード・コア:室内空間の解体と『とある科学の超電磁砲S』

本稿は2014年3月に開催されたイベント《日常系アニメのソフト・コア》での発表原稿をまとめた同名の評論集に「あとがき」として収録したものです。

評論集のダウンロードは下記サイトより

secondafter.hatenablog.com

 

 日常系アニメに関するイベントをやろう、という話が最初に持ち上がったのは、たしか2013年秋の文学フリマ会場でのことだったように思う。今回のパネリストのひとりであるnoirse氏(@noirse)との立ち話のなかで、都内某所にある秘密の映画上映スペース「visualab」を借りて、アニメのトークイベントのようなものを開催できないか、という話になったのが発端だった。そのときは具体的な進展もなく別れてしまったが、その後、Twitterでのやりとりを通じて、評論系同人誌『セカンドアフター』主宰の志津A氏(@ashizu)に声をかけ、またS治氏(@esuji)にも参加してもらい、日常系アニメを振り返るシンポジウムを企画することになった。

 こうして2014年3月、visualabで《日常系アニメのソフト・コア》が開催された。シンポジウム当日の模様については、すでにtogetterにまとめられているので*1、詳しくはそちらを参照してほしい。このあとがきでは、そもそもなぜ日常系アニメに関するイベントを企画しようと考えたのか、その個人的な意図や動機を出発点に、昨今の「日常系アニメ以後」をめぐる状況を整理することにしたい。なお、シンポジウムおよび論集では、京都アニメーションを中心に日常系アニメの変遷について論じられているため、ここではやや異なった観点から、ポスト日常系アニメの物語=歴史を構築することを試みる。

日常系アニメのソフト・コアとは何か?

 今回のシンポジウムの目的は、「日常系アニメのソフト・コア」というタイトル通り、日常系アニメの「壊れやすい核(ソフト・コア)」を救い出すことにあった。というのも、ここ数年のあいだに日常系アニメを支えてきた社会的・経済的・技術的条件が変化するにつれて、その繊細な核が脅かされているように思われたからだ。

 では、日常系アニメのソフト・コアとはどのようなものか。ごく大雑把にまとめるなら、それは「ありふれた日常のうちに輝きを見出す」という価値観のことである*2

 日常系アニメのうちにこうした価値観が見出されることは、いまさら指摘するまでもないだろう。最近の事例をひとつ挙げるなら、たとえば2013年7月から9月にかけてテレビ放送された日常系アニメ『きんいろモザイク』のオープニング曲「Your Voice」では、冒頭から次のように歌われている。

ありふれた日々の

素晴らしさに 気づくまでに

ふたりはただ いたずらに時を重ねて過ごしたね*3

 日常系アニメの基本的なモチーフは、まさにこの「ありふれた日々の/素晴らしさ」をアニメートすることにある。それは典型的には、仲の良い女子高生や女子中学生のグループが、部活や恋愛や学業などに熱中しすぎることなく、学校の教室や部室でたわいないおしゃべりを繰り広げる──とはつまり「いたずらに時を重ねて過ご」す──ことによって表現される。一見どこにでもありそうな「日常」の風景を、ありそうもない「奇跡」として描くこと。さしあたってこれが、日常系アニメのソフト・コアと言えるだろう。

「日常」を支える室内空間

 では、この核が脅かされているとはどういうことか。危機の徴候はさまざまなかたちで表れているが、ここでは議論をわかりやすくするために、ある特定のカテゴリーに注目することにしよう。そのカテゴリーとは、少女たちの日常生活が営まれる「空間」である。

 そもそも、日常系アニメの前提となる「ありふれた日々」を成立させるためには、たとえば戦争や災害といったさまざまな生の理不尽から、少女たちを徹底して遠ざけなければならない。さもなければ、ある日突然大地震に襲われたり、テロに巻き込まれたりする可能性が生まれる──とまでは言わなくても、彼女たちのおしゃべりのなかに、政治や社会、経済、宗教などの物騒な話題が入り込んできてしまうだろう。これらは「現実」のままならなさを視聴者に思い起こさせ、作中で描かれる「ありふれた日々の/素晴らしさ」に影を落とすため、可能なかぎり排除することが望ましい。

 そこで、多くの日常系アニメでは、そうした面倒事から少女たちを隔離・保護するために、あたかも「繭」のような室内空間が用意されている。それが『らき☆すた』(2007年4~9月)や『けいおん!』(1期:2009年4~6月、2期:2010年4~9月)の教室/部室であり、また『ひだまりスケッチ』(一期:2007年1~3月、2期:2008年7~9月、3期:2010年1~3月、4期:2012年10~12月)のひだまり荘である。この安心・安全な空間は、彼女たちを優しく包み込み、外部からのわずらわしい情報を──まるで浸透膜のように──フィルタリングしてくれる。そこで描かれる「日常」は、作品外の「現実」と地続きのようでいて、(当たり前だが)実はまったく非現実的な「フィクション」にすぎないのだ。

 にもかかわらず、2000年代後半以降、一部の日常系アニメが熱狂的な支持を集めたのは、おそらくそれがたんなる「嘘」ではなく、ある種の「夢」を体現していたからだろう。1990年代後半から続く深刻な社会不安や経済不況のなかで、少なからぬ人々がそうした「現実」から解放された「ユートピア(どこにもない場所)」としての「日常」を夢見たとしても、決して不思議ではない*4

 いずれにせよ、ここで強調しておきたいのは、日常系アニメの舞台となる教室や部室、さらにはアパートといった室内空間が、少女たちを生の理不尽から隔離・保護する繭として機能していることだ。そして、それは同時に、この空間がたんに作品内の内部/外部を隔てるだけではなく、作品そのものを外部環境から閉じる「枠」としても理解可能であることを示している。つまり、作中で少女たちを戦争や災害、あるいはそれらの情報から遠ざけることが、その作品をまるごと「現実」から切り離し、ひとつのフィクションとして自律させるのである。『けいおん!』の音楽準備室の分厚い防音壁は、作品外からの騒音を遮断するフィクションの防波堤でもあるのだ。

室内空間の解体──進撃の巨人

 ところが、2010年代を過ぎた頃から、この安定した空間=作品構造がしだいに揺らぎはじめる。より正確に言えば、もはや安心・安全な空間を無条件に前提とするのではなく、むしろそうした空間の「破れ」や「綻び」に注目し、それに対処しようとする作品が増加しつつあるように思われるのだ。したがって、当然ながらそこでは、従来の日常系アニメとは大きく異なるタイプの物語および映像が生成されることになる。日常系アニメのソフト・コアが脅かされているというのは、このような状況認識を踏まえてのことである。

 たとえば、おそらく2010年代最大のヒット作のひとつである『進撃の巨人』(2013年4~9月)は、文字通り「壁」の外側から侵入してくる「巨人」に立ち向かう物語だった。巨大な壁に守られてきた「日常」はあっけなく崩壊し、人々はなすすべなく巨人に食い殺される。「ありふれた日々」を支える室内空間としての城壁都市が、巨人によって体現される生の理不尽──さしあたって巨人が(自然)災害の隠喩、というよりほとんど直喩であることは明らかだろう──を、もはや押しとどめられなくなっているのだ。こうして少年/少女たちは、たわいないおしゃべりで「いたずらに時を重ね」る暇もなく、巨人との絶望的な戦いに身を投じていく。

 その一方で、アニメ化された『進撃の巨人』では、自閉的な室内空間の解体にともない、より自由で解放的な運動が生み出されることになる。特殊な「立体機動装置」を装着した少年/少女たちは、建物の屋根や壁にワイヤーを打ち込み、まるでジャングルのターザンのように、あるいは遊園地のジェットコースターのように街中を自由自在に飛び回るのだ。教室や部室の壁に阻まれ、透明なカメラで少女たちの「日常」をこっそり覗き見ることしかできなかった視聴者は*5、いまや戦場の若い兵士の一人称視点を借りて、建物や巨人すれすれの空中を猛スピードで滑走する。

 こうしためくるめく運動の快楽は、今日ではCG技術の飛躍的な発展とカメラの小型化・高性能化によって広く一般化しており、たとえば『スパイダーマン』(2002年)をはじめとするハリウッド映画から、ウェアラブルカメラGoPro」によるパルクールやマウンテンバイクの動画にいたるまで、さまざまな映像作品に見出すことができる*6。だが、とりわけ『進撃の巨人』の場合、それが室内空間の解体と密接に結びついていることに注目すべきだろう。

 そもそも、日常系アニメの舞台となる教室や部室には、猛スピードで突進することを可能にするだけの十分な「奥行き」が不足している。だからこそ、『けいおん!』のオープニング映像では、カメラがまるで閉じ込められたハエのように、演奏する少女たちの周りをぐるぐると旋回し続ける(ことしかできない)のだ。つまり、『進撃の巨人』の目が回るような立体機動シーンは、舞台の書割のような室内空間を解体することで、はじめてアニメートすることが可能になったのである*7

学校の外へ──ラブライブ!』『ガールズ&パンツァー

 このような空間の変容は、たとえば『ラブライブ!』(1期:2013年1~3月、2期:2014年4~6月)や『ガールズ&パンツァー』(2012年10~12月)といった他の人気アニメにも見てとることができる。アイドルものと戦車ものという違いはあるが、どちらも学校を廃校の危機から救うために、少女たちが一致団結して「スクールアイドル」や「戦車道」の全国大会に挑む物語だ。とくに『ガルパン』では、少女たちの通う高校が空母の上に建てられており、彼女たちはいわば部室の代わりに戦車に乗り込むのである。

 これらの作品からうかがえるのは、室内空間の不安定化(廃校の危機)に直面した少女たちが、ときに空間そのものを頑丈で移動可能な兵器に作り変えながら、積極的に外部(全国大会)へと進出している──あるいは、進出せざるをえない──ことだろう。そこに競争や努力、あるいは勝利の肯定といった日常系アニメとは相容れない価値観が見られるとすれば、それはこうした空間の変容ないし解体と無関係ではありえない。外皮を失った日常系アニメのソフト・コアは、さまざまな生の理不尽にさらされることで、しだいに硬質化しつつあるかのようだ。

 もちろん、年間100本以上のアニメが放映される現在では、このような見立てはあくまで恣意的なものにすぎない。取り上げる作品やアプローチを少し変えるだけで、異なった歴史=物語をいくらでも紡ぐことができるだろう。

 しかしながら、空間のあり方に注目して作品を読み解くことは、まったくのこじつけというわけでもない。その有力な手がかりを与えてくれるのが、2012年7月から9月にかけてテレビ放送されたギャグアニメ『じょしらく』である。というのも、この作品では、まさに日常系アニメのパロディを通じて、室内空間の破れが鮮やかに描き出されているからだ*8

日常系アニメのパロディ──じょしらく

 久米田康治原作の『じょしらく』は、五人の女性落語家たちが舞台裏の楽屋でおしゃべりを繰り広げる作品である。一見すると、よくある日常系アニメのようにも思えるが、この作品が決定的に異なるのは、久米田作品らしい社会風刺やブラックユーモア、パロディ、時事問題への言及などが随所に散りばめられている点だ。しかも、そうした話題がたんにセリフのなかに出てくるだけではなく、その話題に関連した不審者が毎週のように楽屋に上がり込み、彼女たちのおしゃべりに割り込んでくるのである。つまり『じょしらく』では、日常系アニメから徹底して排除されてきた「現実」のさまざまな面倒事が、きわどい話題や人物といったかたちで、やすやすと室内空間に入り込んできてしまうのだ。

 これは言い換えると、少女たちを隔離・保護してくれるはずの閉じた空間=作品構造が、いまや決定的に破綻しつつあることを示している。実際『じょしらく』のあるエピソードでは、楽屋の壁がまるで舞台の書割のように外側に倒れ、また別のエピソードでは、大量のネズミが天井裏で楽屋の柱をかじっている(その上、畳の下にはなぜか力士が寝ており、壁紙の裏にはお札が何枚も貼り付けられている──不気味な空間だ)。さらに、オープニング映像では、女性落語家たちが『けいおん!』オープニングとまったく同じ姿勢・構図で、ハリボテのような楽屋をぶち破って外に飛び出していく。

 だが、やはり最も印象的かつ論争的なエピソードは、「原発ピタゴラ装置」に関するものだろう。これは楽屋のなかから転がり出たボールが、まるでピタゴラ装置のようにさまざまな出来事を連鎖的に引き起こし、最終的に主人公の虫歯が抜けるというものだが、その途中で福島第一原発の建屋と思われる建物が爆発するのである。このあまりにもブラックなエピソードには、日常系アニメを支える自律的な空間=作品構造の解体がはっきりと刻印されている。ボールは室内空間=フィクションの内部と外部を貫通し、原発事故という「現実」の大事件を、虫歯の治療という「日常」に結びつけてしまうのだ。

 こうして『じょしらく』は、閉じた室内空間=フィクションとしての枠を壊すことで、作中にわずらわしい「現実」を次々と侵入させ、日常系アニメの核となる「ありふれた日々の/素晴らしさ」をパロディ化する。しかも、猥雑な「現実」をただ露悪的に突きつけるのではなく、それによって汚染された「日常」を(ブラック)ユーモアによって笑い飛ばし、あくまで肯定してみせるのだ。

何が室内空間の解体を引き起こすのか?

 このように、2010年代以降の少なくないアニメ作品が、日常系アニメを支える室内空間の解体ないし変容を描き出している。しかし、だからといって、すべての日常系アニメが無価値になってしまったというわけではもちろんない。放映される数こそ少なくなったものの、2010年代以降も先に挙げた『きんいろモザイク』や『のんのんびより』(2013年10~12月)など、バリエーションに富んだ魅力的な作品が制作され続けている。

 その一方で、これらの作品もまた、それぞれの仕方で室内空間の不安定化に対応しているように見える。たとえば『きんいろモザイク』では、イギリスからの留学生(外部からの侵入者)を極端な日本好きの美少女に設定することで、異なる文化間の衝突や摩擦を回避している*9。また『のんのんびより』では、あちこち傷んでいる木造の学校(室内空間)を、理想化された安心・安全な「田舎」によってまるごと隔離し、不都合な「現実」の侵入を防いでいる*10。だが、そうだとすれば、いったい何がこうした空間の解体と再編を引き起こしているのか。

 制作側の事情を別にすると、おそらく最もわかりやすい説明のひとつは、2011年に発生した東日本大震災および原発事故と関連づけることだろう。巨大な地震津波、それに目に見えない放射線の脅威が、「ありふれた日々」を支える生活インフラを文字通り動揺させ、安心・安全な室内空間への信頼を打ち砕いたというわけだ。

 もちろん、これは素朴に社会反映論的な見方であり、実際には複雑に絡み合った社会的・経済的・技術的要因のごく一部でしかない。この結び目を正確に解きほぐすためには、それなりに時間と手間をかけて統計的・実証的な分析を積み重ねなければならないだろう。だが、さしあたってここでは、考えられる要因をもうひとつだけ指摘するにとどめたい。その要因とは、アニメ視聴をめぐる情報環境の変化である。

アニメ実況と情報環境の変化

 2000年代後半の日常系アニメの隆盛を支えた要因のひとつに、いわゆる「実況」文化の普及がある。これは複数の人間が同じアニメ作品を視聴しながら、思い思いのコメントを書き込んで文字通り「実況」することだ。ネット掲示板からはじまったこの視聴スタイルは、2006年末のニコニコ動画のプレオープン、2008年のTwitterの日本サービス開始を経て、いまではアニメ視聴の主要な形式として完全に定着している。

 アニメ実況の大きな特徴は、文字と映像という2つの画面、あるいは2種類の情報を目で追いながら、同時に手元のキーボードやタッチパネルでコメントを書き込まなければならないということだ。この複雑な処理のおかげで、視聴者は画面に集中して物語に没入するというよりも、むしろ気が散った状態で作品と向き合うことになる。そのため、実況コメントの大半は、物語の展開を長々と解説したり予想したりするものではなく、キャラクターの言動に対して反射的・感情的に反応するものになる。その結果、たとえば作品内のキャラクター同士のおしゃべりが、それに対する類型化された共感や反感、パロディやツッコミを通じて、作品外の視聴者同士のコミュニケーションへと連鎖していく。日常系アニメとの親和性の高さは明らかだ*11

 しかし、これは逆に言えば、アニメ作品の視聴体験が、それを取り巻くネット上の無数のコメントに大きく左右されるということでもある。したがって、何かのきっかけでコメントが「荒れる」と、作品に対する評価はもとより、視聴そのものが困難になりかねない*12。とくに震災の前後から、ネット上では原発の事故処理や再稼働、放射能汚染、領土紛争、ヘイトスピーチなどをめぐる議論が紛糾し、SNSまとめサイトを中心に罵詈雑言が目立ちはじめていたが、そうした問題がアニメ作品に飛び火することも稀ではない*13

 いまやアニメを見ることは、部屋に閉じこもってテレビ画面に没入するのではなく、パソコンやスマートフォンタブレットなどの複数の画面を通じて、部屋の外部から侵入するさまざまな情報にさらされることを意味している。これは言い換えると、アニメ視聴を支えてきた「現実」の室内空間そのものが解体しつつあるということだ*14。そうだとすれば、作品内で描かれる室内空間の破れや綻びは、そのまま作品外の視聴環境をめぐる変化としても理解することができるのではないか。実際『じょしらく』では(これは久米田作品すべてに言えることだが)、ネット上で話題になったさまざまな人物や出来事、スラングジャーゴンなどが、作中に数多く取り入れられていた。

 もちろん、アニメ視聴をめぐる情報環境の変化が、作中の室内空間の不安定化を直接引き起こしたとは考えづらい。素朴な社会反映論と同様、素朴な技術決定論に陥ることもやはり避けなければならない。とはいえ、そうした環境下にある視聴者の多くが、もはや「ありふれた日々」を夢見るだけでは飽きたらず、それを脅かす生の理不尽にまで関心を広げつつあるとしても、それほど不自然ではないだろう。安定した空間=作品構造の変容は、それを見る視聴者自身の状況を部分的に映し出しているというわけだ。

「日常」に守るべき価値はあるのか?

 いずれにせよ、画面のなかの少女たちは、もはや視聴者に一方的に夢見られ、覗き込まれるだけのモルモットではいられない。なぜなら、いまや彼女たちも視聴者と同様、あるいはより緊急かつ大胆に、室内空間の不安定化に対処しなければならないからだ。こうして少女たちは、危機に対する自らの態度決定を通じて、ある根本的な問いを画面の外へと投げかけてくる。その問いとは、そもそもこの「日常」に守るべき価値などあるのか、というものだ。

 フィクションとしての「日常」を維持するためには、当然ながら、室内空間=作品に入り込んでくる猥雑な「現実」を──ちょうど視聴者が不都合なコメントを「ブロック」するように──粛々と排除しなければならない。だが、そうすることの心理的・身体的な負担は、「ありふれた日々の/素晴らしさ」を謳う日常系アニメのソフト・コアを傷つける。というのも、この「日常」が誰かの犠牲の上に成立していることに気づいてしまったら、もはや「いたずらに時を重ねて過ご」すことなど不可能だからである。

 そのため、多くの日常系アニメでは、不安定化した室内空間を補修することで「日常」を延長し、問題を先送りしているように見える。だが、いまや「ありふれた日々」を肯定的に描くこと自体が、良くも悪くも、すでにひとつの政治的・倫理的な態度表明にほかならない。なぜなら、少女たちに「日常」に対する疑問を抱かせないためには、その背後で作動する排除のメカニズム、つまりは室内空間の「壁」をいっそう強固にしなければならないからだ。

 もちろん、すべての作品がこうした問題に無自覚であるわけではない。なかでも、2013年4月から9月にかけてテレビ放送された『とある科学の超電磁砲S』では、「ありふれた日々」を支えるセキュリティの暴力が真正面から描かれており、その意味で日常系アニメの最も正統な進化系のひとつと見なすことができる。そこで最後に、この作品を取り上げてこのあとがきを締めくくることにしよう。

学校から路上へ──とある科学の超電磁砲S』(1

 『超電磁砲S』は、人気アニメ『とある科学の超電磁砲』(2009年10月~2010年3月)の続編であり、超能力をもつ少女たちの戦いと友情を描いた作品である。強力な超能力者である主人公の御坂美琴が、友人たちと協力して「学園都市」の安全を脅かすテロリストに立ち向かうというストーリーだ。

 これは一見すると、日常系アニメとは無関係のようにも思えるが、必ずしもそうではない。それどころか『超電磁砲』シリーズは、いわば「戦う日常系アニメ」とでも呼ぶべき作品なのである。というのも、このシリーズの最大の特徴は、凶悪なテロリストと渡り合う迫力満点の戦闘シーンの合間を縫うようにして、友人との買い物やおしゃべり、お菓子作りといった女子中学生らしい「ありふれた日々」が織り込まれていることにあるからだ。しかも、少女たちはこの引き裂かれた状況をごく当たり前のように生きている。つまり、彼女たちの「日常」には最初から、そうした「日常」を脅かすテロリストを掃討することが含まれているのである。

 この自己言及的な「日常」設定は、室内空間の不安定さと深くかかわっている。『超電磁砲』シリーズでは、少女たちは学校の教室や部室ではなく、もっぱら学園都市のファミリーレストランでおしゃべりを繰り広げる。彼女たちはそれぞれ別の中学校に通っているため、互いに顔を合わせるには学校の外に出なければならないのだ*15。ガラス一枚を隔てて路上に面したファミリーレストランは、たとえば『けいおん!』の静謐な音楽準備室というよりも、むしろ『じょしらく』の猥雑な楽屋に近い。このガラス張りの室内空間では、内部と外部が視覚的に貫通しているため、学園都市にうごめくさまざまな事件や人物が目撃されることになる。そして、そのたびごとに少女たちは、たわいないおしゃべりを中断し、学園都市の路上へと足を踏み出していく。

 こうした傾向に拍車をかけているのが、主人公の親友(白井黒子)の空間転移能力である。この超能力のおかげで、少女たちは学校やファミリーレストランから、遠く離れた事件現場まで一瞬のうちに移動することができる。つまり『超電磁砲』シリーズでは、安心・安全な室内空間がほぼ完全に無効化され、学園都市の路上へとさらけ出されているのである。だからこそ、彼女たちは自らの「ありふれた日々」を守るために、生身でテロリストと対決しなければならないのだ。

 その結果、これまで室内空間が担っていた排除のメカニズムが少女たち自身に委託され、ほとんど剥き出しの暴力となって「日常」に回帰する。ここに現在の日常系アニメのひとつの帰結を見ないでいることは難しい。

セキュリティの暴力を引き受けること──とある科学の超電磁砲S』(2

 さらに、このシリーズで注目すべきなのは、美琴たちと敵対するテロリストが、憎むべき悪というよりも、むしろ「ありふれた日々」から排除された生の理不尽を体現していることだ。彼女たちが生活する学園都市では、美しく整えられた近未来的な「日常」の裏側で、実は都市ぐるみの凶悪な犯罪や陰謀が横行している。ごく大雑把にまとめれば、こうした「闇」を告発し、また根絶するためにこそ、テロリストは暴力に訴えてまで学園都市に挑戦するのである。

 したがって、彼らを追いかける少女たちもまた、学園都市の「闇」を目の当たりにすることになる。その結果、彼女たちは昨今のアメコミ・ヒーローのように、この「日常」が本当に守るに値するものなのかどうか自問しはじめる。とくに『超電磁砲S』では、学園都市でひそかに進行するおぞましい人体実験を止めるために、主人公自身がテロリストとなって関連施設を次々と爆破していくのである。

 美琴を突き動かしていたのは、自分と瓜二つのクローン少女たちが毎日殺されているにもかかわらず、自分だけが「ありふれた日々の/素晴らしさ」を享受してきたことへの強烈な罪悪感によるものだった。こうして彼女は、これまでの「日常」の代償を支払うかのように、学園都市のセキュリティ・システムとの激しい戦闘に身を投じる。つまり『超電磁砲S』では、「ありふれた日々」を守るヒーローとしての自己懐疑のみならず、ヒーローからテロリストへのラディカルな「転向」まで描かれているのだ。

 それでも最終的には、主人公はテロリストとして学園都市を壊滅させるのではなく、これまで通り治安維持に務めることを再帰的に選択する。「闇」にうごめく生の理不尽に絶望してなお、友人たちとの「日常」を守るために戦い続けることを決意するのである。その選択の是非はともかく、おそらくここには、日常系アニメの最も正統な進化系のひとつがあると言えるだろう。なぜなら、彼女は日常系アニメが先送りし続ける問い──「この日常に守るべき価値はあるのか」──に対して、自分なりの答えを見つけ出したからだ。それはつまり、フィクションとしての「ありふれた日々」と引き換えに、セキュリティの暴力を真正面から引き受けることにほかならない。

魔法少女とは別の仕方で──とある科学の超電磁砲S』(3

 美琴のこうした決断は、別の言い方をすると、彼女があくまで学園都市=フィクションの内部にとどまり、外部から侵入してくる「現実」と戦い続けることを意味している。これはたとえば、2010年代を象徴する作品である『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年1~4月)と比較するとわかりやすいだろう。というのも『まどマギ』では、最終的に主人公の鹿目まどかが、「日常」に侵入してくる生の理不尽(強大な魔女による街の壊滅、魔法少女の魔女化)を根絶するために、超越的=メタフィクショナルな「概念」(アルティメットまどか)となって作品の外部へと突き抜けてしまうからだ。

 まどかは自らを犠牲にすることで、すなわちキャラクターをやめることで、いわば「外側から」作品を閉じる。だからこそ、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(2014年)では、まどかとの「日常」を取り戻すために、親友の暁美ほむらが彼女を再び作品内へと引きずり下ろすことになるわけだ。

 これに対して、美琴はやはり生の理不尽に直面しながらも、あくまで「学園都市の実験動物」、つまりフィクションのキャラクターであり続けることを選択する。彼女はテロリストとして「闇」を告発するのでも、また超越的な概念として「闇」を根絶するのでもない。そうではなくて、あくまでひとりのキャラクターとして、所詮は脆弱なフィクションにすぎない「ありふれた日々」を前向きに生きようとするのである。そのためなら、少女たちは「日常」を脅かすテロリストを力づくで排除することもいとわないだろう。

 もちろん、美琴がいかに強力な超能力者とはいえ、たとえばアルティメットまどかのように、学園都市の「闇」をまるごと浄化しつつ救済する「神的」な暴力を行使できるわけではない。というよりむしろ、そうした絶対的な力に抗うためにこそ、少女たちは互いに連携してテロリストに立ち向かうのだ。なぜなら、「ありふれた日々」を断罪する神的暴力を追い求めるのは、たいていの場合、学園都市もろとも「闇」を根絶しようと企むテロリストの側だからである。

 したがって、いまや美琴たちの戦いは、たんなる作中人物同士の争いを超えて、フィクションとしての「日常」を一刀両断する「現実」の暴力──「そんなことは現実にはありえない、あるべきではない」──に抵抗することを意味するだろう。作品外から降り注ぐこの道徳的な命法に対して、彼女たちはまさにフィクションそのものであるような力、すなわち「超能力」を武器に立ち上がるのだ*16

ポスト日常系アニメのハード・コア──とある科学の超電磁砲S』(4

 こうして『超電磁砲S』最終話では、超能力レベルに応じたヒエラルキーを打倒し、学園都市に「革命」を起こそうとするテロリストとの大規模な戦闘が繰り広げられる。巨大ロボットに乗り込んだ美琴は、友人たちの力を借りて成層圏へと上昇し、学園都市に飛来するミサイルの迎撃に向かう。守るべき「日常」を背中に背負い、渾身の右ストレートで撃ち出された大質量の超電磁砲が、迫りくるミサイルもろとも宇宙空間を一直線に切り裂いていく。

 美琴の放つ超電磁砲は、押し寄せる生の理不尽をことごとく跳ね返し、テロリストの目論見を完膚なきまでに叩き潰す。だが、そうすることによって彼女は、この不安定化した空間=作品構造に恒常的な安定をもたらそうとしているわけではない。むしろ、不安定な室内空間をあくまで不安定なままにとどめつつ、内部から外部へと貫通する解放的な視野をもたらそうとするのである。なぜなら、そもそも超電磁砲とは、外部から侵入する「現実」を打ち払う力であると同時に、閉塞した「日常」を内部から突き破る力でもあるからだ。逆に言えば、教室や部室といった室内空間が破綻しているからこそ、彼女はそのポテンシャルをいかんなく発揮することができる。

 超電磁砲のまばゆい閃光は、視界をさえぎるビルの外壁をやすやすと貫通し、路上を占拠するテロリストの集団を一掃する。こうして切り開かれた消失点の向こう側から、清々しい風が吹き込んでくる。学園都市に林立する風車がゆっくりと回転し、また束の間の「ありふれた日々」が訪れる。いまや美琴にとって、友人たちとのたわいないおしゃべりと同様、テロリストとの激しい戦いもまた、この「日常」を生きるに値するものへと変えてくれるにちがいない。だからこそ、彼女はそれらすべてをひっくるめて「ほんと退屈しないわね、この街」と言い放つことができるのだろう。

 英雄的・宗教的な自己犠牲による最終解決を拒み、さまざまな矛盾や欺瞞に満ちた「日常」をあくまで肯定すること。そのためにセキュリティの暴力という十字架を背負い、フィクションとしての「日常」を脅かす「現実」と対峙し続けること……

 『超電磁砲S』に見出されるのは、もはや堅固な外皮に守られた「日常系アニメのソフト・コア」ではない。そうではなくて、さまざまな生の理不尽に脅かされ、鍛え上げられた「ポスト日常系アニメのハード・コア」とでも言うべきものである。

 この硬質化したコアは、すでにいくつもの作品に受け継がれ、これまでの日常系アニメとは大きく異なった果実をつけはじめている。それが私たちにどのような滋養をもたらしてくれるのか、いまはまだわからない。

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anime.dmkt-sp.jp

 

*1:《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》映像+まとめ #日常系ソフトコア - Togetter

*2:この点については、志津A「日常における遠景――エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」(『アニメルカvol.2、二〇一〇年、九~二〇頁)で詳細かつ説得的に論じられている。本論集に収録された志津A氏の論考と合わせて参照してほしい。

*3:なお、この曲はアニメオリジナルではなく、中塚武土岐麻子によるデュエットをRhodanthe*がカバーしたものである。原曲は中塚のアルバム『GIRLS&BOYS』(2006年)に収録されている。

*4:日常系アニメと社会情勢のかかわりについては、たとえばキネマ旬報映画総合研究所編『日常系アニメヒットの法則』(キネ旬総研エンタメ叢書、2011年)の75~79頁で簡単に触れられている。

*5:映画けいおん!』冒頭のミュージカルシーンでは、この透明なカメラの存在がはっきりと示唆されている。部室で踊る少女たちがさまざまな角度から描かれているのだが、その都度彼女たちが画面のこちら側に視線を送るため、まるでカメラが部屋中を飛び回っているかのように感じられるのだ。このミュージカルは最終的に、仮想的なカメラが部室の片隅にある鏡の前に回り込み、何も映らない鏡を正面からとらえて幕を閉じる。

*6:画面の奥へと突進する運動は、必ずしも現代のデジタル映画に特有の現象ではない。むしろ、リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)をはじめ、見世物的な要素の強い「初期映画」に頻繁に登場する。これについては、トム・ガニングの古典的な論文「驚きの美学──初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」(濱口幸一訳、『「新」映画理論集成①』岩本憲児・武田潔斉藤綾子編、フィルムアート社、1998年、102~105頁)を参照してほしい。また、初期映画と現代の映画との親和性に関しては、ミリアム・ハンセン「初期映画/後期映画──公共圏のトランスフォーメーション」(瓜生吉則北田暁大訳、『メディア・スタディーズ』吉見俊哉編、せりか書房、2000年、279~297頁)などがある。さらに、これらの議論を踏まえて、現代日本の映像環境渡について縦横に論じた渡邉大輔『イメージの進行形──ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012年)も併せて参照すること。

*7:トーマス・ラマールは『アニメ・マシーン──グローバル・メディアとしての日本アニメーション』(藤木秀朗監訳、大崎晴美訳、名古屋大学出版会、2013年)のなかで、ポール・ヴィリリオのいう「シネマティズム」、すなわち可動式カメラによる奥行きへの運動に対して、複数のレイヤーを利用した側方からの運動の感覚を「アニメティズム」と呼んでいる。ラマールは一貫して、宮崎駿のアニメ映画などに見出されるアニメティズムを高く評価しているが、他方でアニメ化された『進撃の巨人』は、明らかにシネマティズムによって特徴づけられているように見える。そこでは壁(アニメティズムを生み出すレイヤー構造)がいたるところで巨人に突破され、キャラクターはデジタル技術を駆使したワイヤーアクション(シネマティズムの弾道的なカメラ)でこれに対抗するのだ。全編フルCGの『シドニアの騎士』(2014年4~6月)にも、『進撃の巨人』と似たような傾向が見出だせるかもしれない。

*8:じょしらく』については、すでに別のところで何度か論じている。志津A氏との対談「震災後の遠景──アニメから見た二〇一二年の風景」(『セカンドアフター EX 2012』、2012年、6~26頁)および藤津亮太氏のメルマガに寄せた拙稿「どんでん返しのヘテロトピア――じょしらく』に見る不安定な日常」(「アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門ブロマガ 第8号(2012/12/28号/月2回発行):アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門メールマガジン:藤津亮太のアニメの門チャンネル(藤津亮太) - ニコニコチャンネル:社会・言論」)を参照してほしい。

*9:もっとも、これは『きんいろモザイク』にかぎらず、さまざまなアニメやマンガ、ゲーム、ライトノベル、さらには広報戦略にまで広く見られる手法である。対象を萌えキャラ化することで、それに対する(主にオタク層からの)親近感を高めることができるというわけだ。しかし、その政治的な可能性の中心は、たんに商品の売れ行きを伸ばすことにではなく、生理的・文化的に受け入れがたい他者を受け入れ可能なものに変形することにあるのではないか。日常系アニメではないが、たとえば『這いよれ!ニャル子さん』(1期:2012年4~6月、2期:2013年4~6月)は、その最も印象的な事例のひとつと言えるだろう。この作品では、無貌の神「ニャルラトホテプ」をはじめ、クトゥルー神話に登場する禍々しい神々が魅力的な美少女キャラクターとして登場し、主人公とのラブコメが繰り広げられる。彼は少女の容姿や言動に惹かれながらも、その正体が人間ではないことを思い出して思い悩むのである。

*10:のんのんびより』第1話では、まさにこの防護壁としての田舎によって、外部からの侵入者(東京からの転入生)が無力化され、視聴者とともに作品内へと受け入れられる。都会との文化的ギャップに戸惑う少女が、半ばステレオタイプ的に描かれた田舎の魅力(豊かな自然、ゆっくりとした生活リズム)に触れることで、しだいに現地の「日常」に溶け込んでいくのだ。この武装解除プロセスは、同時に、転入生に同一化する視聴者──両者とも作品/田舎にとってのよそ者という点で共通する──をストレスなく作中に招き入れる役割を果たしている。ところが、第2話では一転して、同性の「小さくて可愛い先輩」に対する転入生の異常な愛情が描かれ、視聴者は作品から半強制的に引き剥がされることになる。というのも、この一方的な愛着は、理想化された田舎に対する都会のまなざしであると同時に、外部から作中のキャラクターを覗き込む視聴者自身のまなざしでもあるからだ。つまり、そこでは日常系アニメをめぐる内部と外部の非対称性が作品内へと折り返され、ひどく誇張して描かれることで、視聴者の無反省的な没入が阻害されるのである。思えばすでに第1話から、最年少の幼女が「ここ、田舎なのん?」という自己言及的な疑問を繰り返し発していた。これらもまた、室内空間の変容のひとつのヴァリアントとして理解できるかもしれない。

*11:SNSの普及と日常系アニメのかかわりについては、たとえば前掲『ヒットの法則』の82~87頁などを参照してほしい。

*12:ニコニコ動画をはじめとする各種動画サイトで放送ないし(違法)アップロードされるアニメ作品には、その作品とほとんど関係のない差別的な誹謗中傷が多数書き込まれ、画面が埋めつくされることもしばしばである。作品を快適に試聴するためには、これらを一括してブロックするか、もしくはコメントそのものを非表示にする必要があるが、不快感そのものまで消せるわけではない。

*13:近年で最も物議を醸したのが、『さくら荘のペットな彼女』(2012年10月~2013年3月)第6話をめぐる原作改変問題だろう。これは原作ライトノベルで「おかゆ」と記されていた箇所が、アニメ化にあたってなぜか韓国料理の「サムゲタン」に差し替えられたことで、ネット上に蔓延する嫌韓感情を刺激し、いわゆる「炎上」にいたったものだ。後日ニコニコ動画で問題の第6話が生放送された際には、案の定、画面上がスタッフや韓国を揶揄する差別的なコメントで埋めつくされることになった。この問題の是非や真相はともかく、それが『さくら荘のペットな彼女』の視聴体験や評価に深刻なダメージを与えたことは明らかだろう。詳しくは、たとえば「さくら荘のペットな彼女原作改変問題とは (サクラソウノペットナカノジョゲンサクカイヘンモンダイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科」などを参照してほしい。

*14:とくに近年では、スマートフォンタブレットが普及したことで、そもそも室内空間の外部──たとえば通勤・通学の途中──でアニメを見ることも一般化しつつある。

*15:名門の常盤台中学に通う美琴は、親友の白井黒子とともに、厳しくスケジュール管理された寮で生活している。彼女たちはこの寮をしばしば勝手に抜け出し、門限を破っては寮監に怒られており、ここにも室内空間の無効化というモチーフを見てとることができる。

*16:超電磁砲』シリーズは、人気ライトノベルとある魔術の禁書目録』からのスピンオフだが、両主人公の方向性の違いはきわめて興味深い。『禁書目録』の主人公である上条当麻は、魔術や超能力を打ち消す「幻想殺しイマジンブレイカー)」と呼ばれる力をもっている。このメタフィクショナルな能力は、彼が「現実」にはありそうもない出来事、つまり「幻想」をことごとく「ぶち壊す」──それも道徳的な説教を垂れながら──という点で、本来なら作品外にあるはずの「現実」を体現していると言えるだろう。上条の存在は『とある~』シリーズにとっての理不尽そのものであり、だからこそ「これは現実ではない、フィクションにすぎない」ということを知っている視聴者の特権的なアバターとして機能しうる。これは『超電磁砲』の美琴があくまで「幻想」(フィクションとしての「日常」)の側に立つのとは対照的だ。

わたしのなかのハリガネムシ:ロニ・ホーン展について

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 先日、箱根のポーラ美術館で開催されている「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」展を見に行ってきた。

www.polamuseum.or.jp

 本展はアメリカの現代美術を代表するアーティスト、ロニ・ホーンの国内初となる美術館個展だ。といっても、現代美術にうといわたしには、恥ずかしながら初めて聞く名前だった。展覧会の公式サイトによると、彼女は1955年、アメリカ生まれのアーティストで、ロンドンのテート・モダンやニューヨークのホイットニー美術館といった世界有数の美術館で個展を開催し、国際的な注目を集めてきたらしい。そんな大物の国内初個展とあって注目度は高く、ポーラ美術館としても同時代のアーティストを単独で取り上げる初めての試みとのことだった。

 ロニ・ホーン展を鑑賞してわたしが最初に感じたのは「やっぱり現代美術はよくわからん」ということだった。これはもっぱらわたしに美術の素養がないせいだが、たぶんそれだけが理由ではない。今回の大規模個展には、1980年代初頭から現在にいたるまでの、およそ40年にわたるホーンの作品が展示されていて、当然ながら媒体も形式もバラバラだ。ガラスの彫刻、巨大なドローイング、連作の肖像写真、朗読映像……。もちろん「アイスランド」「自然」「水」などの家族的に類似したモチーフがないわけではないが、多様な展示作品すべてを一貫した「物語」に落とし込むのはかなり難しい。わたしの「わからん」という第一印象は、たぶんそのことに由来している。きれいとかかっこいいとかおもしろいとかいった美的な感覚を、どうやって意味づけたらいいのかよくわからないのだ。

 とはいえ、矛盾に満ちたひとりの人間、それもアーティストが半生をかけて生み出した作品群を、なんらかの「意味(意図)」や「物語」に回収しようとすること自体が、そもそも間違いなのかもしれない。かつて美学者の西村清和は、芸術作品を媒介として芸術家と鑑賞者が互いに精神的に交流する、コミュニケーションするという近代美学の枠組みを「精神の美学」と呼んで批判したが、このパラダイムは現代でもしぶとく(少なくともわたしのなかには)生き延びている。そこには他者を安易に「理解」できる、あるいは「理解」したつもりになるという、危険な思い上がりが見え隠れする。そうだとしたら、鑑賞者はただ虚心坦懐に作品を眺め、そこから得られる美的な感覚や印象を味わい、そしてそれ以上踏み込むべきではないのかもしれない。実際、公式サイトにはこんなふうに記されている。

本展では、[…]水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる彼女の作品のあり方を探ります。価値観や「正しさ」がめまぐるしく入れ替わるこの時代において、周囲に惑わされず、 川のように静かに絶えず本質を見つめながら制作を続ける彼女の作品と姿勢は、私たちに強く生きるヒントと、Reflection(内省)の時間を与えてくれるでしょう。

 ここで言われているのは、要するに、作品鑑賞を通じて作家の「精神」(内面とか世界観とか)にアクセスしようとするのではなく、むしろ作家の創作姿勢にならって鑑賞者が自分自身を見つめ直すこと、つまりは作品を一種の「鏡」として、自分自身へとまなざしを「Reflection(反省=反射)」することが求められている、ということだ。この自己啓発的な鑑賞態度は、たしかに「価値観や『正しさ』がめまぐるしく入れ替わるこの時代」には有効、というより必然なのかもしれない。作家の「意図」が明らかで解釈の余地がない、あるいは少ない作品よりも、ホーンの「水のようにしなやかに多様な解釈を受け入れる」作品のほうが、鑑賞者自身の価値観と作家のそれとが正面衝突しないぶん、多くの人に受け入れられやすいにちがいない。わたしのようにあわてて「意味」や「物語」を探し求めるのではなく、まずは作品から感じたことを素直に受け止め、自分自身を省みて「強く生きるヒント」(?)にすることが大事、というわけだ。

 一見したところ、これはもっともらしい考え方のように思える。けれども、鑑賞後にポーラ美術館のレストランで昼食をとりながら、いま見てきたものをぼんやり反芻していると、何か重要なことを見落としているような気がしてきた。先に引用した展覧会の導入文が間違っているとまでは言わないが、少なくともわたしにとってはミスリーディングな内容が含まれているように思えたのだ。以下では、あいかわらず「よくわからん」なりに、わたしがロニ・ホーン展について考えたこと、感じたことをかんたんに記してみる。

 先の引用文中の「Reflection」という言葉は、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」のもとになった英文「When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You?」から採られたものだ。さらにこのフレーズそのものは、正確に覚えているわけではないが、本展に出品されていた映像作品《水と言う》(2021)に登場するものだと思う。これはホーンが日没の迫る夕闇の屋外で、十数人ほどの聴衆を前に「水」や「川」についての文章を朗読するという作品だ。ミニマルかつコンセプチュアルな展示作品が多く、鑑賞者の側に解釈の大部分が委ねられている──言い換えれば、作家の「意図」を汲み取りづらい──なか、この《水と言う》では、だいぶ思弁的ではあるものの、水や川といった主要モチーフに対する作家の思いがかなり率直に語られている。じつはわたしは前日夜ふかししたせいで、映像を見ながらときどき寝落ちしてしまい、断片的にしか覚えていないのだが、本展の根幹にかかわるようなエピソードがいくつか紹介されていた。

 いちばんわたしの印象に残ったのは、さまざまな文学作品や出来事を引きながら、川に身投げする人の話が繰り返し語られていたことだった。これらのエピソードと、本展の副題「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」をあわせて考えると、先の自己啓発的な導入文とは少し違った風景が見えてくる。たぶん力点が置かれるべきなのは、水面を鏡として自分自身を「内省(Reflection)」する(そして「強く生きるヒント」を得る)ことではない。そうではなく、文字どおり自分のなかに「水」を感じる、つまりは自分を超えたもの、自分にとってよそよそしいもの、自分ではないものを自分のなかに「認識する(Recognize)」ことが目指されているのではないか。わたしは寝落ちして見逃してしまったが、実際に《水と言う》には「水と一緒にいると/わたしの中に自分を超越した存在を感じる」という決定的なセリフがある、らしい。

 「Reflection」という言葉でわたしがまず思い浮かべるのは、ギリシャ神話のナルキッソスの物語だ。若く美しい青年であるナルキッソスは、あるとき神の怒りに触れ、水面に映った自分の姿に一目惚れし、そのまま衰弱して死ぬ(水中に落ちて溺死するバージョンもある)。ここでナルキッソスは、たぶんホーンとは異なり、自分のなかに「水」を認識していない。彼の目に映っているのは美しい自分自身だけであり、自分を超えるものや自分ではないものへの感覚が決定的に欠けている。ナルキッソスを死にいたらしめたのは、直接的には彼自身の美しさであると同時に、彼をはるかに超えたもの、つまりは神の怒りなのだが、そのことには気づかないまま死んでいくのだ。とすれば、ホーンが映像作品のなかで入水自殺のエピソードを繰り返し語ったのは、個々の自殺の具体的な動機や要因とは別に、彼ら/彼女らをときに死へと追いやる超越的なもの、他なるもの、不気味なものとしての「水」に注目していたからではないか。それは擬似的な鏡としてあなた自身の姿を映し出し、この鏡像の背後からあなたをひそかに突き動かす。あたかもあなたの自由意志の帰結であるかのように、あなたの死を偽装する。こうした存在を「認識する」ことが、ホーンのいくつかの作品の核心にあると考えることは、それほど的外れではないように思う。

 カマキリに寄生するハリガネムシという寄生虫は、繁殖のために宿主のカマキリを操り、川や池に飛び込ませる。帰路の箱根ケーブルカーに揺られながら、わたしはそんなことを思い出していた。最近の研究によると、ハリガネムシは水面の反射光に多く含まれる「水平偏光」という光のパターンを利用し、カマキリを誘導しているらしい。ハリガネムシに寄生されたカマキリは、いったいどんな気持ちで水辺を目指し、水面を覗き込み、そこに身を躍らせるのだろう。この六本足の哀れなナルキッソスは、わたしたちとどれほど違い、どれほど同じなのか。

 もちろん、ホーンのいう「自分を超越した存在」とは、ギリシャ神話の神々ではないし、ましてやハリガネムシのような寄生虫を指すわけでもない。彼女にとってそれはおそらく、繰り返し作品に現れるアイスランドの自然であり、また人体の70%を占めるという「水」そのものなのだろう。そこにはたしかに、自然を人間がコントロール可能な客体=対象と見なす、一昔前の西洋的・近代的思考とは異なる感性が息づいているように見える。しかし、だからといってホーンの作品を人間も自然の一部だとか、自然を大切にしようとかいった安っぽいメッセージに回収することはできないし、そうすべきでもない。むしろ彼女のいくつかの作品は、わたしたち自身のなかに、目覚めた意識には決して現れない暗い存在、わたしたちの身体の大部分を構成するにもかかわらず、わたしたちにとって永久によそよそしいものであり続ける「水」がたゆたっていることを、ひそかに告げ知らせてくれる。この「水」はわたしたちの意識の裏門から流れ出し、目の前の水面へと流れ込み、混ざり合って再びわたしたちのなかへと還っていく。ガラス彫刻の輝く水面も、大量の脚注が付されたテムズ川の水面も、そうやってわたしたちのなかのわたしたち自身とは異なる何か、果てしない「Reflection」の背後にいる見知らぬ誰かに向けて、解読不可能な合図を送り続けている。これはある意味で、裏返った「精神の美学」といえるのかもしれない。

 わたしのなかのハリガネムシが、わたしの後ろから見つめている。「強く生きる」とは結局のところ、やがて水辺に誘われ水中に沈むそのときに、まさにこれこそがわたしの望んだ生だったのだと、ハリガネムシに虚勢を張ってみせることなのかもしれない。

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『竜とそばかすの姫』はクソデカ感情百合バトルアニメになるはずだった

 2021年7月に公開された細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』を見てきた。わたしの観測範囲ではいつもどおり賛否が割れていて、個人的にはけっこう期待していたのだが、見終わったあとの感想は「うーん……?」という感じだった。

 細田監督が何を描きたかったのかはよくわかる。過酷な現実に耐えられず心を閉ざしてしまった少女が、SNSでの出会いを通じて成長していくというテーマ自体にも、とくに異論はない(その「成長」の方向性にはいろいろ議論があると思うけれど)。にもかかわらず、わたしが物語にうまく入り込めなかったのは、途中から本編とは全然ちがう物語の可能性にとりつかれてしまったからだ。

 なお、以下では重大なネタバレが含まれるので、未見の方は注意してほしい。

 

 『竜とそばかすの姫』は、幼少期に母親を失い、心に深い傷を負った女子高生「すず」が、仮想空間「U」で絶大な支持を集める歌姫「ベル」となり、世界中から追われる謎の存在「竜」を救うために仲間たちと奮闘する物語だ。SNSという現代的なモチーフはあるものの、基本設定としてはほとんど『美女と野獣』(1991)そのままである。

 とはいえ、そこには細田監督らしい重要なアレンジが施されている。『竜とそばかすの姫』の物語構造をごく単純化して取り出すと、主人公のすずが〈母=ヒーロー〉になるまでのプロセスを描いた作品として読むことができる。彼女の母親は、中洲に取り残された見ず知らずの幼い少女を救うために増水した川に飛び込み、命を落とす。すずは自分を残して死んでしまった母親の行動が理解できず、父親や幼なじみともうまく話せなくなり、大好きだった歌も歌えなくなってしまう。物語終盤ではそんな彼女が、やはり見ず知らずの他人である竜(のなかの人)のもとに駆けつけ、身を挺して彼を守ろうとする。つまり、すずは母親の行動を反復することで母親の死を受け入れ、精神的に乗り越えるとともに、自ら〈母=ヒーロー〉になるわけだ。これが『竜とそばかすの姫』の基本的な構造である。

 もちろん、ある意味で保守的なこうした母親像や家族観に対し、拒否反応を示す観客もいるだろう。近年の細田監督作品はだいたい賛否両論真っ二つで、ネットでは「脚本だけ他人に書かせろ」という意見もよく見かけるが、そういう意味では『竜とそばかすの姫』も例外ではないかもしれない。けれども、わたしが「うーん……?」となってしまったのは、本作の〈母=ヒーロー〉というやや問題含みのメッセージが受け入れられなかったからではない(多少の疑問はあるが、ここでは論じない)。そうではなく、冒頭でも述べたように、本編とは異なるもうひとつの物語の可能性にとりつかれてしまったからだ。

 『竜とそばかすの姫』後半では、謎に包まれた竜の正体を突き止めることが物語の主題となる。わたしは物語のかなり早い段階で、竜の正体はこいつにちがいないと勝手に確信していたキャラクターがいる。すずの回想に登場する、彼女の母親が自らの命と引き換えに救った少女だ。わたしは十中八九、この少女が竜の正体だと考えていた。なぜなら、彼女こそがすずの人生を根底からひっくり返し、その運命を決定づけた張本人だからである。本編では描写されないが、すずがこの少女を強く憎んでいたとしてもおかしくない。さらに「50億人の中から、たった一人を探し出せ」という本作のキャッチコピーも、わたしの確信を後押しした。50億人のなかから探すに値する運命の人物、因縁の相手は、あの少女以外にありえない、と。

 だから、竜の正体が本当に主人公とまったく関係ない赤の他人、遠く離れた東京に住む虐待被害者の少年だと判明したときは、正直びっくりしてしまった。もちろん、すでに述べたとおり、すずは見ず知らずの他人を救うことで初めて母親の死を受け入れ、自らも〈母=ヒーロー〉になるわけだから、物語構造としては文句なく正しい。けれども、わたしが勝手に思い描いていたのは、これとはまったく異なる物語だった。

 以下はすべてわたしの妄想である。だいぶ気持ち悪いことに、クライマックスのセリフまで考えてある。物語の基本路線はいちおう踏襲したつもりだが、家族や親子の関係にフォーカスしてきた細田監督は、たぶんこういう話は決して書かないだろう。百合(およびBL)とはまさに、家族や親子といった枠組みをいわば水平方向に破っていく、正反対のモチーフだからである。百合の先に、細田監督が思い描くような再生産をベースとした家族は存在しえない。

 本作を見ながらそんな妄想ばかりしていたせいか、とくに終盤は本編の内容がうまく頭に入ってこず、結果として「うーん……?」みたいな感想になってしまった。それでもわたしは、この妄想が『竜とそばかすの姫』という作品にあらかじめ畳み込まれている──とまでは言わないけれど、抑圧されたもうひとつの可能性として、まるで幽霊のように作品にとりついているような気がしてしまうのだ。

 

 少女は小さい頃、増水した川の中洲に取り残され、見知らぬ勇敢な女性に助けられた。お礼を言うひまもなかった。女性は幼い少女に自分のライフジャケットを着せると、そのまま流されて見えなくなった。成長してからずっと、少女はそのことで思い悩んでいた。自分が他人の人生を永久に奪ってしまったこと、そしておそらく、その人の家族の運命さえもねじ曲げてしまったこと。少女は自分を責め続けていた。自分には生きる価値がないと思い込んでいた。ままならない現実に絶望し、やがて精神に変調をきたし、醜い竜の姿で自傷行為のように仮想空間で暴れまわるようになった。

 そんなとき、彗星のごとく現れたひとりの歌姫と出会う。明るく澄んだ彼女の歌声には、しかしどこか深い悲しみと寂しさがにじんでおり、少女はすぐに彼女のファンになる。まるで自分の苦しみを代わりに歌ってくれているような、そんな気がした。2人はしだいに絆を深め、追手をかいくぐりながら束の間の逢瀬を重ねる。ところが、ひょんなことから歌姫の正体が露見し、彼女が自分を救ってくれた=自分が死なせてしまった女性の娘であること、そしてそのせいでずっと苦しんでいたことを知る。少女は絶望し、歌姫=すずの前から姿を消す。もはや現実にも、仮想空間にも居場所がないと悟った少女は、ただ愛する彼女に罰してもらうこと、殺し/赦してもらうことだけを望むようになる。

 やがて再び現れた竜は、仮想空間のすべてを敵に回し、すずの友人や家族、その他大勢のアカウントを人質にとる。すずは彼らを救うことで〈母=ヒーロー〉として覚醒し、さまざまな人々の協力のもと、謎のスーパー歌パワーで邪悪な竜を追い詰める。激突する2人。すずは裏切られた怒りと悲しみに震え、戦いのさなかに理由を問いただそうとするも、竜は何も答えようとしない。仮想空間が崩壊しかねないほどの激しい戦闘の末、50億アカウントによるスーパー歌の元気玉(『サマーウォーズ』(2009)のラストみたいな感じ)が炸裂し、ついに竜は打ち倒される。

 いまにも息絶えようとする竜の剥がれたウロコの隙間から、同世代くらいの少女の素顔がのぞいている。思わず駆け寄ったすずは、彼女の口からようやく真意を告げられる。

「わたし、すずの歌が、すずのことが大好き」

「でもわたしは、すずからお母さんをとっちゃった、悪者だから」

「だから一緒にいられないし、赦してももらえない」

「だけど、いっぱい考えて、悪者にもできることがあるって、気づいた」

「すずがヒーローになるための、お手伝い」

「本物のヒーローになって、それでわたしをやっつけてほしいって、そう思ったんだ」

「わがままだよね……でもわたし、やっと」

 泣きそうな笑顔で、淡い光のなかに溶けていく少女。呆然とするすず。ややあって、ベランダから飛び降りる音。

(暗転、スタッフロール)

 病室のカーテンが揺れている。寝台に横たわっていた少女が、ゆっくりと目を開ける。誰かが手を握っている感触。セーラー服を着た、そばかすの、よく知っている顔──。

(終劇)

 


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映画の死体に魂を吹き込む:『映画大好きポンポさん』とネクロ゠シネフィリア

 2021年6月は、コロナ禍にともなう緊急事態宣言で公開延期されていた話題のアニメ映画が続々と封切られ、アニメファンにとってはちょっとした「まつり」になった。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』『シドニアの騎士 あいつむぐほし』『映画大好きポンポさん』──いずれもたいへん見応えのある作品で、それぞれについて何か書きたい気持ちはあるものの、残念ながらわたしにはそのための時間と能力がない。いちおう、これらすべてに言及したバ美肉配信があるので、興味のある人はそちらを見てほしい。

てらまっとの怒られ☆アニメ批評 第3回:ポンポさん、ハサウェイ、シドニア、レヴュースタァライト - てらまっと (@teramat) - TwitCasting

 そういうわけで、ここではわたしがいちばん楽しめた、というか唸らされた作品について書こうと思う。それが『映画大好きポンポさん』だ。

 『ポンポさん』は杉谷庄吾人間プラモ】による同名の漫画作品を劇場アニメ化したもの。ハリウッドならぬ「ニャリウッド」を舞台に、超大物映画プロデューサーの祖父から才能を受け継いだ「ポンポさん」のもとで、いわゆる「映画狂(シネフィル)」の主人公、ジーンくんが新作映画の監督に抜擢され、さまざまな人に助けられながら一本の映画を完成させるという物語だ。「映画大好き」というタイトルからもわかるとおり、この作品は映画の制作プロセスそのものを描いた映画、つまりは映画についての映画であり、映画という娯楽・芸術形式への愛(フィリア)が全編にあふれている。

 けれども、わたしにはこの愛が、ある種の「死体愛好(ネクロフィリア)」に見えてしまった。もっと正確にいうと、自らの手で殺めてしまった最愛の人を蘇らせようとする、倒錯した愛情をそこに感じてしまったのだ。

 『ポンポさん』には、映画の素晴らしさを物語るシーンやセリフがいくつも挿入されている。たとえば新作の主演を務める伝説の俳優、マーティンの演技をじかに目にしたジーンくんは、完全に役になりきる圧倒的な演技力と存在感に衝撃を受ける。あるいは、スイスの高原での野外撮影中に偶然雨が上がり、雲間に虹がかかるシーン。ほかにもいろいろあった気がするが、これらはすべて、映画のある特別な性質を前提とし、またそれを祝福するために描き込まれている。その性質とは、いわば「世界の実在への信」を呼び起こすことだ。

 リュミエール兄弟による世界初の映画上映に参加した人々は、カメラに向かって突進してくる列車の映像に驚き、逃げ惑ったといわれている。このエピソードの信憑性はいまではだいぶあやしいが、それでも現代の初期映画研究によると、当時の観客たちが風に揺れる木々の葉や水しぶき、土煙などの「自然現象」に感銘を受けていたことは間違いないらしい。彼らはそこに人間的な意味や作為を超えた、それ自体として存在する「自生的世界」*1が映し出されていると信じたのだ。さしあたってこれを、わたしは「世界の実在への信」と呼ぶことにしたい。

 この信仰は言うまでもなく、レンズの前の事象を機械的に写し取ることのできるカメラの存在に支えられている。かつての映画のイメージには、写真と同様、そこに映し出されている対象との物理的な結びつきがあった。哲学者のチャールズ・サンダース・パースのいう「指標(インデックス)性」というやつだ。映画のイメージはフィルムに焼き付けられた世界それ自体の光学的な痕跡であり、たとえば画家の意図に従って構成される一般的な絵画とは性質がまったく異なる。古き良き映画における恩寵のごとき聖なるイメージ、あるいは奇跡的な瞬間といったものがあるとすれば、それは映画監督の天才や創意工夫のおかげというよりも(もちろんそれもあるが)、むしろ「自生的世界」の出現をカメラが偶然記録していたからにほかならない──少なくとも、そのように解釈することも不可能ではなかった。

 いちおう断っておくと、これはひどく雑で、単純化されたものの見方である。実際には、もっと複雑かつ難解な議論がたくさん積み重ねられている。けれども、人間の意図とは無関係に、無意味にただ存在し続ける世界への物理的な結びつきこそが、映画を特別な娯楽・芸術形式たらしめていた──あるいはそのような信仰を可能にしていた──ことは否定できないように思う(そんな信仰なんて最初から存在しない、存在したとしても本質的ではない、という異論は当然ありうるけれど、ここでは措いておく)。

 『ポンポさん』で描かれる映画の素晴らしさも、基本的にはこの信仰の延長線上にある。マーティンの存在感は彼自身の実在と切り離すことができないし、雨上がりの虹は世界の偶然性の現れだ。けれども、こうした「世界の実在への信」は、いまやCGの普及とデジタル化によって永久にその根拠を喪失してしまった。デジタルカメラで撮影されたイメージは当然ながら指標性をもたないし、CGでモデリングされたキャラクターはそもそも世界に存在しない。だからといってわたしは、映画全体のクオリティが下がったとか、昔の映画のほうがおもしろかったと言っているわけではまったくない。そうではなく、映画の素晴らしさを世界の実在へと結びつけて語るための根拠が、とはつまり映画に対する信仰の基盤そのものが崩壊してしまったことを確認したいのだ。

 メディア研究者のレフ・マノヴィッチは、このドラスティックな変化を「映画のアニメーション化」と要約している。

ライヴ・アクションのフッテージ[=映像素材]は、いまや手によって操作される材料にすぎない──それはアニメーション化され、3DのCGシーンと合成され、塗りつぶされる。最終的な画像はさまざまな要素から手作業で構築され、しかもすべての要素はゼロから作られているか、手によって修正を加えられているのである。いまや、私たちはようやく「デジタル映画とは何か?」という問いに答えることができる。デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである。

[…]アニメーションから生まれた映画は、アニメーションを周辺に追いやったが、最終的にはアニメーションのある特殊なケースになったのである。*2

 デジタル化された映画は「アニメーションの特殊なケース」、つまりはサブジャンルになった。そのイメージはもはや世界の実在とはなんの関係もなく、人間の「手」で、制作者の意図に従って自由自在に修正・加工・再現されるものにすぎない。かくして人間とは無関係に存在する「自生的世界」への信仰は決定的に崩れ、人間的な意図と作為が充満する別の世界に取って代わられる。この新たな世界では、もはや永久に失われてしまったモメント、つまりは人間の意思とは無関係に生成する「偶然」や「奇跡」の希少性が劇的に高まり、その不可能な再導入が目指されるだろう。自分自身の想定を超えるために絵コンテを放棄した庵野秀明や、日常における偶然的・無意識的な身ぶりを描き続けた京都アニメーションのように。

 『ポンポさん』もまた、こうした不可逆的な変化と無関係ではない。というより、いまや映画がアニメーションの一部になってしまったからこそ、映画についてのアニメ映画というものが成立するのであり、むしろこの変化の帰結をグロテスクなまでにさらけ出している。何度か言及しているマーティンの例でいえば、作中で彼は身体から謎の黒いオーラのようなものが立ち昇り、眼がLED電球のように光るのである。わたしはこのシーンを見たとき、あまりにもアイロニカルすぎて思わず笑ってしまった。映画の素晴らしさをあれほど説いておきながら、そこで描かれているのはきわめて漫画的・アニメ的な記号表現であって、それはまさに古き良き映画が滅びてしまったこと、そして映画がアニメーションのサブジャンルになってしまったことをはっきりと物語っている。

 そもそも俳優の存在感というものは、失われた信仰によれば、彼自身の実在と固く結びついていたはずだ。それはフィルムに物理的に焼き付けられることで、初めて保存・伝達可能なものになる。けれどもデジタル映画では、俳優の存在感なんて後からCGで簡単に修正・加工・再現される「エフェクト」のひとつにすぎない。マーティンの身体から謎のオーラが出たり眼が光ったりする『ポンポさん』も、当然そのように作られている。にもかかわらず、「世界の実在への信」がいまだ生きているかのように語られ、現代では必須ともいえるCGを用いたVFX作業のプロセスは一切描かれない。これがアイロニーでなければなんだろうか。

 『ポンポさん』の最も印象的な場面、ジーンくんが快刀乱麻を断つがごとく鮮やかに映像編集を行うシークエンスにも、この倒錯的な愛が色濃く表れている。剣のような大きな片刃のはさみを手にしたジーンくんが、まるで『ソード・アート・オンライン』シリーズの主人公のように、もつれた映画フィルムの束をばっさばっさと切り捨てていく。かつての映画メディウム(フィルム)をわざわざCGで再現しているのも暗示的だが、それよりも映画制作の最重要プロセスとされる映像編集をこのように、きわめて漫画的・アニメ的に表現することへの躊躇のなさ──そもそも原作は漫画だし、これはアニメ映画だから当然だけれども──に、わたしはひどく感動してしまった。

 『ポンポさん』が描いているのは、たしかに映画への愛にはちがいない。けれども、その愛すべき映画はもうとっくに死んでいて、お墓の下で安らかに眠っていたのである。『ポンポさん』の映画愛とは文字どおり、古き良き映画の死体に魂を吹き込む=アニメートすることであって、それはもはや「世界の実在への信」が決定的に壊れてしまった時代に、動く死体としての、ゾンビとしての余生=死後の生を与えることにほかならない。映画が「アニメーションの特殊なケース」になってしまった時代をこれほど鮮やかに、アイロニカルに描いてみせたアニメ作品がかつてあっただろうか。

 ところで、世界の実在から永久に切り離されたデジタル映画=アニメーションは、自らの存在意義をまったく別の場所に求めることになる。それが人間の感情や情動だ。「映画の観客は実在しないと知っているスクリーン上の怪物をなぜ怖がるのか」というパラドクスが哲学者のあいだで真剣に議論されるほどに、私たちの感情は現実とフィクションの境界をやすやすと超えていく。フィクショナル・キャラクターに対するオタクの「萌え」や「推し」はその最たる例だろう。かくして観客の情動を呼び起こし、揺り動かし、吐き出させることが映画の新たな至上命令となり、そのためにありとあらゆるCGやデジタル技術、広告宣伝戦略が動員される。詳しくは説明しないが『ポンポさん』のストーリーもまた、現代のこうした傾向を忠実になぞりながら展開していく。

 わたしは最初に『ポンポさん』を「映画についての映画」と表現した。けれども、これはあまり正確ではない。そこには死者と生者を分かつ切断線が引かれており、自己言及的・自己批評的な対称性はとっくに解体されている。繰り返しになるが、この作品は死せる映画を墓穴から蘇らせ、失われた「世界の実在への信」を人間の手で、とはつまりアニメーションによって人為的に立て直そうとする試みなのだ。感動的なストーリーの結末とはまったく別に、わたしはこのきわめてアイロニカルな、ともすれば悪意さえ感じられる挑戦に胸を打たれた。こうした非対称的で倒錯的な愛のかたち──ネクロ゠シネフィリアとでも言えるだろうか──こそが、『ポンポさん』を比類ないアニメ映画たらしめている。

 


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*1:長谷正人『映画というテクノロジー経験』、青弓社、2010年

*2:レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』、堀潤介訳、みすず書房、2013年、413~414頁、強調原文

美少女はじめました(バ美肉についての覚え書き)

 最近いろいろ思うところがあり、美少女をはじめることにした。

 美少女といっても、現実に肉体改造したりコスプレしたりするわけではなく、バーチャル美少女セルフ受肉、いわゆる「バ美肉」である。これは文字どおり、2Dや3Dの美少女の姿をしたバーチャルな身体(アバター)に「受肉」し、YouTuberなどとして活動することだ。とくに中高年男性が行う場合は「バ美肉おじさん」と呼ばれる。わたしの場合はさしずめ「バ美肉アニメ批評愛好家おじさん」といったところだろうか。

 バ美肉にはさまざまな方法があるが、いまではスマートフォンひとつで受肉・配信できる手軽なアプリが複数リリースされている。わたしはキャラクターデザインのかわいさに惹かれて、3Dアダルトゲームのモデルをベースにした「カスタムキャスト」というアプリを利用することにした。このアプリでつくったわたしの新たな身体がこれである。控えめにいってかわいすぎる。完全に『けいおん!』シリーズのあずにゃんだが、わたしはあずにゃんに強い思い入れがあるのでむべなるかなという感じである。

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カスタムキャストで作成したわたし

 なぜ急に美少女をはじめたかというと、端的に言って、いまの自分の思考の枠組みに限界を感じていたからだ。『放課後ていぼう日誌』や『のんのんびより』、さらには『スーパーカブ』について書いた過去の文章からも明らかなように、わたしは一貫して、フィクション(とりわけ日常系アニメ)から徹底して排除される、もしくは性機能を抹消された「非人間」として包摂される男性身体の問題に関心を抱いてきた。詳しい議論は繰り返さないが、要するにそれらの背景にあるのは、自分が本来あるべき自分自身から追放されている、疎外されているという感覚である。この感覚をマルクスベンヤミンにならって「自己疎外」と呼ぶことにしよう。もともとは自分の労働力を他者(資本家)に奪われているという文脈だが、ここではもっと広く、自分自身が自分にとってよそよそしいもの、否定的なものに感じられるというほどの意味でとらえてほしい。これはたとえば「弱者男性」論などに少なからず共感してしまう男性なら、直感的に理解できるかもしれない。

 現代の日本社会で、とりわけ社会的地位や収入や家庭に恵まれているわけではない一部の男性にとって、自分の存在を肯定するのは決して簡単なことではない。フェミニストからはしばしば「(有害な)男らしさから降りる」ことが処方箋として提示されるが、まさにその男らしい男性が依然として恋愛市場・経済市場で勝利しているように見える現状では、そもそも「降りる」ことのインセンティブが見えづらいし、具体的な降り方もよくわからない。男らしさにとらわれた自分をひたすら反省し、否定していくしかないのだろうか。それはあまりにも苛酷すぎる──というより、そうした絶え間ない自己否定の圧力こそが、男らしさの呪縛以上に、一部男性の深刻な自己疎外につながっているようにも見える。わたしだって好き好んで男性をやっているわけではない。性的に呪われた身体をもって生まれてきたかったわけではない。

 わたしはアニメを見るとき、いつしかこのような問題関心から逃れられなくなってしまった。自分自身の身体に引っ張られて、以前ほど自由気ままにアニメを見ることができなくなってしまった。とはいえ、それで文章が書けなくなるわけではなく、むしろ関心がはっきりしているせいでスラスラ書けるのだが、これは逆に言えば、いつまで経っても自分の思考の枠組みを超えられないということでもある。同じテーマ、同じモチーフをめぐって延々と書き続けたところで、一時的に慰められこそすれ、わたし自身の自己疎外が解消されるわけではない。

 バ美肉は、そんな悩めるわたしの目に技術的福音として映った。

 わたしの好きな『つぐもも』という青年向けエロバトル漫画に、「斑井枡次(まだらい・ますじ)」という中高年男性キャラクターがいる。斑井は当初、主人公たちに敵対する悪役として彼らの前に立ちふさがるのだが、禁断のアイテムを使用した副作用で醜い化け物のような姿に変わってしまい、敗北の末に殺してくれと懇願する。しかし、主人公の仲間たちは彼を殺すのではなく、特殊な力をもったキャラクター(とある神社の祭神)の手で、かわいらしい「幼女」として生まれ変わらせる。唖然とする斑井に対し、この祭神が発した次のようなセリフが、わたしは強く印象に残っている。

魂の器たる人の形は!

“魂の在りよう”にそってなくては定着に支障があるにぃ!

んでもって

傀儡帯[=禁断のアイテム]の呪いによりゆがめられたおまえの魂に

ふさわしい形がそれ[=幼女]だっただけにぃ!(引用者注)

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つぐもも』26巻、第130話「まあちゃんとたぐり」より

 「呪い」により化け物と化してしまった、とはつまり自己疎外に陥った中高年男性が、まさにその「ゆがめられた魂の在りよう」ゆえに、まったく異なる存在として生まれ変わること。わたしはここに、バ美肉の最も解放的なポテンシャルがあると考えている。それは一言でいえば、自己疎外を生成変化の可能性の条件としてとらえ直すことだ。自分自身から追放され、疎外されているからこそ、たとえば『放課後ていぼう日誌』の魚や『スーパーカブ』のバイクのように、これまでの自分とは似ても似つかぬ存在へと生成変化することができる──あるいは少なくとも、生成変化へと動機づけられることができる。バ美肉はわたしがわたしにしかなれず、いまやそのわたしともうまくやっていけないという自縄自縛をひっくり返し、別の何者かになりうるための前提条件としてポジティブに価値づけてくれる。自己疎外をたんに解消したり低減したりするのではなく、まさにそれこそが新生への敷居であることを教えてくれるのだ。これが福音でなければなんだろうか。

 とはいえ、カスタムキャストによるバ美肉は、VRヘッドマウントディスプレイを装着する本格的な「受肉」ではない。スマートフォンを自分の正面に固定し、ディスプレイ上の美少女と向き合うことで、搭載カメラのフェイストラッキング機能を利用して目や口、頭の動きを追尾・再現するだけだ。さまざまな表情やポーズが用意されてはいるものの、それらをアバターに反映させるには、その都度画面をフリックしなければならない。そのため、カスタムキャストの操作感はVR機器による全方位的な没入とは大きく異なるのだが、わたしにはそれがかえって示唆的に感じられた。

 スマートフォンを自分の正面に立てるということは、つまるところ「鏡」を見るように画面のなかの美少女と向き合うことを意味する。そして鏡とは言うまでもなく、わたしがわたしになるための、ひいてはわたしであり続けるためのきわめて強力な視覚的メディウムである。ある高名な精神分析家は、幼児にとって鏡に映った自分の姿が「自我」の形成に決定的な役割を果たすと述べている。その科学的な真偽はさておき、鏡のなかのわたしがわたし自身の自己イメージをかなりの程度規定していることは間違いない。それは裏返せば、わたしにとってよそよそしいものとなってしまったわたし自身を、にもかかわらずいつまでもわたしにつきまとわせる──つまりは自己疎外を生産し続けるメディウムであるということだ。

 カスタムキャストの配信画面には、そんな逃れがたい自己イメージの代わりに、理想化された仮想身体が表示されている。この美少女はわたしのまばたきに合わせてまばたきし、口の動きに合わせて口を動かし、顔の傾きに合わせて顔を傾ける。画面に近づけば大きくなり、遠ざかれば小さくなる。タイムラグはまったく感じられず、あたかも鏡に映った像であるかのように、わたしの顔面運動の一部を模倣する。これはとても不思議な感覚だ。線と色彩の集積にすぎないモノが、わたしのしぐさを真似ることで、わたしを受け入れようとしてくれている。あるいはそれは罠で、わたしを誘い込み、わたしのような何者かになり、ついにはわたしに取って代わろうとしているのだろうか。

 いずれにせよ、彼女は鏡であって鏡ではない。それは言ってみれば「ゆがんだ鏡」であり、しかしだからこそ、斑井の新たな身体がそうであったように、わたしの「ゆがめられた魂」を“正しく”映し出すことができる。幼少期に埋め込まれた自己イメージを否定するとまではいかなくても、その輪郭をあいまいにぼかし、たわませ、粗いスケッチの線のように複数化してくれる。

 だがそうだとしても、なぜ美少女なのだろうか。動物や植物、鉱物、あるいは偉大な先人にならって「毒虫」ではいけないのだろうか。ほかならぬ美少女であることは、一部の中高年男性にとって代替不可能な価値をもつ。そのことは「バーチャル美少女セルフ受肉」という言葉自体が雄弁に語っている。

 ドイツのある哲学者は、人間だけが「世界」を創り上げることができると述べた。彼に言わせると、動物は世界が貧しく、鉱物にはそもそも世界がない。とすれば、これにならって次のように言うことができるかもしれない──二次元(または3D)美少女は、そのように創られた世界から祝福された存在、あるいは世界を祝福する存在である、と。たとえフィクションや二次創作のなかでどれほどひどい目に遭わされようと、彼女たちはまさにそのことを通じて、当の作品世界を輝かしく意味あるもの、鑑賞に値するものへと変容させる。

 美少女のこのような存在様式は、たんなる世界の貧困(動物)や不在(鉱物)よりも、わたしにとってはるかに遠く隔たって感じられる。というより、フィクションのなかの魚やバイクがそうであるように、むしろ動植物や無機物といった非人間のほうが、自分自身から疎外された中高年男性にはずっと近しい存在なのだ。言い換えれば、わたしはつねにすでに毒虫なのであり、それゆえに毒虫“への”生成変化ではなく、毒虫“からの”生成変化こそが救いとして立ち現れる。

 多くの中高年男性が「バ美肉」するのも、おそらく似たような理由からだろう。そこには美少女への、つまりは世界を祝福し祝福される存在への、やみがたい憧憬と嫉妬の感情がある。彼女たちがしばしば男性向けエロ同人誌で陵辱されるのは、たんに男性読者の性的欲望を想像的に満たすためだけではない。それは存在論的に隔絶された世界へのアクセスを試みる、憧れと妬みとが入り混じった宗教的な営みでもあるのだ。そこでは自慰行為が聖なる儀式となり、射精が祈りの一形態となる。罪を犯すことで罰を待望し、それによって逆説的に超越者の存在を証そうとする転倒した信仰告白……。

 バ美肉は、それまでひとつの方法しか知らなかったわたしに、存在の祝福へといたる別の手段、別の可能性を暗示してくれた。それはわたしの自己疎外を意味あるものに変え、この生を生きるに値するものに変えてくれるかもしれない。呪いを解くのではなく、呪いを新生の糧とすること。救済へといたる扉は、最も呪われた存在にこそ開かれている。

無意識をアニメートする2:『たまこラブストーリー』と非人間への愛

〈以下のテクストは2014年11月に発行されたククラス主宰の批評同人誌『ビンダー vol.1』に寄稿したものです。〉

 

 20144月に劇場公開された『たまこラブストーリー』は、一見したところ、恋愛の痛みと喜びを真正面から描いた王道青春映画であるように思える。しかし、よくよく内容を振り返ってみると、これほどおかしな「ラブストーリー」も他にないのではないか。というのも、このアニメ作品では、あたかも言葉遊びをなぞるようにして物語が展開し、人間ではないものへの愛が人間へとスライドしていくように見えるからだ。これはいったいどういうことなのか。

たまこラブストーリー』はどこがおかしいか

 『たまこラブストーリー』(以下『たまラブ』と略称)は、20131月から3月にかけて放映された京都アニメーション制作のテレビアニメ『たまこまーけっと』(以下『たまこま』と略称)の続編である。前作に引き続き、『けいおん!』シリーズの山田尚子が監督をつとめ、吉田玲子が脚本を手がけている。

 さしあたって『たまラブ』は、とても「わかりやすい」作品であるように思われる。ストーリーはいたってシンプルで、思春期の少年が意を決して幼なじみの少女に告白し、気まずくなってギクシャクするものの、最終的には結ばれるというものだ。こうした王道展開にくわえて、この作品では、さりげない表情やちょっとした仕草、たわいない会話のなかに、それぞれのキャラクターの心の揺れ動きが丁寧に描き込まれている。そのため、同じような恋愛経験のある観客はもとより、残念ながら心当たりのない観客にとっても、ストレスなく物語に入り込めるようになっているのだ。

 しかし、こうしたわかりやすさのおかげで、かえって『たまラブ』の「おかしさ」が見えづらくなっているのではないか。いや、むしろこのおかしさを目立たなくするためにこそ、過剰なほどのわかりやすさが要求されたとさえ言えるかもしれない。では、このおかしさとはどのようなものか。

 映画冒頭から強調されているように、『たまラブ』のヒロインである北白川たまこは、かなり変わった性格付けがなされている。彼女は商店街の餅屋「たまや」の看板娘で、家業である餅作りに異常なほどの情熱を注いでおり、いつも新しい商品を考案するのに余念がない。友人の牧野かんないわく、たまこは餅以外に興味のない「変態餅娘」なのだ。

 こうした性格付けは、当然ながら、彼女を恋愛から遠ざけるように作用する。実際、たまこは面と向かって告白されるまで、幼なじみのあからさまな好意にまったく気がつかなかった。したがって、そんな彼女のラブストーリーを描くにあたっては、山田監督自身が述べている通り、「ずっと脇目も振らずお餅を大事にしていた子がどうやって(恋愛に)転ぶのか」*1ということが決定的な重要性をもつ。そして、まさにこの点にこそ、『たまラブ』のおかしさがあるのだ。

 誤解を恐れずに言えば、たまこが幼なじみの告白を受け入れたのは、彼の名前が「大路もち蔵」だったからだ。つまり、彼女の大好きな「餅(もち)」という言葉が名前に含まれていたおかげで、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことが可能になったのである。これはこじつけでも何でもなく、作中ではっきりとそう描かれている。たまこは告白された後、動揺のあまり日常会話のなかの「餅」という言葉がすべて「もち蔵」に置き換わってしまい、彼のことを一日中意識せざるをえなくなってしまうのだ。

 こうして『たまラブ』では、それまでもっぱら餅に向けられていた愛着が、「もち」という「音像」の同一性を介して、もち蔵に対する愛着へとスライドしていく。要するに、〈たまこは餅が好き=もち蔵が好き〉というわけだ。

 しかし、冷静に考えてみると、これは少々──いや、相当おかしな話ではないか。餅屋の娘が「変態餅娘」なのはまだいいとしても、その幼なじみの名前が「もち蔵」で、さらに名前をめぐる言い間違いや言葉遊びによって「(恋愛に)転ぶ」という超展開は、一般的なラブストーリーの定石を大きく踏み越えているように思われる。

 さらに『たまラブ』には、ほかにも同じような言葉遊びが隠されている。たとえば、映画冒頭では、たまこが友人たちとの会話のなかで、お尻のかたちをした「お尻餅」という新しい商品を思いつくシーンがある。そしてその後、たまこはもち蔵に告白されたショックでバランスを崩し、川に落ちて「尻もち」をつく。ここでも〈餅=もち蔵〉と同様、〈お尻餅=尻もち〉という駄洒落が成立しているわけだ。

 このように『たまラブ』では、わかりやすい物語展開や心情描写とは裏腹に、きわめておかしな作劇手法が用いられている。よくある王道青春映画かと思いきや、唐突にくだらない駄洒落がはじまり、そしてそれをなぞるようにして物語が進行していくのである。だが、そうだとすれば、なぜわざわざそんな手の込んだことをするのか。物語に言い間違いや言葉遊びを織り込むことで、いったい何を描き出そうとしているのか。

無意識をアニメートする(1)──映画けいおん!』と天使のメタファー

 作中に言葉遊びが登場するのは、『たまラブ』だけではない。というより、これまで山田尚子と吉田玲子がタッグを組んだ作品(『けいおん!』および『たまこま』シリーズ)のほとんどすべてに、同じような駄洒落が散りばめられている。したがって、このおかしな作劇手法は、たんなる思いつきではなく、何らかの意図をもって用いられていると考えるべきだろう。では、その意図とはどのようなものか。

 この問題を解くヒントを与えてくれるのが、精神分析創始者として知られるジークムント・フロイトである。というのも、フロイトは『日常生活の精神病理学』(1901年)や『機知』(1905年)といった著作のなかで、数多くの具体例を引用しながら、言い間違いや名前の度忘れ、さらには機知や駄洒落といった言葉遊びのメカニズムについて論じているからだ。

 フロイトにしたがうなら、これらの現象はすべて、本来意識的であるはずの思考プロセスが「無意識」の働きにゆだねられることで生み出される。無意識の領域では、あらゆる語がその固有の「意味」から切り離され、聴覚的な「音像」へと還元されるため、あたかも言葉遊びのように、語の構造や音韻の共通性にもとづいて変形することが可能になる──たとえば、ひとつの語をいくつかに分解したり、それらの一部を別の語に遷移したり、いくつかの語をひとつに縮合したりといったように*2。抑圧された潜在的な記憶や感情は、いわば無意識の言葉遊びとなって日常生活に回帰してくるのだ。

 そうだとすれば、山田監督&吉田脚本の作品に頻出する駄洒落もまた、こうした無意識の働きと関連づけることができるのではないか。つまり、これらの作品では、目覚めた意識ではとらえられない無意識の思考プロセスをアニメートするためにこそ、言葉遊びが用いられているのではないか。具体的な事例を見てみよう。

 言葉遊びが全面的に導入されたのは、おそらく『映画けいおん!』(2012年)が最初である。この作品は人気テレビアニメ『けいおん!』シリーズの劇場版で、高校卒業を間近にひかえた軽音楽部のメンバーたちがロンドンに卒業旅行に出かけ、現地でライブを披露するというストーリーだ。

 実はこのロンドン旅行には、観光以外にもうひとつ重要なミッションが課せられている。そのミッションとは、軽音楽部ただひとりの後輩である中野梓のために曲を制作するというものだ。これはより直接的には、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーを創り出すことを意味している。なぜなら、最終的に梓のために演奏される曲「天使にふれたよ!」のなかで、彼女はタイトル通り「天使」にたとえられているからだ。

 ところが、この曲の制作プロセスが作中で明示的に説明されることは一度もない。ロンドンから帰国した後、主人公の平沢唯はあたかも「霊感」を受けたかのように、突然「天使」という歌詞を思いつくのである。だが、そうだとすれば、〈梓=天使〉というインスピレーションはいったいどこから、どのようにもたらされたのか。『映画けいおん!』では、この無意識の思考=制作プロセスを描き出すために、名前をめぐるきわめて複雑な言葉遊びが用いられている。

 まず、唯は梓のことを一貫して「あずにゃん」と呼んでおり、すでに〈梓=猫〉というメタファーが成立していることを押さえておこう。劇場版では、この愛称がロンドン行きの飛行機のなかで部分的に英訳され、「あずキャット(as-cat)[猫として]」へと変化する。続いて、ロンドン市内の観光中に、この新たな愛称がさらに変化して「(荷物などを)あずきゃっとく[預かっておく]」という駄洒落が生み出される。つまり、〈梓+猫→あずにゃん→あずキャット→あずきゃっとく〉というわけだ。

 この一連の変形によって、これまでの〈梓=猫〉というメタファーはいったん断ち切られ、梓の愛称がたんなる「音像」へと還元される。では、この〈梓猫〉がどのようにして〈梓=天使〉に置き換わるのか。

 ロンドンで演奏する機会にめぐまれた軽音楽部の一行は、最終日のライブに向けて歌詞の英訳を試みる。その際に「not so much A as BAというよりむしろB]」という受験英語の構文が参照されるのだが、唯はそこに梓の愛称を代入するのである。つまり、「あずにゃん」を「あず(as)」と「にゃん[猫]」に再び分解し、それらを「as B」の位置に遷移することで、「not so much A as にゃん[Aというよりむしろ猫]」という言葉遊びを創り出すのだ。まとめると、〈あずにゃん→あず/にゃん+not so much A as Bnot so much A as にゃん〉となるだろう。

 この言葉遊びは、一見したところ、〈梓=猫〉というこれまでのメタファーを強調しているように思える。だが、すでに〈梓猫〉である以上、ここで注目すべきなのは、「Aというよりむしろ猫」という文字通りの意味ではない。そうではなくて、「あずにゃん」という愛称の分解と遷移を通じて、いわば二重の仕方で「あず」と「にゃん[猫]」の関係が問い直されていることだ。

 まず(1)「というよりむしろ」という「否定(not)」の契機によって、「にゃん[猫]」が「A」を抑圧していることが明らかになる。次に(2)「にゃん[猫]」が「B」に代入されることで、それとは別の選択肢「B」を消去していることが明らかになる。要するに、この言葉遊びでは、「あずにゃん」が隠蔽しているものを暴露することで、〈梓=猫〉とは異なるメタファーの可能性を暗示しているのである。では、この「A」と「B」はそれぞれ何を意味するのか。

 さしあたって「A」は、「梓(Azusa)」の頭文字であると同時に、髪をツインテールにした彼女自身の姿をかたどっていると考えられる。他方で「B」は、その後のライブシーンではじめてその正体が明らかになる。舞台上で演奏する主人公の視線の先には、観客席で母親に抱かれた「赤ん坊(Baby)」と、その周囲を気ままに歩きまわる「鳥(Bird)」の姿がある。繰り返し挿入されるこの二つのモチーフは、ある明確な意図をもって描き込まれたものと見て間違いない。つまり、これらは「にゃん(猫)」に置き換えられる前の「BBabyBird)」なのである。

 このように考えたとき、ようやく〈梓=天使〉へといたる通路が切り開かれる。「not so much A as にゃん」という言葉遊びは、これまでの〈梓=猫〉よりも前に、あるいはそれとは別の可能性として〈梓(A)=赤ん坊+鳥(B)〉というメタファーがありうることを示している。そして、この〈赤ん坊+鳥〉が縮合することで、翼をもった無垢な子供、すなわち「天使」の像が生み出されるのである。こうして〈梓=赤ん坊+鳥=天使〉というメタファーが成立する。いまやこの「A」は、長いツインテールを翼のように垂らした〈梓(Azusa)=天使(Angel)〉の象形文字でもあるのだ。

 一見すると荒唐無稽な解釈に思えるかもしれないが、おそらくこれ以外に「天使にふれたよ!」の制作プロセスを説明することは困難だろう。唯が「天使」という歌詞を思いついたのは、たんなる偶然ではなく、ロンドン旅行をきっかけに〈梓=猫〉が〈梓=天使〉へと変形されたためなのだ*3。作中に織り込まれた言葉遊びは、こうした無意識の思考=制作プロセスをアニメートしていたのである。

無意識をアニメートする(2)──たまこラブストーリー』と非人間への愛

 『映画けいおん!』の複雑な言葉遊びにくらべると、『たまラブ』の駄洒落や言い間違いはひどく単純なものに思える。しかし、それによって無意識の思考プロセスをアニメートしているという点では、どちらも変わりがない。違いがあるとすれば、前者が創造的な「霊感」を扱っているのに対して、後者は抑圧された「感情」や忘却された「記憶」に焦点を当てていることだろう。

 すでに見たように、『たまラブ』では、餅に対するたまこの異常な愛着が、〈餅=もち蔵〉という駄洒落を通じて、最終的にもち蔵に対する愛着へとスライドしていく。では、これはいったいどのような無意識の働きによるものなのか。

 おそらく最もわかりやすい解釈は、もともとたまこは餅に対してだけではなく、幼なじみのもち蔵に対しても強い愛着を抱いていた、というものだ。前作の『たまこま』でそのことがはっきりと描かれなかったのは、たまこが自分自身の恋愛よりも、家族や友人、さらには商店街の人々との人間関係を優先していたからだろう。つまり、正確にはたまこの愛着が餅からもち蔵へとスライドしたのではなく、最初からもち蔵のことを好きだったからこそ、大好きな餅と言い間違えてしまったというわけだ。

 この解釈が正しければ、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びには、たまこの抑圧された恋愛感情がアニメートされていることになる。なるほど、たしかに『たまこま』では、これとよく似た言葉遊びを通じて、さまざまなキャラクターの恋愛感情が物語に織り込まれている。前作についてはすでに別の機会に詳しく論じたので*4、ここではひとつだけ例を挙げておこう。

 たまこの妹の北白川あんこは、小学校のクラスメイトである「柚季(ゆずき)」に淡い恋心を抱いている。ある日、彼が転校してしまうことを知ったあんこは、意を決して彼のもとに走り、実家の餅屋で作ったばかりの「つきたてのお餅(豆大福)」を差し出す。彼女は柚季に餅の入った袋を手渡し、その中身を説明しようとするのだが、みるみるうちに顔が真っ赤になってしまう。なぜなら、餅に入っている「餡子(あんこ)」と自分の名前である「あんこ」が混ざってしまい、まるで自分自身をプレゼントしているかのように聞こえてしまうからだ。つまり、ここでも〈餅=もち蔵〉と同じように、〈餡子=あんこ〉という駄洒落を通じて、彼女のひそやかな恋愛感情が描き込まれているのである。

 だが、このように比較すると、二人の違いもまたはっきりと見えてくる。というのも、あんこの反応がきわめてわかりやすいのに対して、たまこは物語の終盤にいたるまで、もち蔵の告白に応えるかどうか決めかねているように見えるからだ。それどころか、彼女は告白された気まずさで、あれほど執着していた餅を一度は嫌いになりかけるのである。

 ここからうかがえるのは、たまこの餅に対する愛着ともち蔵に対する愛着が切り離されているのではなく、無意識のうちに結びついているということだ。そうでなければ、もち蔵に対する気まずさが餅にまで影響することなどありえない。おそらくたまこは、最初からもち蔵を好きだったのではなく、餅に対する愛着を無意識のうちにスライドさせることで、ようやく彼を好きになることができたのだろう。

 つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、あんこの場合とは異なり、たまこの恋愛感情をアニメートしていたわけではなかったのだ。そうではなくて、もち蔵に対する彼女の愛着が餅に対するものと基本的に同じであること、あるいはそこから二次的に派生してきたことを示しているのである。

 『たまラブ』の物語終盤には、そのことを裏づけるようなエピソードが挿入されている。そもそも、たまこが現在のような「変態餅娘」になったのは、幼少期に母親を失ってひどく落ち込んでいた彼女を、顔のかたちをした餅が優しく励ましてくれたからだった。もちろん、餅が言葉を話すわけはないから、実際には誰かが背後で操り人形のように餅を動かし、声を当てていたことになる。たまこはずっとこの餅の正体が自分の父親だと思い込んでいたのだが、実はそれがもち蔵だったことに気づくのだ。

 このエピソードが重要なのは、たまこが「(恋愛に)転ぶ」直接的な動機を説明しているためだけではない。むしろ、その動機が〈餅=もち蔵〉という駄洒落をそのまま反復していることが重要なのだ。しゃべる餅の正体がもち蔵だったということは、たまこにとって彼が文字通り「餅」そのものだったことを意味している。だからこそ、ちょうど言葉遊びをなぞるようにして、餅に対する愛着をもち蔵へとスライドすることが可能になったのだ。つまり、〈餅=もち蔵〉という言葉遊びは、たまこの忘れられた幼少期の記憶そのものであり、餅からもち蔵へとスライドする彼女の無意識の思考=愛着プロセスをアニメートしていたのである。

 このように『たまラブ』は、くだらない駄洒落や言い間違いを物語に織り込むことで、目覚めた意識ではとらえられない恋愛のダイナミズムを描き出している。恋愛に興味がないはずの「変態餅娘」は、まさに「変態餅娘」であることによって、はじめて「(恋愛に)転ぶ」ことができたのだ。そこには人と餅、いや物の区別はない。すべてが等しく「音像」として処理される無意識の領域では、潜在的にあらゆる事物、あらゆる出来事がさまざまな変形を施され、愛することの可能性の条件を形作るのだから。

 たまこのもち蔵への愛は、いわば非人間への愛である。だが、それはちょうど私たちの愛がそうであるのと同じように、真剣で、滑稽で、ときに泣きたくなるほど凡庸なひとつの生の全体を包み込んでいる。何であれ愛することができるということ──それは自分自身の生を肯定する無意識の身振りにほかならない。

 『たまこラブストーリー』は、餅愛づる姫君がめでたく餅と結ばれる、いわゆる「異類婚姻譚」である。私たちは何よりもそのことに慰められ、そして勇気づけられるのだ。

 

 

*1:京都アニメーションの新たな代表作「たまこラブストーリー」ロングランの秘密。山田尚子監督に聞く1 - エキサイトニュース

*2:たとえば、フロイトは『機知』のなかで、ハインリヒ・ハイネの作品に登場する次のような言葉遊びを例に挙げている。「というわけで、学士さん、誓ってもよろしいが、私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人間として、まったく百万家族の一員のように[famillionär]扱ってくれたんですよ」。この「ファミリオネール[famillionär]」という耳慣れない言葉は、「家族の一員のように(ファミリエール[familiäre])」と「百万長者(ミリオネール[Millionär])」を合成したものである。フロイトによれば、これは「ロートシルトは私をまったく自分と同等の人間として、まったく家族の一員のように[ファミリエール]扱ってくれた、つまり百万長者[ミリオネール]にできる範囲で家族のように」という通常の表現を圧縮したものなのだという。つまり、〈ファミリエール[familiäre]+ミリオネール[Millionär]→ファミリオネール[famillionär]〉というわけだ。フロイトは、こうした機知のメカニズムを「代替形成を伴う縮合」と呼び、夢に見られるような無意識の働きと同一視している。

*3:実際、唯は「天使」という言葉を思いつくまで、「君」や「子猫」といった歌詞を検討していた。それらがしっくりこなかったのは、ロンドン旅行を通じて〈梓=天使〉というメタファーが無意識のうちに成立していたためだろう。このメタファーがようやく彼女の意識へと浮上したのは、学校の屋上から羽ばたく鳥の姿を見上げたときだった。

*4:日常生活の暗号解読術 :『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ - teramat’s diary