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未成熟さの倫理──2020年私的ベストアニメ『継つぐもも』について

 2020年も膨大な数のアニメが放送されたが、個人的に最も印象に残ったのは、浜田よしかづ原作の『継つぐもも』だった。もちろん、私が通して見ることのできたアニメの数などたかが知れているから、もっと評価されるべき作品を見落としている可能性は大いにある。それでも、『継つぐもも』が私にとっての2020年ベストアニメである事実はおそらく揺らがないだろう。

『継つぐもも』は2020年4月から1クール放送されたアニメで、前作『つぐもも』(2017)の2期目にあたる。本来ならもっと早く、できれば放送中か放送終了直後には文章化したかったのだが、自分のなかでうまく消化できず、気づけば放送開始から1年近くが過ぎてしまった。このままではいつまで経っても書けないと思い、当時の印象が薄れる前に備忘録を兼ねてブログに上げることにした。なお、以下では『継つぐもも』の詳細なネタバレが含まれるので、未視聴の方は注意してほしい。

 

『継つぐもも』が私にとって衝撃的だったのは、結論から言うと、物語の中盤と終盤がまったくつながっていないように感じられたからだ。もちろん、注意深く見返せばいたるところに伏線が張られているのだが、原作未読の状態でリアルタイムでアニメを追っていた私には、最終盤の展開は完全に予想の範囲外だった。視聴者のミスリードを誘うように巧妙にプロットが仕組まれており、私はそれにまんまとはまったというわけだ。

 さしあたって『つぐもも』は、主人公の男子中学生が、美少女の姿をした「付喪神」とともに地元の町にはびこる怪異を調伏する物語である。もともと主人公は怪異を生み出す「すそ(呪詛)」を集めやすい体質なのだが、母親の形見である着物の袋帯付喪神をはじめ、さまざまな美少女たちの助けを借りながら、町の平和を守る「すそはらい」として成長していく。勘のいい方ならすぐにわかるとおり、この作品は『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(2015~)などと同様、いわば典型的な「美少女獲得型成長物語」に分類される。人助けなどを通じた主人公の成長の「報酬」として美少女による(性的)承認が得られ、しだいにハーレムが形成されていくタイプの物語だ。実際『つぐもも』には、美少女から主人公への性的なアプローチが随所に描き込まれ、少なくとも男性視聴者にとっては大きな見どころのひとつとなっている。「学園で伝奇で美少女山盛りな欲張りコメディ」というのが、アニメ公式サイトのキャッチコピーである。

 じつを言うと、私も『継つぐもも』を見始めたのはほとんどエロシーン目当てだった。そういえば『つぐもも』1期はちょっとエロかったな、というおぼろげな記憶を頼りに、当時不足気味だったエロ成分を摂取するためにdアニメストアで視聴を開始した経緯がある。とはいえ、刹那的な動機にもかかわらず視聴を継続することができたのは、エロ要素はもちろん、物語の構造自体がかなりしっかりしているように感じられたからだ。

つぐもも』1期ではもっぱら主人公の「すそはらい」としての成長のみを取り上げていたが、2期では付喪神と人間との複雑な関係に焦点を当て、道徳的な葛藤が生じるようなプロットが組まれていた。人間に虐待された過去を持ち、「迷い家」と呼ばれる隠れ家でひっそりと暮らしていた付喪神たちが、自らの共同体を維持するために主人公の暮らす町の土地神を襲い、その力を奪おうと計画するのだ。一見してわかるとおり、この設定は明らかにイスラエルパレスチナの領土問題をモデルにしている。虐げられ放浪する付喪神ユダヤ人が、現地の住民=アラブ人を犠牲にするかたちで自らの国家を打ち立てようとするわけだ。それなりによく考えられた構成である。

 この土地神は訳あって幼女の姿をしたロリ美少女で、当然主人公側のハーレムの主要メンバーなのだが、当の主人公は迷い家側から送り込まれたスパイとも仲良くなり、陰謀の渦中に巻き込まれていく。やがて相手の目的と動機を知った主人公は、おそらく彼らの謀略を阻止しつつも、たんに敵として殲滅するのではなく、なんとか共存する道を探ろうとするだろう。なぜなら、それこそが現代社会において道徳的に望ましい態度だからであり、視聴者の多くが期待している展開でもあるからだ。事実、私もそういう物語展開を予想していた。たとえば、人間不信の迷い家付喪神に対し、主人公とパートナーである帯の付喪神との固い絆を見せることで、人間にも信頼に値する者がいることを示し、彼らを一種の「移民」として町に受け入れる──といった具合である。先に挙げた『ダンまち』3期は、こうした王道展開をきれいになぞっている。

 ところが、『継つぐもも』はそうはならなかった。物語の最終盤で、事態はまったく明後日の方向へと展開していくことになる。

 

『継つぐもも』最終話直前の11話で、迷い家はついに主人公の町に総攻撃を仕掛ける。ところが、土地神が町にかけていた結界を解き、ロリ美少女から大人の姿となって本来の実力を発揮すると、あっさり勝負はついてしまう。これで一件落着かと思いきや、迷い家のリーダーは相手方に協力していた謎の美少女二人組に背後から刺されて力を奪われ、黒い球体のなかから死んだはずの主人公の母親が現れる。

 この時点で「は?」という感じなのだが、じつは彼女たちの狙いは土地神による結界の解除そのもので、その隙を突いて母親を復活させるために迷い家に協力していたらしい。つまり、パレスチナ問題を彷彿させるそれまでの物語構造そのものが、視聴者もろとも作中のキャラクターをまるごと「釣る」ための壮大な「疑似餌」にすぎなかったのだ。

 混乱する主人公に対し、土地神は彼の母親にまつわる重大なエピソードを明かす。この母親はかつて主人公自身が生み出した強力な怪異に取り憑かれ、わが子を殺そうとしたところを、もとは母親のパートナーだった帯の付喪神と土地神によって阻止・撃退されたのだという。このあたりの事情は1期でもひそかに暗示されていたようなのだが、主人公は記憶を封印されており、私もまったく覚えていなかった。おそらく原作未読の視聴者は全員同じだろう。

 亡き母親を慕っていた主人公は案の定、ショックで茫然自失状態になる。そのうえ、母親に取り憑いた怪異は主人公が生み出したものであるため、彼自身が倒さなければ町全体を破壊するほどの巨大な災厄、「すそがえし」が起きてしまうのだという。要するに、主人公は自分を殺そうとしてくる母親を、自分の手で殺さなければならないのだ。さもなければ、自分の命はもとより、これまで築き上げてきた美少女ハーレムもすべて失われてしまうだろう。

 これはある意味で、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)冒頭の「エヴァに乗れ」と同じくらい理不尽な状況である。しかも厄介なことに、ゲンドウと違って筋が通っている。ちなみに、母親役の声優はミサトさんと同じ三石琴乃で、軽いノリもどこか共通している。

 だが真に絶望的なのは、突然父殺しならぬ「母殺し」を課せられたことではなく、この母親がめちゃくちゃ強いということだ。最終話でリーダーの敵討ちを挑んだ迷い家の残党を瞬殺すると、主人公を除くほぼ全員を相手に渡り合い、ひとり残らず戦闘不能にしてしまう。これまでハーレム要員としてお世話になってきた美少女たちが次々とやられ、土地神にいたっては目の前で殺されるというショッキングな展開に、主人公と私のメンタルはボロボロである。それでも、ようやく覚悟を決めて母親に立ち向かうものの、案の定まったく歯が立たない。そしてついにとどめを刺されかけたとき、パートナーである帯の付喪神が身を挺して主人公をかばい、彼の代わりに串刺しになって死ぬ。

 

 私の受けた衝撃の大きさが少しでも伝わっただろうか。主人公が最終話でメインヒロインに殺されるアニメは心当たりがあるが、メインヒロインが最終話で主人公の母親に殺されるアニメというのは見たことも聞いたこともない。もちろん、死ぬといっても彼女は付喪神だから、血まみれの死体が転がるわけではなく、バラバラに切り刻まれた着物の帯が風に舞うだけだ。それでも、12話(1期も含めれば24話)をかけて追ってきた物語の幕切れが、主人公ならずとも愛着のある美少女たちの惨殺というのは、さすがに予想の範疇を超えている。ましてや、物語の最終盤までそんな気配を一切感じさせない確信犯的な構成である。いったいどのあたりが「学園で伝奇で美少女山盛りな欲張りコメディ」なのか。コメディ要素ゼロどころか、最終的にマイナスに振り切っている。

 とはいえ、私が『継つぐもも』を高く評価するのは、たんにこの作品がショッキングな結末を迎えたからではない。そうではなく、そのショックには相応の「意味」が見いだせるように思われるからだ。『継つぐもも』最終盤の展開は、言ってみれば、きわめて自己批評的な試みとして理解することができる。

 

 先に私は『つぐもも』について、よくある「美少女獲得型成長物語」と形容した。これは1期および2期の11話までは完全に当てはまる。しかし、2期の最終話は明らかにそうではなかった。むしろ「美少女獲得型成長物語」に対する強烈な自己否定、というより自己批評として機能している。主人公がせっかく築き上げてきた美少女ハーレムが、彼自身の母親の手によってなすすべなく破壊されてしまうからだ。

 しばしば指摘されることだが、男性向けフィクション作品によく見られるこうしたハーレム構造は、男性主人公の母親的なものへの依存と関係しているといわれる。どんなときも主人公を献身的に支え、惜しみない(性的)承認を与えてくれる美少女たちのあり方に、わが子を溺愛する母親の姿が重ねられているわけだ。いささか露骨な言い方をすると、そこでは「セックスできる母親」こそが欲望されている。実際『つぐもも』では、すでに述べたとおり、メインヒロインは母親の形見の帯の付喪神であり、主人公に対してたびたび性的なアプローチを仕掛けつつも、同時に「すそはらい」として未熟な主人公の保護者役も務めている。そこに母親的なものの影を見ないでいるのは難しい。

 ともあれ、私はこうした作品の視聴者が、母親との潜在的な近親相姦願望を抱いていると言いたいわけではない。そうではなく、母親を想起させるほどの美少女による全面的な承認が、主人公の「成長」を駆動していることに注目したいのだ。そもそもハーレムが成立するためには、主人公がヒロインたちから慕われ、ケアされるにふさわしい存在でなければならない。そのために彼は、たとえば人助けなどを通じて自らの道徳的な正しさを証明し続けなければならないだろう。かくして「主人公の成長」と「美少女の獲得」は一体化し、後者が前者の動機ないし目的として機能し始める。つまり「美少女獲得型成長物語」とは、男性主人公がもっぱら美少女による承認を得ることで、あるいはそれを得るために人間的に成長していく──すなわち「ヒーロー」になる──物語類型のことなのだ。

 しかし、これは言い換えると、男性主人公が物語のヒーロー足りえるのは、母親代わりの美少女たちから無条件の承認を与えられているおかげであり、またそのかぎりでしかない、ということでもある。よく知られているように、批評家の宇野常寛は、こうした依存構造を「母性のディストピア」と呼んで激しく批判した。主人公の成長といっても、結局は母親の胎内でまどろんでいるだけであり、美少女たちにかしづかれる「矮小な父」を演じているにすぎないのだと。

 宇野の批判をどう受け止めるにせよ、多くの「美少女獲得型成長物語」が彼の指摘するような構造を備えているのは間違いない。だからこそ、こうした物語構造に自覚的な作品、たとえば先に挙げた『エヴァ』では、最終的に主人公の母親のクローンであるレイではなく、まったき他者としてのアスカとの共生(不)可能性が提示される。相変わらず美少女頼みではあるものの、主人公に幼児的な全能感を与えて物語のヒーロー足らしめる「母胎」の外部へと脱出することが目指されるのだ。

 

 このような文脈に当てはめると、『継つぐもも』もまた、美少女ハーレムをあえて解体することで、類型的な「美少女獲得型成長物語」を更新しようとする試みであることがわかる。そしてこの作品がユニークなのは、母親的なものと関連づけられることの多いハーレムを、主人公と関係のない第三者によってではなく、彼の母親自身の手で破壊させていることだ。これは宇野の言う「母性のディストピア」の正当な表現にも見えるし、またそこからの逸脱にも見える。いずれにせよ、そこでは「母親」という語の持つ意味が反転、あるいは二重化されている。母親とは、たんに無条件の承認を与えてくれる都合のいい女性などではない。そうではなく、しばしばわが子に過剰な役割や期待を背負わせ、趣味嗜好を規制し、子供の人生そのものを呪縛する「ラスボス」的存在でもあるのだ。

 これはある意味で極端な母親像であり、どの程度共感できるかは視聴者の家庭環境にもよるだろう。だが「家父長」という言葉とは裏腹に、家庭内では往々にして母親こそが子供に対して強権的に振る舞う傾向があるように思われる。もちろん、これは多くの場合、彼女が男性中心的な社会から排除され、家庭内で家事・育児を引き受けさせられる性差別的構造によるものであり、フェミニストなら母親のほうが被害者だと言うかもしれない。しかし、子供の側からすると、母親の承諾を得なければ好きな漫画やアニメ、ゲームに触れることさえできず、さらにエロ方面への興味関心にいたっては厳しく検閲されるわけだから、父親よりも母親のほうが「権力者」に見えたとしてもおかしくない。母親を物語のラスボスに仕立てることは、必ずしも不自然な展開ではないのだ。

 かくして『継つぐもも』は、先に見たような「美少女獲得型成長物語」への批判を換骨奪胎し、より強固な「成長物語」へと止揚することができる。美少女ハーレムを揶揄するために用いられていた「母性」や「母胎」といった語は、当の母親自身がヒロインたちを容赦なく殺害することで、メタファーとしての効力を停止してしまう。母親がわが子を殺そうとする以上の「母性のディストピア」など存在しうるだろうか。しかし、これは逆に言うと、主人公がラスボスとしての母親を打倒しさえすれば、この新たな「ディストピア」から脱出できるということでもある。実際『継つぐもも』最終話では、主人公はメインヒロインのなきがら(帯の切れ端)を抱えて一晩泣き明かした後、晴れやかな表情で母親を倒すための修業に出る。つまり、しばしば「美少女獲得型成長物語」の批判的乗り越えとして提示される「母親的なものの否定」という選択肢を、まさにその「美少女獲得型成長物語」のなかで反復し、主人公の新たな「成長」の動機として再設定しているのだ。これこそが先に『継つぐもも』を「自己批評的」と形容した理由であり、また個人的に高く評価する理由でもある。

 もちろん、宇野や彼の支持者はこの展開に納得しないだろう。そこでは結局のところ、美少女からの承認に依存した男性主人公のあり方は何も変わっていないし、それどころか母親を倒すために、あるいは倒すことで美少女ハーレムがより強固なかたちで復活する可能性のほうが高いからだ。事実、原作の続きはまさにそういう経過をたどっている。にもかかわらず、この作品に対して「母性」や「母胎」といった母親由来のメタファーによる批判はもはや成立しない。主人公はまさにその母親にパートナーを殺されたのであり、母親を倒すためにこそ修業に明け暮れるのだから。

 

 このように『継つぐもも』は、主人公の母親に美少女ハーレムを一度破壊させることで、ハーレム構造へのよくある批判を無効化しつつ、それを新たに意味づけ直す。主人公の母親代わりというよりも、むしろ母親を打倒するためにこそ必要とされる構造として正当化するのだ。しかし、そもそも男性向けフィクション作品における美少女ハーレムは、それほど道義的に許されないものなのだろうか。私は必ずしもそうではないと思う。

 たしかに、美少女による承認に依存しながらヒーローを演じる男性主人公のあり方は、本来あるべき(とされる)「成熟」や「自立」とはほど遠いのかもしれない。あるいはそれらの不可能性そのものから目を背けているのかもしれない。『つぐもも』をはじめとする「美少女獲得型成長物語」の男性主人公の多くは、たいがいの視聴者と同様、軟弱で、鈍感で、優柔不断であり、ヒロインの助けがなければひとりでは何もできない。そのくせ、何人もの美少女たちに囲まれてちやほやされ、ときに世界を救うヒーローとしても活躍するのだから、心ある人の目には欺瞞的に映るのもよくわかる。主人公の成長と言っても、結局は新たな美少女を獲得するための聞こえのいい方便にすぎず、女性にモテたい、ヒーローになりたいという男性の幼稚な欲望の受け皿として消費されているだけなのではないか、というわけだ。

 こうした批判はまったく正当なものに思われるし、先に述べたとおり私自身、エロシーン目当てで『継つぐもも』の視聴を始めたことも事実である。だが、それがもっぱら男性視聴者の欲望に奉仕するためのたんなるポルノグラフィにすぎないのかというと、おそらくそうではない。そこには少なくともひとつ擁護されるべき重要なポイントがある。そのポイントとは、自分とは異なる他者や非人間に対するアニミズム的/フェティシズム的感受性とでも言うべきものだ。

 

「美少女獲得型成長物語」の男性主人公の大半は、美少女による承認に依存した見せかけのヒーロー、宇野の言い方では「矮小な父」にすぎない。しかし、これらのフィクション作品において重要なのは、彼らがむしろその矮小さ、卑小さのゆえに、他者の苦痛にやすやすと共感し、手を差し伸べることができるということだ。こうした主人公は、自分が常日頃ハーレムの美少女に助けられ、支えられているからこそ、他者を救うことにためらいがない。しかも多くの場合、ここで言う「他者」には、たとえば人間と敵対する魔物や怪物など、広く人間以外の生物・無生物一般が含まれる。幼い子供が傷ついた動物を家に拾って帰るように、彼らは相手が何者であろうと、目の前で苦しんでいる存在を決して見捨てない。たとえその結果、自分が面倒な状況に追い込まれるとしても、である。これはきわめて倫理的な態度ではないだろうか。美少女ハーレムに依存する主人公の未成熟さこそが、言ってみれば、他者への共感・共生の可能性の条件として機能しているのだ。

 もちろん、これに対してその偽善性を指摘することはできる。かつて「泣きゲー」と呼ばれる男性向けアダルトゲームが批判されたように、結局は「かわいそうな美少女を救って気持ちよくなりたいだけ」ではないかと。しかし、相手が美少女だろうがなんだろうが、苦しんでいる人や困っている人に思わず手を差し伸べてしまうことに対して、つねに「道徳的に正しい」動機を要求するのは端的に間違っている。これは開き直っているわけではなく、こうした行為は思想家の東浩紀が述べているように、もっと本能的で衝動的な「憐れみ」の感情に突き動かされているからだ。そこには打算や下心はもちろん、政治的な友/敵関係をも超え出ていく「未成熟さの倫理」のようなものがある。

つぐもも』もまた、こうした男性主人公の系譜を引き継いでいる。だが、とりわけこの作品で注目すべきなのは、メインヒロインが人間ではなく付喪神であることだろう。モノに魂が宿ることで生まれる付喪神は、明らかに「ただの絵」に人格を見いだして興奮したり感動したりするオタクの振る舞いに対応している。男性向けフィクション作品はしばしばフェミニストから「女性をモノ化している」と批判されるが、おそらくこれは転倒していて、少なくともオタク向け作品に関しては、あらゆるモノを潜在的に美少女として、つまりは魂を持った存在として見ていると言うべきなのだ。そこではモノと人間との差異は必ずしも自明ではない。このアニミズム的/フェティシズム的感受性は、人間と非人間の境界をやすやすと超越し、たんなるモノに感情的にコミットすることを可能にする。そして、まさにこうした「未成熟」な感性こそが、自分とは異なる他者との共生可能性というきわめて現代的なテーマへと接続されていく。

つぐもも』が一貫して描いているのは、人間と付喪神の対等・平等な関係である。帯の付喪神の力を借りて「すそはらい」となる主人公は、人間ではない彼女に対して自分と対等どころか、格上のシニア・パートナーとして接する。さらに、付喪神をたんなる道具としてしか見ない人間と対決し、彼女たちが自分と同じ人格を持った存在であることを繰り返し強調する。そもそも主人公のハーレムを構成する美少女たちの大半は人間ではなく、付喪神や土地神、神の使いといった超常の存在であり、そこでは人間と非人間の区別が完全に失効している。他者との共生という一見リベラルな理念は、あくまでこの神話的な乱婚制の副産物として生じるにすぎない。だが、たとえそうだとしても、この未明の暗闇のなかにはたしかにある種の倫理のようなものが息づいている。それは定型的な成熟の可能性を奪われたこの国で、オタク的ファンタジーを通ってのみ到達しうるいびつな希望そのものだ。私たちはそれと知らずに、もうひとつの未来へと続く敷居の上に立っている。

 

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つぐもも : 1 (アクションコミックス)

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