てらまっとのアニメ批評ブログ

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多層化するスーパーフラット(0.1)

 美術評論家松井みどりは、2003年に発表した論考のなかで、村上隆の「スーパーフラット」概念を再検討しつつ、その理論的更新の必要性を指摘している。松井がキュレーターを務め、2007年に水戸芸術館で開催された「夏への扉――マイクロポップの時代」展は、村上が提示した「絵画的革新の可能性――現実の異化や、無意識の視覚化や、非欧米的な視覚空間創造」*1を引き継ぎ、それを発展させようとする試みだった。そのことは、先の論考で取り上げられているアーティストのひとりが、「マイクロポップ芸術の体現者」として同展に名を連ねていることからも明らかだろう。
 マイクロポップとは何か。松井によれば、それは「主要なイデオロギー的言説に頼ることなく、日常の様々な体験やコミュニケーションの過程から集められた断片を組み替え、独自の美意識や行動の規範をつくり上げる姿勢」*2であり、1960年代後半〜70年代生まれの芸術家に顕著に見られる制作態度であるという。鑑賞者の常識的な知覚を刷新し、ありふれた日常の豊かさや美しさを肯定する彼らの「小さな創造」を、松井は高く評価した。
 けれども、松井が提唱した「マイクロポップ」という言葉からは、スーパーフラットの出発点ともいうべき日本のアニメや漫画、ゲームといったサブカルチャー的文脈が、ほぼすべて削除されている。その結果、幼児的で前近代的、混沌とした文化的猥雑さがきれいに脱臭され、「物質的な成功や名声を追うよりも、今ここの世界で、どのように生きていくべきか」*3を模索する、若手芸術家の人生哲学へと還元されてしまった。スーパーフラットからマイクロポップへの転換は、理論的更新というよりも、むしろ抽象化と脱文脈化のプロセスだったのではないか。 
 それから10年以上が経過した現在、「マイクロポップ」はもちろん「スーパーフラット」もまた、概念としての耐用年数をとっくに過ぎているように見える。松井による更新の試みを別にすれば、それに代わるコンセプトが美術評論市場に流通している気配はない。他方で、スーパーフラットの起点となった日本のサブカルチャーは、良かれ悪しかれ、もはや日本的という言葉がふさわしくないほどに世界化している。とすれば、マイクロポップとは別のかたちで、スーパーフラット「以後」を展開していくことができるはずだ。それはすなわち、平面へと圧縮された無数のレイヤーを、再びうごめかせることにほかならない。
 スーパーフラットを「解凍」する――さしあたってこの小論は、多層化(マルチレイヤード)する表現と社会に追いつくための、理論的スケッチである。(続)

*1:松井みどりポストモダンの彼方――「スーパーフラット」的視覚性の美的可能性」、『美術手帖』2003年3月号、112頁。

*2:松井みどりマイクロポップの時代:夏への扉』、PARCO出版、2007年、28頁。

*3:同書、30頁。