てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(2)

斜めから見る:谷口真人《Anime》と矢吹健太朗To LOVEる ダークネス

前回の記事(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110710/1310312513)からずいぶん時間が経ってしまいましたが、今回は第一回目で取り上げた梅ラボに続いて、イメージのマルチレイヤー性にきわめて自覚的なアーティスト、谷口真人に焦点を当てようと思います。まずは以下のページから彼の作品を見てください。

http://blog.makototaniguchi.com/?month=201104


谷口の代表的な作品として知られているのは、《Anime》(2011年)と題された油絵のシリーズです。一見すると、何かごちゃごちゃした絵の具のかたまりが、まるで空中に浮いているかのように見えるかもしれません。しかし私たちはすぐに、この絵の具のかたまりが透明なガラス板の上に貼りついていること、そしてその背後に鏡が設置されていることに気づくでしょう。つまり谷口の《Anime》シリーズの特徴は、油絵が不透明なキャンバスの上ではなく、手前のガラス板と背後の鏡を木製フレームで囲った箱形の装置の上に描かれていることにあります。そしてこのシンプルな構造は、スーパーフラットな単一表面に対する鋭い批評意識に支えられています。どういうことでしょうか。

そもそもスーパーフラットと言われる作品は、それがアニメであれマンガであれ、あるいは村上隆の作品であれ、つねに正面から、しかも一定の距離をおいて見られることを前提にしています。これは当たり前のように思われるかもしれませんが、たとえば日本で人気の高い印象派の絵画とくらべてみると、スーパーフラットなイメージの特殊性が明らかになるでしょう。

私たちがモネやセザンヌの作品を観賞するとき、その場に立ち止まったまま動かないということはあまりないはずです。むしろ近づいてみたり遠ざかってみたり、意外と動き回っている人が多いのではないでしょうか。なぜなら印象派の絵画は——これは別に印象派にかぎったことではありませんが——、遠くから眺めたときと近くから眺めたときとでは、同じ作品から受けるイメージがまったく異なるからです。私たちはふつう、やや遠目から作品全体を眺め、次に顔を近づけてひとつひとつの「タッチ」を確認し、それからまた少し離れて全体を眺める、このリズムを繰り返しています(そしてこれは同時に、一筆ごとに全体の印象をたしかめる画家のリズムでもあるでしょう)。個々のタッチはひどく雑に見えるのに、全体としてはひとつのイメージが現れているということ。この不思議な揺らぎこそが、もしかしたら印象派の人気の秘密なのかもしれません。

これに対してアニメやマンガを観賞するためには、近すぎても遠すぎてもいけません。アニメは近すぎると目が悪くなる——「部屋を明るくしてテレビから離れてみてね!」——し、マンガは遠すぎると文字が読めないからです。というかそれ以前に、アニメやマンガに近づいても遠ざかっても何も変わらないか、あるいは何がなんだかわからなくなるだけで、印象派の絵画が与えてくれるような驚きはありません。そして観賞者もそのことを前提にしています。だからこそアニメやCGでは、「画質」や「解像度」の良し悪しが問題になるわけです。画像を拡大する=画像に近づくことは、画家の個性的なタッチではなく、ノイズやドットの粗さを際立たせることにしかならないでしょう。

絵画とのちがいを逆手にとったのが、村上隆スーパーフラットな作品です。彼の平面作品に近づいて眺めると、表面が驚くほどツルツル・ピカピカに仕上げられていることがわかります。つまり村上は、画家の手の痕跡をできるかぎり排除することで、セルアニメのキャラクターのようなスーパーフラット性を作り出していると考えられます。そこには印象派の絵画に見られるような、画家の身体の動きと結びついたリズムは存在しません。ちなみに印象派以前のアカデミズムの画家たちは、その卓越した技量によって、個々のタッチによるムラをかぎりなくゼロに近づけようとしました。

そしてもうひとつ、スーパーフラットなイメージは、斜めから見ることができません。これはあらゆる絵画にも言えることですが、とくにアニメやCGにとっては、きわめて重大な意味をもっています。というのも正面から見られることではじめて、イメージ本来のマルチレイヤー性が圧縮され、スーパーフラットな単一表面へと「合成compose」されるからです。たとえばセルアニメでは、前景に位置するキャラクター(作画レイヤー)によって、背景画(背景レイヤー)の一部が隠されてしまいます。このような盲点が生まれるのは、二つ以上のレイヤーをひとつの視点から合成しているためです。そしてこの視点というのが、レイヤーに対して垂直に伸びる視点、つまり複数のレイヤーを「串刺しにする」まなざしなのです(これについては前回の記事(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110710/1310312513)も参考になると思います)。伝統的な絵画や映画には、そもそもレイヤーを合成するという契機が存在しません。

この直進するまなざしは、アニメ制作のデジタル化によって、ひとつの象徴的な表現を見出すことになりました。それが新海誠の多用する「光」の表現です。Photoshopで作られる新海の映像には、多くの場合、カメラが強い光源をとらえたときに生じる複雑な光の演出——たとえばレンズフレアやスミア、ブルーミングといったもの——が施されています。そしてこれらの演出は、画面に一体感を与えることで、複数のレイヤー間のズレを見えなくさせる役割を果たしています。つまり画面の内部から外部へと直進する光が、レイヤーを合成する私たちのまなざしをガイドしているわけです。

新海の光を深夜アニメに応用すると、美少女キャラクターのパンツや裸を隠す「謎の光」や「湯気」になります。そこで私たちがじれったい思いをするのは、ひとつしかない正面からのまなざしがさえぎられているためです。あるいはテレビを下から見ることで、画面のなかの女性のスカートを覗こうとする人の笑い話を思い出してもいいでしょう。逆に言うと、美少女フィギュアの魅力は明らかに、視点の多様さと自由さによるものです(つまりパンツが見えるということです)。だからこそAmazonの商品紹介ページでは、あらゆる角度からのフィギュアの写真が掲載されているのです。


ずいぶん前置きが長くなってしまいましたが、以上の考察はすべて、谷口の《Anime》シリーズに触発されたものです。彼は作品の基底材を立体化・複数化し、そこに斜めからのまなざしを引き入れることで、スーパーフラットなイメージをみごとに「脱—合成de-compose[=分解]」してみせました。詳しく見ていきましょう。

ガラス板に付着した絵の具の正体は、正面からではなく、斜めから見ることによって明らかになります。少し視線を傾けるだけで、ガラス板の背後の鏡に往年の『世界名作劇場』シリーズを思わせる、どこか懐かしい可憐な少女の姿が映し出されていることに気づくでしょう。つまりこの絵の具のかたまりは、実はガラス板の裏側から少女を描いたときに、分厚く塗り重ねられたものだったのです。そして私たちは、ガラス板の背後におかれた鏡の反射によってのみ、裏返された少女のイメージを目にすることができます。しかしそのためには、作品に正面から向き合うのではなく、斜めから見る必要があります。なぜならこの装置の正面に立つと、手前のガラス板と背後の鏡が重なり合ってしまい、絵の具の裏側が隠れてしまうからです。これは言い換えれば、ひとつの視点から二つのレイヤーが合成されることで、盲点が生まれるということを意味します。

ガラス板の裏側の少女の姿を見るためには、ガラス板と鏡のあいだで反射する光をとらえなければなりません。つまりこの二つのレイヤーをぴったりと重ね合わせるのではなく、微妙にずらす必要があるわけです。私たちは作品に斜めに向き合い、ガラス板と鏡をそれぞれ別々のレイヤーへと分解することで、はじめて鏡に映った少女の姿を目にすることができます。したがってここには、スーパーフラットなイメージを脱合成しようとする、谷口の批評的なスタンスを読みとることができるでしょう。そしてそのために彼は、複数のレイヤーを圧縮してしまう正面からのまなざしに代えて、斜めからのまなざしを導入したのです。ではイメージを脱合成することで、いったい何が達成されたのでしょうか。

ガラス板の裏側から塗るという谷口の手法は、直接的には「セル画」の制作手法と同じものです。セル画というのは、透明なシートに描かれた絵(作画レイヤー)のことで、これを背景画(背景レイヤー)に重ねることでセルアニメが作られます。そしてセル画の特徴は、まず下書きの上に重ねてキャラクターの輪郭線を写した後、ひっくり返して裏側から着色するという点にあります。これによってアニメのキャラクターに特徴的な、ムラのないツルツルした表面に仕上がるわけです。そして谷口の手法がおもしろいのは、セル画を裏返したまま展示したことにあります。そうすることで彼は、キャラクターのなめらかな表面の背後に、混沌とした絵の具のかたまりが潜在することを示しているのです。

この絵の具のかたまりは、鏡に映った少女の姿と鋭い対照をなしています。そこにリアル/フィクション、触覚/視覚の対比を重ね合わせることもできるでしょう。しかしここで重要なのは、両者を二項対立的にとらえることではありません。というのも谷口は、フィクションに対してリアルを上位においているわけでも、またその逆でもないように思われるからです。むしろ《Anime》シリーズを見る私たちのまなざしは、どちらか一方のレイヤーに固定されるのではなく、たとえば印象派の絵画を前にしたときのように、ガラス板と鏡という二つのレイヤーのあいだを揺れ動くのではないでしょうか。そしてこの往復運動こそが、彼の作品を優れたものにしている最大の要因であるように思われます。どういうことでしょうか。

ふつう私たちは、アニメやマンガのキャラクターがただの絵であることを知っています。にもかかわらず、ただの絵に強い感情を抱いてしまうことも少なくありません。これはキャラクターに「萌え」たことのある人なら、誰でも一度は味わったことのある経験でしょう。そして《Anime》シリーズの装置を構成する二つのレイヤーは、この認識と感情のズレに対応していると考えられます。絵の具の付着したガラス板が認識をもたらす一方で、少女を映し出す鏡が感情をかき立てるというわけです。したがってこの二つのレイヤーのあいだを往復するまなざしは、認識と感情とのあいだの「にもかかわらず」を絶えず再生産し、私たちに「反省reflection[=反射]」をうながすことになります。これは絵の具のかたまりである、にもかかわらず、少女である、にもかかわらず…といったように。

これに対してスーパーフラットなイメージは、このような反省のサイクルを作り出すことができません。むしろそれは私たちの視点を固定し、反省を遮断することで、キャラクターへの感情的な没入を引き起こすものです(この場合、反省はつねに事後的に——たとえば「賢者タイム」において——なされます)。つまりイメージを脱合成するということは、複数のレイヤー相互のズレや隙間を浮かび上がらせ、それらを新しい関係性のなかに位置づけ直すことにほかなりません。斜めから見るまなざしは、脱合成された二つのレイヤーのあいだの反射=反省を作動させるのです。

フィクションに対してリアルを強調することや、リアルに対してフィクションを擁護することは難しくありません。またアニメやマンガのような油絵を描くことや、油絵のようなCGを描くことも——技術的にはともかく——それほど目新しくはないでしょう。これに対して谷口の独創性は、むしろ両者の関係性そのものをとらえ、その差異を可視化する装置を作り出したところにあります。いまや私たちのまなざしは、スーパーフラットな単一表面を絶えず剥落させ、マルチレイヤーなイメージ空間へと入りこみます。そこではいくつものレイヤーのあいだを反射=反省する光が、私たち自身の網膜をそのひとつの結節点とするような、新しい「星座Constellation」を形作ることになるでしょう。


最後に、もうひとつ実験的な事例を紹介しておきましょう。おそらくいま最も挑戦的な漫画家のひとりである、矢吹健太朗の『To LOVEる ダークネス』(2010年〜)から、主人公の少年リトが美少女暗殺者ヤミのスカートのなかを目撃するシーンです(ここから先は少し性的な描写が続くので、不快に思われる方は読まないでください)。まずは以下のまとめサイトの記事から、「さらなるハレンチな事態に!」というキャプションがつけられている画像を見てください。正面でパンツを脱がされている長い髪の少女がヤミで、左上で慌てている少年がリトです。

【ネタバレ注意】『ToLOVEる ダークネス』第11話はお静ちゃん無双回!お風呂あり!くぱぁ&ペロペロあり!完全アウトな描写あり!? - ToLOVEる☆LOVE


一見して分かるように、正面に固定された読者のまなざしに対しては、ヤミのスカートのなかは巧妙に隠されているように見えます。つまりここではリトだけが、彼女のスカートのなかを目にしているわけです。しかし諦めるにはおよびません。驚きのあまり大きく見開かれた彼の瞳をよく見てください。瞳のなかに細いスリットが描きこまれていることに気づくはずです。これはもちろんリトの瞳孔にすぎないわけですが、にもかかわらず、私たちはそれをヤミの秘密の部分として眺めずにはいられません。これは瞳孔である、にもかかわらず…。

矢吹は少年誌での性的描写の限界に挑戦していると言われますが、このシーンはそのなかでも、最も洗練された表現のひとつに数えられるでしょう。これもまた斜めから見ることで、イメージを脱合成する試みと言えるかもしれません。さしあたって彼は、ヤミのスカートがめくれるという出来事を二つの視点に分解しています(もちろん、それ自体は決して珍しいことではありません)。ひとつは、イメージを正面から見る——したがってスカートのなかが盲点になる——私たち読者の視点です。そしてもうひとつは、ヤミの視点を正面から描き直したものであり、リトの姿が中央にとらえられています。しかしここで重要なのは、直接的には描かれていない第三の視点、つまりリトのまなざしです。

ヤミのスカートのなかを覗くためには、彼女の髪の毛が重ならない角度からの視点が必要になります。そしてこの条件を完璧に満たすのが、いわゆる「ラッキー・スケベ」ことリトのまなざしです。とはいえこのシーンでの彼の視点、すなわちヤミのスカートのなかを、そのまま正面から描きこむことは少年誌では不可能でしょう。こうして矢吹は、いわば必要に迫られて、谷口の《Anime》シリーズと同じようなメカニズムを採用することになりました。つまりリトの瞳を鏡として利用することで、斜めから見るまなざしを正面へと屈折させたのです。それが左下の拡大されたコマです。

さらに矢吹の巧みなところは、ヤミのスカートのなかをリトの瞳孔と重ね合わせた点にあります。そうすることで彼は、イメージに近づく/遠ざかるというリズムを導入することになりました。通常の距離で見るとただの瞳孔ですが、顔を近づけてよく見ると、実は…というわけです。斜めから見るまなざしを密かに描きこみ、イメージを複数のコマへと脱合成すること。この一連の複雑な操作によって、彼は本来見えてはいけないものを描き出すことに成功したと言えるでしょう。