てらまっとのアニメ批評ブログ

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分身の不在、幽霊の視線:『おおかみこどもの雨と雪』について

 細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』が、2012年を代表するアニメ映画のひとつであることに疑問の余地はないだろう。この作品は「おおかみおとこ」である夫を事故で失った未亡人の花が、二人の「おおかみこども」(雨と雪)の子育てに悪戦苦闘する物語である。洗練された映像と音楽、それに感動的なストーリーが多くの観客を魅了し、公開直後から大きな反響を呼び起こすことになった。
 しかしその一方で、『おおかみこども』に対する否定的な意見も少なくない。評論系のブログや同人誌では、実際の子育てと大きく異なっていることや、母親をある種のヒーローとして描くことについて、かなり手厳しい批判がなされている。なかでも注目したいのは、「そもそも主人公の花に共感できない*1というものだ。たしかに母子家庭の子育て(しかも狼男と人間の子供)という大変な状況にもかかわらず、何があってもニコニコしている彼女は──作中でその理由は一応説明されているとはいえ──やはりどこか不自然で、不気味な印象を与えたかもしれない。母性信仰というよくある批判は、おそらくこの点に由来していると言っていいだろう。
 だがここで主張したいのは、まさに花に共感できないということが、『おおかみこども』を比類ない作品にしているということなのだ。この点を説明するために、まずは『おおかみこども』を細田守監督の別の作品と比較し、次におおかみおとこの特権的な位置を確認することにしよう。


 『おおかみこども』の観客は、二重の意味で花から隔てられているように見える。第一に、この作品は花の娘である雪が、幼い頃の母親との思い出を物語るという形式になっている。とはいえ雪のナレーションはさほど多くないし、フラッシュバックのように物語の時系列が大きく前後する箇所も見あたらない。むしろ重要なのは第二の隔たりのほうだ。見たところ『おおかみこども』には、観客がスクリーンのなかに擬似的に入り込み、主人公である花に寄り添うための仕掛けがほとんど存在しない──これが第二の隔たりである。このことは同じ細田守監督の『サマーウォーズ』や『デジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲーム』と比較するとわかりやすいだろう。
 この二つの作品に共通しているのは、世界中の無数のネット・ユーザーたちが主人公に協力して悪いコンピュータ・ウイルスをやっつけるという、いわば『ドラゴンボールZ』の「元気玉」──「みんな、オラにちょっとだけ元気を分けてくれ!」──のようなストーリー展開になっていることだ。この展開には少なくとも二つのメリットがある。ひとつは、味方の劣勢を一挙に挽回することで、物語を劇的に盛り上げることができるという点。そしてもうひとつは、観客を物語のうちに擬似的に参加させることができるという点だ。つまり無名の脇役をたくさん登場させることで、たんなる傍観者にすぎないはずの観客に、自分があたかも当事者のひとりであるかのように想像させ、物語にいっそうのめり込ませるのである(これとほとんど同じことが、おそらく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の「ヤシマ作戦」にもあてはまるだろう)。
 とくに『サマーウォーズ』や『デジモン』では、脇役たちが直接主人公に協力するのではなく、ネットのアカウントやアバターとして登場する。これは現代のソーシャル・ゲームではよく見られることであり、作中の「元気玉」をより現代的・効果的なものにしていると言えるだろう。日々のつらい現実に打ちのめされ、どうせ自分はヒーローにはなれないと諦めている観客でも、ヒーローを応援する群衆のひとりくらいにはなれるのだし、そうなりたいとひそかに願っているのだ──いまは行き場を失った正義感が、ネットの炎上を引き起こしているとしても。主人公のピンチを救う無名のアバターは、そんな観客たちの分身としてスクリーンに登場する。


 このように考えると『おおかみこども』には、観客を擬似的に参加させるためのわかりやすい仕掛けが見あたらないことに気づく。これは言い換えれば、子育てに苦労する花や、人間関係で苦悩する雨と雪を助けるためのアバターが(韮沢のおじいさんを除いて)ほとんど存在しないということだ。だから『おおかみこども』の観客は、擬似的な当事者ではなくたんなる傍観者として、スクリーンの外部から三人の様子を見守ることしかできない。そして実際に彼女たちは、ほとんど誰の助けも借りずに──というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも観客の存在にはまったく無関心に──それぞれの進むべき道を勝手に切り開いていく。
 もちろんアバターが登場しないからといって、主人公に共感できなくなるわけではないし、ましてや物語にのめり込めなくなるわけでもない。だが『サマーウォーズ』や『デジモン』とくらべると、『おおかみこども』の主人公が観客から隔てられていることは明らかだろう。子育ての苦労を分かち合い、花の助けになりたいと思っても、彼女自身がまるで何ごともなかったかのように笑っているのだから(むしろ花の笑顔にいらだつ韮沢のおじいさんの反応は、観客の困惑をストレートに表しているように見える)。実際『おおかみこども』には、コミュニティやコミュニケーションの力で大きな困難を乗り越える、という先の二作品のような展開があまり見られない。花に共感できないという批判は、ひとまずこのような作品の構造に由来していると言えるのではないだろうか。


 しかしこうした『おおかみこども』理解は、それだけでは不十分である。なぜならこの作品には、傍観者としての観客と同じような位置にいるキャラクターがひとりだけ存在する──というより「不在する」と言うべきかもしれない──からだ。それは言うまでもなく、花の亡くなった夫、つまりおおかみおとこである。彼は物語の序盤で早々に退場してしまい、結局最後まで名前さえ明らかにされない。ときどき花の夢や幻想のなかに現れては、子育てに思い悩む妻を抱擁したり元気づけたりはするものの、彼女たちが直面するさまざまな困難に対しては、当然ながら何の役にも立たない。
 これは言い換えると、おおかみおとこが観客とほとんど同じ場所に立っているということだ。観客が物語に擬似的に参加できず、花の苦労を分かち合えないのとちょうど同じように、おおかみおとこは彼の妻や子供たちから隔てられている。つまり『おおかみこども』では、観客は花の子育てに協力できない代わりに、あるいはむしろそのことによって、無名のおおかみおとこの視点に立っているのだ(もしジェンダー的な問題があるとすれば、それは母性信仰がどうこうというよりも、おそらくこうした図式そのものだろう)。だからこの作品には観客のアバターが存在しない、というのは正確ではない。そうではなくて、観客たちは決して物語の当事者になることができず、たんなる傍観者にすぎないからこそ、死んでしまったキャラクターが彼らの分身となるのである。こうして『おおかみこども』の観客は、子育てに参加できないおおかみおとこを通じて、いわば実体をもたない幽霊として作品のなかに入り込むことになる。


 しかしだからといって、おおかみおとこが無意味な存在として描かれているわけではないことに注意しよう。むしろ事態は逆である。たしかに彼は、たとえば韮沢のおじいさんのように、自分の妻や子供たちに実際に手を差し伸べることはできない。しかしそれでも花にとっては、まるで幽霊のようなおおかみおとこの存在こそが、子育ての最大の原動力になっていたことは明らかだろう。というのもすでに触れたように、彼は妻の夢や幻想のなかにたびたび登場しては、子育てに疲れきった彼女を抱きしめていたからだ。それは夫の突然の死によって永久に失われ、夢や幻想のなかであがなわれるほかない、花の幸福な記憶そのものである(おそらくフィクションとは本質的に、実現されることのなかったもうひとつの人生、幸せになれたかもしれないもうひとりの自分なのだろう)。一面に白い花が咲き乱れるあの美しい風景は、農作業で泥にまみれる彼女の姿と明確なコントラストをなしている。
 だがそうだとしても、花が困難な子育てを放棄し、安易な夢や幻想に耽溺していると考えるのは間違いだ。なぜならそれは現実から逃避するためではなく、むしろ現実を生きるためにこそ必要とされるファンタジーなのだから。きっと彼女は自分の夢や幻想が何の役にも立たないことを、また幽霊が何の助けにもならないことを知っているにちがいない。しかしそれでも花を生かすのは、このささやかなファンタジー以外にはありえない。彼女は夢や幻想のなかでだけ、死んだはずの夫に再会し、彼の腕のなかで束の間の幸福感を味わうことができる。だからこそ花は、現実のさまざまな困難にぶつかりながらも、かろうじて笑い方を忘れずにいられるのではないだろうか。彼女が泣き言ひとつ漏らさず、つねに笑顔を絶やさない──そのせいで気味悪がられ、共感できないと批判される──のは、ありえたかもしれないもうひとつの『おおかみこども』、つまりはフィクション内フィクションに支えられているおかげなのだ。たとえそれがどれほど現実の子育てからかけ離れていたとしても、ここに細田守監督の信念を見ないでいることは難しい。
 そしてこうした図式はそのまま、フィクションとしての『おおかみこども』と観客との関係に折り返される。幽霊としての観客に求められているのは、花の過酷な境遇に同情し、擬似的な当事者として協力する(協力した気になる)ことではない。そうではなくて、スクリーンの向こう側に干渉できないことの無力感にさいなまれながら、彼女の物語を最後まで見届けることである──ちょうどタンスの上に置かれた、おおかみおとこの免許証の写真のように。花がもうひとつの世界から見られていることを、幽霊からの視線を信じているのでなければ、大変な子育てに笑顔で立ち向かうことはできなかったにちがいない。見ることが同時に触れることであり、また祈ることでもあるような、見ることの経験がたしかに存在する。


 『おおかみこども』のクライマックス・シーンを思い出そう。オオカミとして山に去っていく雨に取り残され、灰色がかった画面の中央で立ちすくむ、黄色いレインコートに身を包んだ花の姿。しだいに小さくなっていく彼女の視線がとらえているのは、振り返らずに遠ざかっていく若いオオカミの姿なのだろうか、それとも彼女には見えるはずのない世界、つまりはスクリーンの向こう側の客席なのだろうか。「元気で、しっかり生きて!」という花の叫びが雨上がりの澄んだ空気を振動させ、映画館の暗闇に響き渡るとき、彼女の祈りがほかならぬ自分に宛てられたものではないと、どうしてそんなふうに考えることができるだろうか。花が幸福な夢や幻想から目覚めるとき、もしかしたらおおかみおとこの幽霊は、いつもそう言って彼女を送り出していたのかもしれない。
 祈りとはおそらく、ひとつの世界から枝分かれするもうひとつの世界に向けての、ほんの一瞬重なり合った二つの世界のあいだの、最後の挨拶のようなものだろう。フィクション経験の最高次の瞬間、私たちはそんな挨拶を贈られる──ありえたかもしれない人生から、しっかり生きるように、と。

*1:「討論会『おおかみこどもの雨と雪』を語る」『FLOWORDS vol.4』