『まちカドまぞく』、あるいは震災後の日常について

 「日常系」と呼ばれるアニメのジャンルがある。1999年に連載が開始された『あずまんが大王』を嚆矢とし、『らき☆すた』(2004~)や『けいおん!』(2007~)などに代表されるアニメ作品の総称で、2000年代中盤から後半にかけて隆盛した。その多くは『まんがタイムきらら』系列雑誌に連載される「萌え四コマ」を原作とする。

 日常系アニメでは、世界の命運を左右するような大きな出来事が起こらない。そのかわりに、女性キャラクター同士の会話を中心としたありふれた日常が描かれることから、日常系という名前が付けられた。空気系と呼ばれることもある。

 2019年7月から9月にかけて放送されている『まちカドまぞく』も、そうした日常系アニメのひとつだ。けれどもこの作品には、2000年代の日常系とは微妙に異なる特徴がある。その特徴とは、作中で描かれる日常が、たんに謳歌されるものとしてではなく、守られるべきものとしてあるということだ。日常は維持され、保守されなければならない。そうではなければ、それはたやすく壊れてしまう。

 便宜的に、2000年代の日常系アニメを「日常系1.0」、2010年代のそれを「日常系2.0」と呼ぶことにしよう。日常系1.0は、社会学者・宮台真司のいう「終わりなき日常」と深く結びついている。1995年のオウム事件以後、私たちはフィクショナルな「世界の終わり」によって人生を意味づけることができなくなった。もはやこの日常を超える、超越的なものにすがることはできない。日常系1.0は、そんな私たちに寄り添い、内在的に生を意味づける処方箋として登場した。なにも特別な出来事が起こらなくても、少女たちのたわいない会話のなかに、私たちはこの過酷な日々を生きる喜びを見出すことができる。日常系1.0は、終わりなき日常を精一杯、楽しく生きるためのツールだった。

 けれども、2011年に発生した東日本大震災は、日常系1.0のよって立つ基盤ともいうべき日常の脆弱さを私たちに突きつけた。終わりなき日常は、たんなるフィクションにすぎない。日常は唐突に終わる。そして日常系1.0は、日常の終わりという問題系を原理的に扱えない。なぜならそれは、終わらないことの苦悩を癒やすものだったからだ。その唯一の例外が『けいおん!』シリーズだが、これについては、拙稿「ツインテールの天使」で詳しく論じたので、関心のある方はこちらを読んでほしい。

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 震災が突きつけた問題はもうひとつある。それは「この日常は守られるに値するものなのか」という倫理的な問いだ。福島第一原発の事故は、東京と地方との非対称的な関係、植民地主義的な構造を露呈させた。この日常がつねに誰かの犠牲のもとにあるのだとしたら、それを維持することは倫理的に正しいといえるのか。これは日常系の存立そのものに関わる根本的な問いであり、かんたんには解決できない。

 日常系2.0は、震災を契機とするこうした問題に対し、日常系1.0を引き継ぎながら、それらに応答しようとする試みとして理解できる。具体的には、日常が無自覚に生きられるものとしてではなく、自覚的に守られるべきものとして描かれる。しかしだからといって、ありふれた日常を危機に陥れるような大事件が起こるわけではない。そうなってしまったら、それはそもそも「日常系」ではないからだ。この相矛盾する設定が、日常系2.0にはねじれたかたちで現れている。

 『まちカドまぞく』の主人公である吉田優子は、ある日魔族の血に目覚め、シャドウミストレス優子(シャミ子)として魔法少女と戦う使命を課せられる。同級生の魔法少女・千代田桃に挑んだシャミ子だったが、まったく歯が立たず、なぜか一緒に河川敷をランニングするはめになる。その後も桃は、修行と称してシャミ子にさまざまなトレーニングを課す。桃は魔法少女として町の平和を守っており、物語の途中からは、シャミ子もその役割を分担することになる。

 『まちカドまぞく』の主要な登場人物には、この町を守るという目的が設定されている。けれども、東京都多摩市をモデルにした郊外の住宅街に、具体的な危機が訪れる気配はない。むしろ作中で描かれるのは、学校生活やバイト、買い物など、女子高生の平穏な日常そのものだ。にもかかわらず、そこには「町を守る」という不釣り合いなモチベーションがある。そして、そのためのトレーニングもまた執拗に描かれる。

 『まちカドまぞく』のこうした描写には、終わりなき日常ではなく、この日常もまた終わりうるという、日常系2.0の意識が反映されているように思われる。じっさい桃には、かつて魔法少女として世界を救ったという設定がある。これはつまり、そこから世界が救われるほどの大きな危機が過去に生じたということだ。震災の3年後に連載が開始された『まちカドまぞく』に、震災の影響を見てとらないほうがむずかしい。

 興味深いのは、町を守るという目的が、光(魔法少女)と闇(魔族)のバランスを調整することに置き換えられていることだ。当初、シャミ子一家は光の封印によって貧乏生活を強いられており、魔法少女の生き血を捧げることでその封印が破られる。しかし、それは同時に桃の弱体化と町の不安定化をもたらし、シャミ子は桃に協力して町を守っていくことになる。ここには、日常がすべてのキャラクターを包摂する大きな枠組みとしてではなく、さまざまなエージェンシーによって織り成される多元的で流動的な力のバランスとしてあることが示唆されている。『まちカドまぞく』の日常は決して一枚岩ではない。ほつれたり揺らいだりする、いびつな織り物のようなものなのだ。

 日常系2.0がどこに着地するのか、それはまだよくわからない。少なくともいえるのは、震災前の日常系1.0のようには、私たちの生をシンプルに意味づけてはくれないということだ。そこにはもっと複雑で、精妙な配慮と倫理的な態度が要求される。私たちの日常は終わりうる。それがひとつの救いでもありうるということの意味について、私たちはまだ考え始めたばかりだ。