てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈1〉

以下のテクストは2011年に頒布された同人誌『セカンドアフター』に掲載されたものです。

 

希望なき人々のためにのみ、希望は私たちに与えられている。——ヴァルター・ベンヤミン

 

 2011年3月11日――あの日を境に、オタク文化もまた変わってしまったのだろうか。森川嘉一朗によれば、オタク文化は「永続する強固な日常(とその閉塞感)」の上に成立してきたが、いまや「永続する日常という基盤自体に亀裂が走っている」*1。また竹熊健太郎によれば、オタク的な表現は「変質するしかない」。なぜならそれは、オタクの「豊かな日常を前提としたライフスタイル」に支えられているからだ*2。森川と竹熊のツイートは賛否両論を呼んだが、あのとき感じられた「終わり」の感覚は、いまなお多くの人の心に影を落としているのではないだろうか*3

 「終わりなき日常」はたしかに終わった*4。けれどもそれは、東浩紀が指摘しているように、私たちが「ばらばらになってしまった」という意味においてである*5。「終わりなき日常」が終わりを迎えたのは、いわゆる「非日常」や「例外状態」が全面化したからではないし、ましてや「世界」そのものが終わってしまったからでもない。そうではなくて、私たちの「日常」そのものが分断され、ばらばらになってしまったからだ。それは言い換えれば、私たちが「意味を失い、物語を失い、確率的な存在に変えられてしまった」ことを示唆している*6。いまだに行方不明の人。家族や友人を亡くした人。住みなれた土地を追われた人。国外に脱出する人。原発を復旧する人。新政府を立ち上げる人。会社に出勤する人。家でアニメを見る人。恋人とデートする人。子どもと遊ぶ人。ある人の「日常」は終わり、またある人の「日常」は終わらない。そうだとすれば、いま私たちの目の前に広がっているのは、「終わりなき日常」でも「非日常」でもなく、確率的に「終わったり終わらなかったりする日常」ではないだろうか。あるいは宇野常寛の言葉を借りて、「非日常的な緊張感を内包した日常」と言ってもいい*7。いずれにせよそれは、遅かれ早かれ「いつか終わる」という不吉な予感をはらんだ「日常」である。

 本稿で私が問題にしたいのは、たとえば宇野や濱野智史が切り開いたような、オタク文化をはじめとする「ネットカルチャーやポップカルチャーによる連帯」の可能性ではない。「終わりなき日常」がばらばらになってしまったいま、ニコニコ動画ツイッターのおしゃべりに、そのような「連帯」の希望を見てとることは難しい。もちろんこれらのサービスは、今後も変わらずに続いていくだろう。そしてあいかわらず私たちは、アニメやマンガやゲームにのめりこみ、ああでもないこうでもないとしゃべり続けるだろう。だが私たちの言葉が一瞬途切れ、沈黙が支配するわずかな瞬間に、人ならざる者たちの声なき声が語りはじめる。私たちはそれぞれの「終わり」を意識する——動物的な快楽にも、あるいは人間的なコミュニケーションにも還元できない、たったひとつの私の「終わり」を。

 私たちは誰しも、それぞれの「終わったり終わらなかったりする日常」を抱えながら、いつか逃れられない「終わり」を迎えるだろう。けれどもそれは、ばらばらに引き裂かれてしまった私たちにとって、むしろ最後の紐帯とも言うべきものである。だからこそ私は、新しい連帯の可能性について語る前に、その可能性の条件であるところの、還元不可能な「終わり」について考えてみたいのだ。

 私の「終わり」はあなたの「終わり」ではない。だがあなたの「終わり」もまた、私の「終わり」ではありえない。そしてそのことが明らかになるのは、ひとえにあなたがいてくれるからである。私のかたわらで、私の「終わり」を看取ってくれるからである。そこには共有しえないものを分有する経験があり、ただそのようにして私たちは、かすかな連帯の——あるいは「共同体」の——残滓を認めることができる。おそらく「愛」とは、そのようなものであるにちがいない。たったひとりで「終わり」を引き受けることはできない。決してひとつに溶け合うことのない身体。ぎこちなく重なり合い愛撫し合う、傷つきやすい二つの裸体。私たちは避けられない「終わり」において、とはつまり互いの絶対的な有限性が露呈する地点で、ようやく愛することを学ぶのである。フランスの批評家モーリス・ブランショは、それを「恋人たちの共同体」と呼んだ*8

 しかしそうだとすれば、死者たちはどうか。人ならざる者はどうか。生なき者たちは、それどころか交換可能で、複製可能で、不死の存在であるところの「キャラクター」はどうか。大きな揺れで落下し、ばらばらに壊れた美少女フィギュアを前にして、私たちは「喪失」を経験することができるだろうか——まるで家族や友人や恋人を失ったかのように。そんなことはまったく不可能である。私たちはそれぞれの「終わり」を、互いの有限性を分かち合うことができない。それゆえ「愛する」ことができない。私たちは一方的に「萌え」ていただけであり、いまやそれすら不可能である。綾波レイのあまりにも有名なセリフを思い出そう——「私が死んでも代わりはいるもの」。そのような「終わり」において露呈するのは、キャラクターにおける絶対的な有限性の欠如であり、互いの非対称性であり、人間的な愛の不可能性であり、したがって「喪失の喪失」である。

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震災後、『2ちゃんねる』の「フィギュアスレ」には、ばらばらに壊れたフィギュアの画像が多数アップロードされた。「【まとめ】地震でフィギュアの棚が崩れたオタクの人たち」『アプリコットコンプレックス』(http://apricotcomplex.com/archives/51683516.html)より引用。

 だがそのようにして私たちは、互いの有限性を分有するのとはちがうかたちで、すなわち愛するとは別の仕方で、それぞれの「終わり」へと送り返されるのではないだろうか。遍在するキャラクターの巨大なまなざしが、いたるところから私を見つめている。私たちはつねに共にある。互いにまったく異なった存在として、しかしそれゆえにこそ「奇跡」の到来を待ち望みながら。それは決してひとつになることではない。互いを隔てる差異を乗り越えることではない。そうではなくて、自らの有限性において普遍的なものに接触し、そのような接触において自らの有限性を引き受けることである。それは「天使にふれる」経験にほかならない。

 

 議論をはじめる前に、本稿の内容をごく簡単に説明しておこう。私たちは空気系アニメについての分析から出発する(2—5章)。それはキャラ萌えに特化することで、私たちの「終わりなき日常」を豊かに拡張しようとする試みだった。次に『けいおん!!』最終回の神学的解釈を通じて、空気系から排除された「終わり」の問題を扱う(6—10章)。そこで見出されるのは、最後の日に訪れる「救済」の予兆であり、天使のまなざしにふれる経験である。続けて私たちは、ヴァルター・ベンヤミンアレゴリー概念を手がかりに、梅ラボとthreeという二組のアーティストの作品を取り上げる(11—14章)。彼らはキャラクターのイラストやフィギュアをばらばらに分解し、私たちに喪失の不可能性を突きつける。しかしそれは同時に、廃墟におけるアレゴリー的復活の可能性を指し示していた。そして最後に「ルイズコピペ」を解読しつつ、本稿は閉じられる(15章)。

 私たちは一貫して愛と死の問題について論じる。およそ論理的とは言いがたい「電波」な文章だが、私にはそれ以外の文体は考えられなかった——というより、いつのまにかそうなってしまった(たぶん「深夜ポエム」のようなものだと思う)。だがコミュニケーションの連鎖からこぼれ落ちるもののなかに、沈黙や絶句や嗚咽のなかに、はじめて到来する一人称複数形というものがあるのではないか。はじめよう。

 

2

 「空気系」あるいは「日常系」と呼ばれるアニメがある。芳文社の『まんがタイムきらら』系雑誌に掲載されているような、いわゆる「萌え四コマ」を原作とするアニメの総称である。1999年に連載がはじまり、翌年にアニメ化された『あずまんが大王』を嚆矢として、2007年に放送された『らき☆すた』と、2009年の『けいおん!』およびその続編『けいおん!!』の大ヒットをきっかけに、空気系・日常系アニメは、2000年代後半を代表する主要なジャンルのひとつと見なされるようになる。

 これらの空気系アニメにおいては、女子高生・女子中学生たちのたわいない「日常」や、のんびりとした「空気」の描写に主眼がおかれ、喉が指摘するように「女性キャラクターの恋愛対象となるような男の子、日常生活を妨げるような敵、あるいは葛藤や自意識の問題といった内面的な障害は全て作品世界から取り除かれる」*9。しばしば空気系の作品に「明確な物語が存在しない」と言われるのは*10、それがもともと四コマ原作だからというだけではなく、大きな事件や出来事を引き起こしかねない要因が、あらかじめ慎重に排除されているためだ。その理由ははっきりしている。いつか「終わり」が訪れる「物語」の構造は、女子高生たちの「終わりなき日常」を描くには不都合だからである*11。たとえアニメ放送が終了しても、彼女たちの輝かしい日常はいつまでも続く——空気系アニメは例外なく、そのような「お約束」の上に成立している。「俺たちの戦いはこれからだ!」ならぬ「私たちの日常はこれからも!」というわけだ*12

 しかしそうだとすれば、なぜそのような奇妙なアニメが、視聴者の熱狂的な支持を獲得しえたのだろうか。それはおそらく、私たち自身の生のあり方そのものに関係している。私たちは「終わりなき日常」という現実を生きるためにこそ、フィクションとして理想化された「終わりなき日常」を要請したのである。『らき☆すた』が火付け役となった「聖地巡礼」ブームの背景には、この二重化された「終わりなき日常」——というよりも日常それ自体を二重化しようとする飽くなき情熱——が存在する。

 空気系アニメは「恋愛」を排除することで、「終わりなき日常」が物語化されてしまう——とはつまり「終わり」に直面する——可能性を消し去ると同時に、より効率的にキャラクターに「萌える」ことを可能にしたと言われている。ごく単純化して言えば、多くの男性視聴者にとって、作品内に異性のパートナーがいるキャラクターよりも——カップリング萌えや関係性萌えといったものはもちろんあるが——、恋愛経験の少ない、というかほとんどないキャラクターのほうがより感情移入しやすいようだ。アニメ評論家の氷川竜介は、画面のなかに男性主人公(プレイヤー)が描かれない美少女ゲームとの連続性を指摘している*13。男性キャラクターが登場すると、それだけで感情移入の邪魔になってしまうというのである。実際に2011年に放送された『ゆるゆり』では、作中から男性キャラクターが完全に消滅し、女子中学生同士の友情や恋愛がコミカルに描かれ、男性視聴者の圧倒的な支持を集めた。もちろん人気の理由はそれだけではないが*14、いずれにせよ空気系アニメにおける「キャラ萌え」の効率化は、私たちにとってきわめて重要な意味をもっている。なぜならキャラクターに萌えるというふるまいは、ほかならぬ「終わりなき日常」を生きるために編み出され、洗練されてきたひとつの生の作法だからである。

 

3

 キャラ萌えの本質とは何か。それは一言で言ってしまえば、「コピーにアウラを宿らせる能力」である*15。「アウラ」というのは、ドイツの批評家・思想家であるヴァルター・ベンヤミンの有名な概念で、コピーにはないオリジナルの神秘的な権威や重々しい雰囲気といったものを指している*16。ところがいまや私たちは、オリジナルともコピーともつかない「シミュラークル[=まがい物]」であるはずのキャラクターに、〈いま・ここ〉にしかないアウラを見出してしまう*17。それどころか、ニンテンドーDS・ソフト『ラブプラス』のヒットに見られるように、私たちはキャラクターとの擬似的な恋愛を楽しむことさえできる。ではこの逆説的な能力は、どのようにして獲得されたのだろうか。

 よく知られているように、東浩紀は『動物化するポストモダン』のなかで、キャラ萌えが「つねにキャラクターの水準と萌え要素の水準のあいだで二重化されて」いることを指摘している。

[…]九〇年代のオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」とは、じつはオタクたち自身が信じたがっているような単純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費行動である。特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。*18

 東のいう「萌え要素」とは、オタク的な感性を刺激するさまざまなガジェット(ネコミミやメイド服やスクール水着といった視覚的な要素だけでなく、変わった口癖や性格といった設定も含まれる)のことであり、それぞれのキャラクターは、そのような萌え要素の「データベース」のなかから、いくつかの要素を組み合わせることで生成される。そして東の考えでは、キャラクターに萌えるという経験は、シミュラークルとしてのキャラクターに「盲目的に没入」する一方で、キャラクターを萌え要素に「分解」し、再びデータベースへと還元する(そしてまた新たなシミュラークルを作り出す)という往復運動によって特徴づけられる。

 キャラ萌えに見られるこのような二層構造は、オタク的主体の「解離的」なあり方に対応している。すなわちオタクたちは、シミュラークルへの生理的・動物的な「欲求」と、データベースへの社交的・人間的な「欲望」を切り離し、両者を結びつけることなく共存させているというのである。

 たとえば『Kanon』や『AIR』や『CLANNAD』といった「泣ける」ノベルゲームにおいては、「不治の病」とか「前世からの宿命」とかいったような、典型的な萌え要素の組み合わせ(シミュラークル)による「効率のよい感情的満足」が与えられる。それは東が言うように、知的な観賞態度というよりも、生理的で動物的な欲求を満足させようとする、いわば「薬物依存的」な消費行動である*19。しかしその一方でオタクたちは、しばしばノベルゲームのシステムそのものに侵入し、データベースから抽出したキャラクターや背景のイメージを加工・編集することで、新たなシミュラークルを再構成する。ニコニコ動画にアップロードされた膨大な「MAD動画」の数々は、誰かに見せたい・評価されたいというオタクの社交的で人間的な欲望を、素直に反映していると言えるだろう。

 この解離的な二重性は、「コピーにアウラを宿らせる能力」としてのキャラ萌えと深く関係している。ノベルゲームをプレイするオタクたちは、そのゲームがマルチストーリー・マルチエンディングであり、したがって「作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している」*20。キャラクターの「運命」に泣いたり萌えたりすることができるのは、シミュラークルへの動物的な欲求が、データベースへの人間的な欲望から切り離されているためである。「シミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存」*21こそが、「コピーにアウラを宿らせる」という逆説を可能にするのだ。

 

4

 シミュラークルへの動物的な欲求と、データベースへの人間的な欲望の解離的な共存が、キャラクターに萌えるという逆説的なふるまいを支えている。そして私たちにとって重要なのは、そのような二重化された主体のあり方が、近代的な超越性(神や国家や革命といった「大きな物語」)の失墜によって要請されているという点だ。

 かつては東が言うように、それぞれの「小さな物語」(見えるもの)から、その背後にある「大きな物語」(見えないもの)へと遡行し、それによってアウラを見出すことができた。ところが「大きな物語」が失われたポストモダンな社会においては、深層に「大きな非物語」としてのデータベースしか存在しないため、表層のシミュラークルを意味づけることができない(それゆえオリジナルとコピーを区別できない)。したがって私たちは、目に見えない超越的なものにたどり着こうと試みながら、結局はシミュラークルの水準で横滑りし続けるしかない。これを東は「過視的なポストモダンの超越性」と呼んだ*22。キャラクター・グッズや二次創作のコレクションに対する、オタクたちの執拗なまでの情熱は、そのような超越性——というより超越の不可能性——の典型的な現れである。キャラクターに萌えるということは、果てしない横滑りの恍惚に身をまかせることにほかならない。

 キャラ萌えが「終わりなき日常」を生きるための作法であるというのは、このような意味においてである。動物的な快楽と人間的なコミュニケーションをぐるぐる往復しながら、シミュラークルの終わりなき横滑りに没入すること——それこそが「大きな物語」なき後で「終わりなき日常」をやり過ごすための、ひとつの生のかたちなのだ。

 しかしそれでも私たちは、あいかわらずどこかで「終わりなき日常」を終わらせる「デカイ一発」を夢見ているのかもしれない*23。たしかに『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)をはじめとする、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品の流行や、あるいはオウム真理教による無差別テロ事件の背後には、ハルマゲドン的な「世界の終わり」を引き起こすことで「終わりなき日常」から脱出しようとする、ロマン主義的な憧れが透けて見える。そこで描かれる典型的なモチーフは、少年と少女、二人だけの終わった世界——宮台のいう「核戦争後の共同性」——である*24ブランショも「恋人たちの共同体」が「社会の破壊をその本質としている」ことを指摘している。「二人の存在者がささやかな共同体を形成するところには、[…]戦争機械があるいはより正確に言えば大災厄の可能性がつくり出されるのであり、分量自体は極小であるとしてもこの可能性のうちには全般的絶滅の脅威が含まれている」*25

 しかしだからといって、セカイ系アニメの愛好者が全員テロリスト(ないしテロリスト予備軍)であるわけではないし、核戦争による「世界の終わり」を本気で待ちわびているわけでもない。少なからぬ人々が「文明社会が滅亡する夢想にふけることを閉塞感のはけ口としている」としても*26、それ自体は別に倫理的に非難されることではないし、そのような願望はつねにキャラ萌えによって脱臼させられ、「終わりなき日常」へと回収されていると言うべきだろう。『エヴァ』に登場する二人のヒロイン、綾波レイと惣流(式波)アスカ・ラングレーは、いまでも熱烈な崇拝者を数多く抱えている。あるいはセカイ系と空気系のハイブリッドとして、アニメ化もされた大人気ライトノベル涼宮ハルヒの憂鬱』を参照してもいいかもしれない*27涼宮ハルヒが退屈な現実からの脱出を夢見ながら、それと知らずに宇宙人や未来人や超能力者たちと「終わりなき日常」を謳歌するさまは、物語と現実のねじれた関係を見事に描き出している。

 これに対して、空気系や日常系に分類される作品は、宇野のいう「拡張現実的な想像力」に正確に対応している。それは「外部=〈ここではない、どこか〉に越境するのではなく〈いま、ここ〉の井戸にどこまでも潜り、そして多重化していく想像力」である*28。あるいは黒瀬陽平が指摘するように、「いまやアニメのリアリティは、虚構世界の箱庭では完結させることができず、現実世界と並行させることによって確保されている」*29。ありそうにない「物語」を排除し、キャラ萌えを最大限に効率化することで、私たちの「終わりなき日常」の上にもうひとつの「終わりなき日常」を重ね合わせること。空気系アニメが目指したのは、「世界の終わり」を逃避的に夢見ることなく、私たち自身の「終わりなき日常」そのものを多重化し、拡張しようとする野心的な試みだった。

 したがって実際に存在する風景を忠実にトレースし、アニメの背景画として取り込む手法や、あるいはそこから火がついた「聖地巡礼」ブームが、空気系アニメの流行とともに盛り上がったのは偶然ではない*30。そして宇野や黒瀬が言及しているように、これらの現象は、現実の場所にヴァーチャルな情報を付加する「拡張現実augmented reality(AR)」と呼ばれる技術を思い起こさせずにはおかない*31。わかりやすい例としては、たとえば「セカイカメラ」というスマートフォン用アプリケーションや、あるいはアニメ『電脳コイル』(2007年)に登場する「電脳メガネ」が挙げられる。それらを覗くと、現実の風景の上にさまざまな文字や画像が重なって見える。つまり拡張現実においては、いくつもの「レイヤーlayer」の重なり合いとして現実が構成されるのである。「Virtual RealityVR=仮想現実)では、現実空間とは独立した虚構の空間(サイバースペース)を立ち上げることが強く志向されていたのに対して、ARは、あくまで現実空間にかさね合わせるかたちで情報が配置されていく」*32

 私は別のところで、複数のレイヤー間の認知的な「ズレ」が露呈したイメージを、村上隆の「スーパーフラットsuperflat」と区別して「マルチレイヤーmultilayer」と呼び、現実を多層的なレイヤー構造として捉える視点を「マルチレイヤー・リアリズムmultilayer realism」と名づけたことがある*33。しばしば透視図法的なリアリズムで描かれる背景画(背景レイヤー)と、記号的にデフォルメされたキャラクター(前景レイヤー)を合成して作られるアニメやノベルゲームの映像は、マルチレイヤーなイメージの典型的な事例である。あるいは美少女フィギュアを屋外で撮影した写真や、PhotoshopやSAIといったソフトで制作される美少女キャラクターのコンピュータ・グラフィックを挙げることもできるだろう。アニメやゲームの映像にとどまらず、すでに多くの若いアーティストたちが、オタク文化の枠を超えてこの新しい現実認識の問題に取り組んでいる*34。ありふれた「日常」を多重化・多層化するまなざしは、いまや異世界をはるか遠望する視線に代えて、私たちの身体に直接インストールされつつあるようだ。

 私たちはアニメの舞台となった「聖地」に参拝し、キャラクター・グッズや二次創作を買い集め、飽きることなくネットで情報交換しながら、果てしないシミュラークルの奔流に押し流されていく——不安定に揺れ動くレイヤーのはざまに、確率的な「終わり」が待ち受けているとも知らずに。

 

5

 空気系や日常系と呼ばれるアニメは、私たちが「終わりなき日常」を生き抜くための「キャラ萌え」成分を供給してくれる。この点で、たとえば「空気系には物語がないから退屈だ」というよくある批判は当たらない。なぜなら空気系アニメとは、宇宙や異世界といった物語的な「外部」を召還することなく、あくまで〈いま・ここ〉に踏みとどまりながら、私たちの動物的な快楽と人間的なコミュニケーションを充足させようとする、画期的な生のモデルだったからである。「退屈」な日々から脱出しようともがくのではなく、魅力的なキャラクターに萌えながら毎日を楽しく生きること。「『らき☆すた』の登場人物たちが、漫画、アニメ、ゲームなどの話題で日常の生活空間を彩るように、[…]現代の消費者たちはそんなキャラクターたちを用いて日常生活空間を彩っていく」*35

 空気系アニメに登場する等身大のヒロインたちは、私たちの「終わりなき日常」に寄り添い、今日とさして変わらない明日を生きるための、ほんの少しの元気を分け与えてくれる。つまりキャラ萌えに特化した空気系の作品は、「大きな物語」の凋落に対する優れたセーフティー・ネットとして、もしくは良質の「サプリメント」として機能していたのだ。そこにはたしかに「日本の若者は不幸じゃない」と言い切れるだけの可能性があった*36

 数万人もの死者・行方不明者が出たあの日。永遠に続くかに見えた私たちの日常は、ある日突然ばらばらになってしまった。より正確には、そのことがようやく可視化されたと言うべきかもしれない。いずれにせよ私たちは、あれからずっと確率的な「終わり」の予感につきまとわれている。けれども空気系や日常系の作品は、私たちの根源的な問いに対する答えを与えてはくれない。というのもそれは、明確な「物語」を排除し、やがて訪れる「終わり」の可能性を消去することで、果てしないキャラ萌えの往復運動を積極的に肯定する、そのような作品の総称だからである。

 もちろん空気系アニメがすべて「オワコン」になったとか、あるいは逆にセカイ系が復活して「覇権」を握るなどと主張するつもりはまったくない。すでに述べたように、それぞれの「日常」が完全に消え去ったわけでも、ましてや「世界」そのものが滅びたわけでもないからだ。新しい/古いの二分法はたしかに魅力的だが、いささか繊細さと誠実さに欠ける。それどころか野蛮でさえあるだろう。

 しかしそうだとしても、「終わりなき日常」を生き抜くための生の作法は、原理的に「終わり」の問題を扱えない。それは「終わらない」ことへの苦悩に対処するためのものであって、いつかやってくる還元不可能な「終わり」を引き受けるためではなかったのだから。私たちがまるで何事もなかったかのように、アニメやマンガやゲームについてしゃべり続けるしかなかったのは、したがってそのような「喪失」の経験を受けとめる術を知らなかったせいかもしれない。それとも東が予見していたように、シミュラークルが全面化した現代社会においては、現実の人間の死もキャラクターとの別れも、すべてが一元的な「キャラ萌えのグラデーション」に回収されてしまうのだろうか*37。遠い被災地の映像と美少女キャラクターの画像がフラットに並べられ、萌える(泣ける)かどうかだけで感情移入の度合いが決まる——それがキャラ萌えの正義であり、過視的なポストモダンの倫理である*38

 だがそうだとすればなおさら、私たちはそこで本当に失われたもの、すなわち「喪失の喪失」にこそ目を向けるべきではないだろうか。もはや倒壊した美少女フィギュアに「萌える」ことはできない。かといって私たちは、「彼女」を愛していたとうそぶくこともできない。キャラ萌えが暴力的に中断され、シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動が停止する瞬間。人間的な「喪失」の不可能性が露呈する、そのような空白地帯に踏みとどまることで、私たちはそれぞれの避けられない「終わり」を引き受け、破局的な「世界の終わり」へと短絡することなく歩みを進めることができる。

 そのための足がかりはどこにあるのか。2000年代後半の空気系を代表する作品でありながら、同時に「終わり」の問題を真正面から引き受けた特異なアニメが存在する——『けいおん!!』である*39

teramat.hatenablog.com

*1:森川嘉一朗(@kai_morikawa)の2011年3月21日のツイート(http://twitter.com/#!/kai_morikawa/status/49697021065560064)より引用。この前後のツイートについては「森川嘉一郎氏(@kai_morikawa)の語る、震災が今後のおたく文化に与える影響について」(http://togetter.com/li/114414)にまとめられている。また森川嘉一朗・斎藤環「3.11後のオタク文化のゆくえ」『現代思想9月臨時増刊号 vol.39-12 緊急復刊imago』青土社、2011年、214—229頁も参照。

*2:竹熊健太郎(@kentaro666)の2011年4月13日のツイート(http://twitter.com/#!/kentaro666/status/58173115523530752)より引用。この前後のツイートについては「竹熊健太郎氏(@kentaro666)の語る、3.11以後のオタク的な表現」(http://togetter.com/li/123544)にまとめられている。また竹熊健太郎「「終わりなき日常」が終わった日」『思想地図β vol.2』コンテクチュアズ、2011年、148—159頁も参照。

*3:森川や竹熊らのツイートに対する反論としては、たとえば「希有馬氏、「震災原発事故でオタクのリアリティが変わる論」への疑義」(http://togetter.com/li/123635)がある。

*4:周知のように「終わりなき日常」というのは、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件を分析・批判するために、宮台真司が提示した言葉である。いわゆる「転向」前の宮台は、ブルセラ少女を例に挙げながら、現代の日本社会に生きる私たちにとって「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」が重要であることを強調していた(宮台真司『終わりなき日常を生きろ』ちくま文庫、1998年)。

*5:東浩紀「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」『思想地図β vol.2』、8—17頁。

*6:同論文、11頁。

*7:宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011年、6頁。

*8:モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997年。

*9:喉「収斂する欲望——アニメというマトリックス」『アニメルカ vol.3』、2010年、53頁。

*10:前島賢セカイ系とは何か』ソフトバンク新書、2010年、234頁。

*11:宇野は空気系を「目的」の不在として記述しているが、これは「目的=終わりend」である以上同じことである(宇野『リトル・ピープルの時代』、390—391頁)。

*12:第二期『けいおん!!』のアニメ放送終了に合わせて完結した原作コミック『けいおん!』が、(おそらく読者の強い要望と掲載誌の売り上げを考慮して)連載を再開したことは広く知られている。連載再開後の『まんがタイムきらら』の売り上げは、再開前の約三倍に上ったという。以下のまとめサイトの記事を参照。「原作『けいおん!』が連載再開でまんがタイムきららの売り上げが約3倍近くアップ」『やらおん!』(http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-1897.html)。

*13:東浩紀宇野常寛黒瀬陽平・氷川竜介・山本寛「物語とアニメーションの未来」『思想地図 vol.4』NHK出版、2009年、198頁。

*14:実際に『ゆるゆり』が百合作品として受容されているかどうかは異論がある。この点については「ゆるゆりは百合作品ではなく、日常系コメディ」(http://togetter.com/li/188990)および「\アッカリーン/がゆるゆりのシンボルになってる状況うぜえ。あいつ百合じゃないじゃん」(http://togetter.com/li/177348)を参照。

*15:東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出文庫、2011年、408頁。

*16:ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション 1』浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、590頁。

*17:シミュラークル」というのは、フランスのポストモダン思想家として知られるジャン・ボードリヤールの概念である。もともとはプラトンに由来する言葉だが、(おそらくジル・ドゥルーズとピエール・クロソフスキーを経由して)ボードリヤール現代社会の分析に用いて有名になった。詳しくはジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』今村仁司塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年および『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳、法政大学出版局1984年を参照すること。

*18:東浩紀動物化するポストモダン講談社現代新書、2001年、75—76頁。

*19:同書、129頁。

*20:同書、124頁。

*21:同書、140頁。

*22:同書、160頁。

*23:来るはずのない「デカイ一発」という表現は、鶴見済完全自殺マニュアル太田出版、1993年の序文に記された印象的な言葉で、「世界の終わり」の不可能性を指摘するためにしばしば引用される(たとえば宮台『終わりなき日常を生きろ』、89頁や、宇野『リトル・ピープルの時代』、4—5頁、さらに竹熊「「終わりなき日常」が終わった日」、157頁)。

*24:宮台『終わりなき日常を生きろ』、18—20頁および95—97頁。

*25:ブランショ『明かしえぬ共同体』、101頁。

*26:竹熊「「終わりなき日常」が終わった日」、155頁。

*27:宇野『リトル・ピープルの時代』、388—390頁。

*28:同書、395頁。

*29:黒瀬陽平「新しい「風景」の誕生」『思想地図 vol.4』、134頁

*30:たとえば『らき☆すた』の聖地として一躍有名になった埼玉県鷲宮町鷲宮神社では、地元商工会の強い後押しが功を奏したこともあって、正月三が日の参拝者数がアニメ放送開始前(2007年)の9万人から、2011年には47万人と5倍以上に激増した。以下のまとめサイトの記事を参照。「「らき☆すた」の鷲宮神社、正月の参拝客、平野綾効果で2万人増の47万人」『人生vip職人ブログ』(http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-3538.html)。また鷲宮町商工会のホームページ(http://www.wasimiya.org/)には、『らき☆すた』に関連したさまざまなイベントや、お土産の情報が掲載されている。『らき☆すた聖地巡礼についての研究論文としては、次のものがある。山村高淑「アニメ聖地の成立とその展開に関する研究:アニメ作品「らき☆すた」による埼玉県鷲宮町の旅客誘致に関する一考察」『国際広報メディア・観光学ジャーナル 7』、2008年、145—164頁(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/35084/3/p145-164yamamura.pdf)。

*31:拡張現実と聖地巡礼の親和性については、宇野『リトル・ピープルの時代』と黒瀬「新しい「風景」の誕生」に加えて、みやじ・はるお・よしたか/tricken/反=アニメ批評による座談会「背景から考える——聖地・郊外・インタラクション」『アニメルカ vol.3』、28—29頁が参考になる。またアナログ拡張現実装置「あなる」を使って聖地巡礼した際の記録『「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。聖地巡礼in秩父with拡張現実』(http://togetter.com/li/138918)も参照してほしい。

*32:佐々木友輔「拡張された郊外におけるアート」『floating view “郊外”からうまれるアート』佐々木友輔編、トポフィル、2011年、56頁。聖地巡礼とは直接関係しないが(むしろ『電脳コイル』のそれに近い)、佐々木の映像作品および彼がディレクションした「floating view “郊外”からうまれるアート」展は、拡張現実という技術と現実の風景とのかかわりを考える上で、きわめて重要な示唆を与えてくれるだろう。

*33:この点については、拙ブログ『The Day After Yesterday』の以下の記事「多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(1)」(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110710/1310312513)および「多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(1.5)」(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110813/1313248189)、さらに拙稿「多層化する世界——魔法少女とマルチレイヤー・リアリズム」(同人誌『魔法少女のつくりかた』に掲載予定)を参照。

*34:たとえば先に言及した映像作家の佐々木に加えて、美少女CGのレイヤー構造にきわめて自覚的なJohn Hathway、「アニメ」で知られる谷口真人、それにアナログ拡張現実とも言うべき池田朗子の試みを挙げることができるだろう。John Hathway村上隆の「pixiv Zingaro」で開催された「JH科学展」のメッセージ(『pixiv Zingaro』http://pixiv-zingaro.jp/exhibition/jhkagaku/)のなかで、彼が「レイヤーと呼ばれる仮想の透明なシート状キャンバスの概念を利用して画像を作り上げて」いること、そして「レイヤーを2000枚〜4000枚程度使い、それを時系列であったり加工であったりどんどん重ねて一ヶ月〜半年かけて一枚の絵にして」いることを明らかにしている。彼は「JH科学展」で、自らの作品に3D加工を施し、手前側に描かれた美少女キャラクターを浮かび上がらせて見せることで、CGにおけるレイヤーの多層性を具現化しようと試みていた。また谷口真人は、ギャラリー「SUNDAY ISSUE」で開いた個展「アニメ」において、透明なガラスに裏側から少女の姿をペイントし、それをまた裏返しにして——とはつまり混沌とした絵の具の面を表にして——鏡に映して見せるという作品を発表している(『MAKOTO TANIGUCHI』http://blog.makototaniguchi.com/)。それはスーパーフラットなイメージによって抑圧されているものを可視化しようとする試みとして理解しうる。池田朗子もマルチレイヤーなイメージの優れた探求者である。写真の一部を切り抜いて折り曲げ、人物や車や家を立たせて撮影した作品のシリーズ(その一部は『光景 their sight/your sight』青幻社、2008年にまとめられている)や、小さな飛行機のモチーフを乗り物(バスや電車、車、飛行機、船)の窓ガラスに貼りつけ、移り変わる背景とともにビデオ撮影した『サイト・サイト・サイトプロジェクト』(2000年)は、イメージの多層性を洗練されたかたちで描き出していると言えるだろう(『AKIKO IKEDA』http://ikedaakiko.net/index.html)。

*35:宇野『リトル・ピープルの時代』、392頁

*36:福嶋麻衣子・いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』ソフトバンク新書、2011年。

*37:東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、409—410頁。彼はミステリー作家の法月綸太郎との対談のなかで、プレイステーション・ソフト『どこでもいっしょ』の人気キャラクターである「トロ」と、紛争地である「コソボチェチェンのニュース映像」、そして「身近で触れる家族や恋人」をフラットに並べ、やがて「この三つの存在がすべてシミュラークルになってしまって、感情移入の大きさだけでグラデーションのように捉えられる世界観になるような気がする」と語っている(409頁)。

*38:東自身の立場は微妙である。彼はシミュラークルの全面化が不可避であることを指摘する一方で、キャラ萌えを支える解離的な主体性に無自覚であり続けることを批判する。東に言わせれば、萌えの手前に立ち止まることで「解離を解離のまま受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繋がる」のだという(『ゲーム的リアリズムの誕生講談社現代新書、2007年、3一6頁)。キャラ萌えの中断というモチーフは、たとえば後で分析する梅ラボやthreeの作品のなかに、はっきりと見てとることができる。

*39:これはもちろん『けいおん!!』にかぎったことではなく、たとえば劇場公開されたアニメ『時をかける少女』(2006年)には、延々とループし続ける「終わりなき日常」からの離脱というモチーフが、より洗練されたかたちで提示されていると言うこともできる。しかしそこで主題的に描かれていたのは、誰もが共感できる青春のさわやかな汗と涙であって、オタク的なキャラ萌えの可能性は周到に排除されていた。本稿で『けいおん!!』を取り上げるのは、(もちろん個人的な嗜好もあるが)それが一方でキャラ萌えに特化し、他方で「終わり」の問題に向き合っているからだ。私たちはこの落差にこそ注目する。

アニメはひとを救わない:京都アニメーションに献花する

 8月24日、放火事件のあった京都アニメーション第一スタジオに献花してきた。26日以降は献花台が撤去されるため、花を手向けることもかなわなくなる。

 あの日、ぼくはパートナーの展示の搬入と設営のために脚立にまたがり、白い展示室のなかで悪戦苦闘していた。一息つきながら何気なくTwitterを開くと、京都アニメーションが燃えているという画像つきの投稿が目に入ってきた。そのときはまだボヤか何かだと思っていた。けれども、どうやら放火らしいという情報とともに、現場の凄惨な様子が明らかになっていくにつれ、あまりの事態に言葉を失った。

 死傷者数はTwitterを開くたびにどんどん増えていった。作業が手につかず、更新されるニュース速報を何度も読み返した。照明機材を持つ手が震えた。自分がいったい何をしているのかわからなくなって、その場にへたりこんでしまいそうだった。

 献花台には、自分と同じように花を携えた人びとがひっきりなしに訪れていた。献花台は花であふれ、飲み物やお菓子、千羽鶴がいくつも供えてあった。

 京都アニメーションという名前は、アニメファンにとって特別な響きを持つ。とりわけぼくのような、2000年代初頭からアニメをもう一度見始めたような人間にとって、その名前は綺羅星の如き作品たちに彩られている。『AIR』『Kanon』『CLANNAD』『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』……。

 それらは鬱々とした大学時代に寄り添い、明日を生きるための活力を与えてくれた。自分に価値が見出せず、人生の意味を見失った、そういう人間の傍らにいつもいてくれた。同じような経験のあるひとも少なくないと思う。

 震災が起こる前の2000年代半ば、アニメは「終わりなき日常」を生き延びるための精神的なセーフティー・ネットとして機能していた。ぼくはアニメに、京アニに救われていた──そう言ってしまいたい気持ちはある。だが、それは結局のところ、偶然と幸運によって生き残り、人生に踏みとどまれた者のバイアスにすぎない。

 JR六地蔵駅から、献花台の設置されている京阪六地蔵駅への短い道のりを歩きながら、この周囲を歩き回った犯人のことを考えた。彼はぼくと同じように関東から新幹線で京都へ向かった。周到に下見を重ねたうえ、現場付近のスタンドでガソリンを調達。用意した台車に載せて運び、スタジオに撒き散らして火を放った。狂気と呼ぶほかない、驚くべき行動力だ。

 犯人のことを考えるたび、ぼくは自分の人生が彼のようではなかったことに安堵し、そして戦慄する。なぜぼくは犯人ではなかったのだろう。なぜぼくはガソリンを撒かず、火をつけずにすんだのだろう。なにがぼくと彼とを分けたのか。

 一部では犯人に精神疾患があるとの報道もあった。彼もまた、過酷な日々をアニメによってなんとかつなぎとめられ、持ちこたえてきたのかもしれない。あるいはアニメだけが、ほとんど唯一の社会との接点だったのかもしれない。アニメは、そういうぎりぎりの人間に寄り添うセーフティー・ネットとして機能する。だから、そこからついにこぼれ落ちてしまったとき、彼の狂気は、最後まで付き合ってくれたアニメそれ自体に向いてしまったのかもしれない。

 献花台のすぐ近くにある、焼け焦げたスタジオを見た。黄色い建物が真っ黒になっていた。女性がすすり泣いている。男性が腕組みをして、無言で立ちつくしている。

 ぼくにとって、この事件は他人事ではない。たんなる狂人のしわざとして、自分から切り離して処理することができない。それは京アニのファンだから、思い入れがあるから、というだけではない。そうではなくて、犯人のなかに、アニメによってはついに救われなかった自分の似姿を見てしまうからだ。

 アニメはひとを救わない。ただ寄り添うことしかできない。ひとを救うのは、ぼくらの社会のさまざまな制度であり、法であり、絆でなければならない。二度と同じような事件が起こらないように、ぼくらは、ぼくら自身を救わなければならない。

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈2〉

 テレビをつける。パソコンを開く。スマートフォンのロックを解除する。これらはいずれも、現代の情報環境下でアニメを見るための最初のステップである。これらの情報機器は私を取り巻く環境のなかに、日常という連続的な時間の流れのなかに、ひとつのモノとして埋め込まれている。テレビやパソコン、スマートフォンを操作してアニメを見ることは、したがって、そうした環境からの一時的な離脱ないし中断を意味しない。そうではなく、アニメを見ることはあくまで、私のこの日常の延長線上にある。

 テレビやパソコンの画面でアニメを見ながら、私はソファに寝そべり、菓子を食べ、ジュースを飲み、時折トイレにも行く。あるいは電車の座席に座り、揺られながら、眠りながら、スマートフォンでアニメを見る。同時に複数のウィンドウを開いてはそれらに目をやり、他人の感想を追い、時間を気にし、日々の雑事をこなす。アニメを見る私は、だらしなく、徹底的に、環境のなかに溶け込んでいる。アニメを見ること以外のさまざまな物事に、潜在的に注意を向けている。

 私は気の散った状態でアニメを見る──。これがアニメを見ることの第一の前提だ。私はテレビやパソコン、スマートフォンのひとつの画面に、完全に注意を集中しているわけではない。私の注意は環境中のあちこちに拡散している。このような知覚のあり方を「気散じ」と呼ぼう。

 18世紀ドイツの哲学者であるカントは、有名な三批判書の後に著した『実用的見地における人間学』(1798年)のなかで、気散じについて詳しく語っている。「気散じ[Zerstreuung](拡散)とは注意の分散によって、いま意識を支配している何らかの表象から他の異種の表象へと注意が転換される(抽象)状態をいう」。ひとつの表象から他の表象へと注意を分散ないし拡散させること。これがカントのいう気散じである。

 カントはさらに、このような状態を意図的な「気晴らし」と不随意的な「放心」の二種類に区別した。彼が後者の具体例として挙げるのは、小説好きの女性たちの「習慣化した気散じ」だ。カントの考えでは、小説を読みふけることは「放心状態[精神の不在Geistesabwesenheit](現在に対する注意の欠如)」をもたらし、日常生活にさまざまな悪影響を及ぼす。というのも、そこでは対象の表象がばらばらになり、悟性によって統一的につなぎ合わされることなく、心のなかで自由に「戯れる[spielen]」ことになるからだ。

 アニメを見る私もまた、表象を自由に遊ばせる。注意が散漫になり、放心状態になる。カントの時代、18世紀に小説に夢中になったヨーロッパの女性たちのように。だが、ここには明らかに否定的なニュアンスがある。カントは小説を悪しきものと考えた。アニメを見ることは、とりわけ気の散った状態で見ることは悪なのだろうか。気散じについてのカントの議論をまったくの逆方向から捉え直した批評家がいる。20世紀ドイツを代表する批評家のひとり、ヴァルター・ベンヤミンである。

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈1〉

 仕事や学校から帰宅し、遅い夕食をとりながらテレビをつけると、アニメが流れている。少年が運命的に少女と出会い、世界を救うための戦いに挑む。少女たちは学校の部室でたわいない世間話に花を咲かせる。TwitterをはじめとするSNSを開けば、アニメの感想をつづった「実況」投稿がタイムラインを流れていく。YouTubeニコニコ動画などの動画共有サイトには、アニメのシーンを切り貼りした「MAD動画」があふれている――。2000年代後半の日本でふつうに見られた光景だ。

 それから10年以上が過ぎ、景色はしだいにさま変わりしつつある。スマートフォンやパソコンさえあれば、いつでもどこでも視聴できる動画配信サービスが一般化し、深夜にリアルタイムで、あるいは録画して見る必要性は減った。テレビアニメの人気を受けて総集編や劇場版が制作され、映画館で上映されることも増えた。深夜アニメそのものはいまなお大量につくられ続けているが、それらを取り巻く環境は刻一刻と変化している。

 このような状況を踏まえて、それでもなお「アニメを見る私」についての一般的な理論を立ち上げることができるだろうか。アニメを見るとはどういうことか。この問いに対する答えは、日常的にアニメを見ている者にとってはなおさら、あまりにも自明であるように思える。息をすることや食べること、歩くことと同じように、現代の日本社会においてアニメを見ることは、人間の生来の自然な行為でさえあるかのようだ。

 けれども、これは当然正しくない。アニメを見るということは、一見してそう思えるほど単純明快な行為ではない。それは文化的・社会的・認知的要因が複雑に絡み合った特殊な行為であり、ひるがえって、現代を生きる「私(たち)」についての反省的なまなざしを与えてくれる。アニメを見ることは、それを見る者自身のありようを問い直すことでもあるのだ。

 本稿では、アニメを見ることの複雑さ、豊穣さについて語る。それはアニメ自体の持つ複雑さ、豊穣さであると同時に、もしくはそれ以上に、アニメを見る私、そして私たち自身の性質でもある。アニメを見るとはどういうことか。アニメを見る私(たち)とは何者なのか。これらの問いをめぐり、20世紀ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンの議論に依拠しながら、アニメを見る複数の主体について語ること。これが本稿の主題である。はじめよう。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(11):仮象と遊戯

「初期言語論」でベンヤミンは、沈黙する自然を名づけることで、自然と人類との言語的・精神的共同性を打ち立てることを目指していた。これに対し「複製技術論」では、自然を名づけることに代えて、自然との「遊戯」という言い方が強調される。ここには、どのような理論的変化があるのだろうか。

 ベンヤミンは「複製技術論」の重要な注のなかで、「第一の技術」と「第二の技術」をそれぞれ「仮象Schein」と「遊戯Spiel」に関連づけている。それによると、前者が「第一の技術のもつ呪術的なやり方すべての、最も抽象化された、しかしそれゆえに最も恒常的な図式」である一方で、後者は「第二の技術のもつ実験的なやり方すべての、無尽蔵の貯蔵庫」(KZ: 7, 368)なのだという。

 ベンヤミンはこの二つの概念を「あらゆる芸術活動の原現象UrphänomenとしてのミメーシスMimesis」(ibid.)を構成する両極として位置づけ、次のように説明している。

模倣する人は彼が行うことを、ただ見かけ[仮象]のうえでのみ行う。しかも最も古い模倣には、たったひとつの素材しかなかった。それはすなわち模倣する人自身の身体である。踊りと言語、肉体および唇の仕草は、ミメーシスの発現として最も早いものである。――模倣する人は、彼が行う事柄を見かけのうえで行う。彼はこの事柄を演じる[遊戯する]と言ってもいい。こうしてミメーシスのうちに両極性があることが分かってくる。(ibid.) 

 ミメーシスはある事柄を「見かけ[仮象]のうえでscheinbar」模倣することであると同時に、踊りや言語においてその事柄を「演じる[遊戯する]spielen」ことでもある。これがミメーシスのもつ「両極性」である。

 すでに見たように「初期言語論」では、人間の非物質的な音声言語が特権的な役割を与えられていたが、ここではそれがより原初的なレベルで、とはつまり「唇の仕草」として具体的にとらえ返されていることに注意しよう。要するに「複製技術論」においては、いわばミメーシスの媒質としての人間の「身体Leib」に焦点が当てられているのだ。これは「初期言語論」とは明らかに異なる点であり、そしてこの点を理解するためには、「後期模倣論」とも言うべき「類似したものについての理論Lehre von Ähnlichen」(1933年)を参照する必要がある。

 このなかでベンヤミンは、人間のあらゆる高次の働きを規定するものとして「模倣の能力mimetische Vermögen」を位置づけている。これは自らの身体において「類似性Ähnlichkeit」を産出する能力であり、系統発生と個体発生という二重の歴史を持つとされる。

 ベンヤミンに言わせると、かつて類似性の法則に支配されていた領域は、現代におけるそれよりもはるかに広大であり、たとえば占星術における天空の諸事象と人間の運命との魔術的な「照応Korrespondenz」として経験されていた。したがって「私たちが日常のなかで類似性を意識的に知覚する事例は、類似性が私たちを無意識のうちに規定している無数の事例の、ごくわずかな一部でしかない」(LA: 2, 205)。

 ベンヤミンはこのような「無意識的に知覚された、あるいはまったく知覚されなかった、無数に多くの類似性」(ibid.)を「非感性的類似unsinnliche Ähnlichkeit」と呼んでいる。そして古代人は近代人よりも優れた模倣の能力をもっていたために、非感性的類似に応答することができたのだという。

 とはいえ人間の模倣の能力は、歴史のなかで跡形もなく消滅してしまったわけではない。そうではなくて、ベンヤミンによれば、この能力はいまや「言語Sprache」および「文字Schrift」のうちに流れ込んでいるというのである。

平和の少女像はかわいいか?

著名なアニメーター・漫画家として知られる貞本義行氏が、展示中止となった「表現の不自由展・その後」に出展されていた『平和の少女像』について、「キッタネー少女像」などとツイッターで発信し、物議を醸している。

少女像が「キッタネー」かどうかはともかく、そこに貞本氏が現代アートに求めているという「面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性」が見られないことはたしかだ。

というのも、それは旧日本軍による戦時性暴力を告発する作品であり、とくに日本人男性にとっては「心地よい」どころか、過去の戦争責任による「居心地の悪さ」を味わわされるからだ。

貞本氏のツイートは差別的であり、問題だが、展示の是非をめぐって議論が紛糾するなかで、像そのものの造形性に注目が集まるのは、悪いことではない。

じっさい、平和の少女像の表情や姿勢などには、制作者のキム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏によるさまざまな工夫や意図が込められている。

少女像の展示が中止された8月4日、漫画家の篠房六郎氏が、「チマチョゴリを着た女の子って、可愛いですよね」というコメントとともに、『平和の少女像』を想起させるイラストをツイッターに投稿した。

さらにその後、貞本氏の「キッタネー」発言を受けて、氏の代表作である「新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクター、綾波レイ惣流アスカラングレーチマチョゴリを着せた画像を投稿。

貞本氏に批判的なネット界隈では、おおむね称賛をもって受け止められているようだ。

しかし、私個人の意見をいえば、旧日本軍の性暴力を告発するモニュメントに、「かわいい」という形容詞をならべて鑑賞することは適切なのか、という疑問がある。

ここには二つの問題があるように思われる。

ひとつは、日本社会に対する異議申し立てとしての少女像を、当の日本社会の既存の価値観である「かわいい」に回収してしまっていいのか、という問題。

もうひとつは、『平和の少女像』そのものを「かわいい」ものに変えてしまうことで、再び女性を「モノ」化し、性的に搾取しているのではないか、という問題。

おそらく多くの韓国人は、『平和の少女像』を萌えキャラ化することには抵抗があるのではないか。

萌えキャラ化された瞬間、そこには男性の性的なまなざしが入り込む。それは当の少女像が訴えてきた、従軍慰安婦の苦難をもう一度、想像的に繰り返すことなのではないか。

もちろん、表現することは自由である。だが、「かわいい」萌えキャラにすることは、そう思われている以上に、あやうい試みでもある。

あいちトリエンナーレで「平和の少女像」を見てきた・感想

 あいちトリエンナーレの展示「表現の不自由展・その後」がネットで炎上している。

 第二次世界大戦中の従軍慰安婦を表現した「平和の少女像」をはじめ、過去に美術展での展示を拒否されたり撤去された作品が集められているためだ。

 ツイッターなどで検索すると、展示初日からトリエンナーレの窓口はもちろん、県や市、協賛企業などに対しても、作品の撤去を求めるネトウヨのクレームが殺到している。

 私は初日に見てきたが、少女像の近くには警備員が常駐し、複数人のスタッフが待機しているなど、すでにものものしい雰囲気が漂っていた。

 だが、じっさいに少女像を前にすると、撤去を求めるひとびとの激烈な批判にくらべて、じつに素朴で地味な印象を受けた。

 少女は椅子に腰かけており、表情はやや固く、こぶしを握りしめ、肩には小鳥が乗っている。掲示されていた説明文を読むと、そうした細部にはひとつひとつ意味が込められていることがわかる。

 けれども、造形物としてはあまりにも素朴なので、私はいささか拍子抜けした。

 日韓関係の悪化の原因のひとつとされる従軍慰安婦問題。韓国におけるそのシンボルともいうべき作品は、こんなに地味なものだったのか。

 「平和の少女像」の撤去を求めるひとびとは、口々に、日本を貶める韓国の反日プロパガンダだと批判するが、そんな雰囲気はこの像そのものにはまったくない。それはおそらく、今回この少女像が、あくまで美術館の一室に展示されているためだろう。

 じつをいうと、私が「平和の少女像」を見るのはこれが初めてではない。

 数年前に韓国に旅行にいった際、妻といくつかの少女像を見て回っている。なかでもいちばん印象に残っているのが、今回展示されているものと同じかたちの、在韓日本大使館に設置された少女像だ。

 ちょうど「光復節」(日本からの独立を果たした日)のころで、少女像のまわりには大量の学生が集結し、昼夜問わず交代で像を守り、花を手向け、舞台を設けてトークライブを行っており、警察車両がその周辺を厳重に取り囲んでいた。

 「平和の少女像」は、まさにこの騒動の渦中にあった。だからこそ、それは従軍慰安婦問題を象徴する像として、圧倒的な存在感を放つことができた。そこには「オーラ」があった。

 これに対して、「表現の不自由展・その後」で展示された今回の少女像は、そういったコンテクスト(文脈)から完全に切り離されている。それどころか、たとえば昭和天皇の写真を燃やす画像などの過激な作品と並べられ、その造形的な素朴さがいっそう際立つことになった。そこには「オーラ」がない。

 じっさい、展示会場にいた子どもたちは、ほとんど少女像には関心を示さず、もっと過激な作品のほうに興味を抱いているようだった。

 けれども、ここでさらに別のコンテクストが接ぎ木されることになる。

 炎上したことによって、展示室には、右翼活動家が直接抗議に来るのではないか、という緊張感が漂っていた。じっさい、私の目の前で保守派と思しき中年男性が、少女像を小突くような素振りを繰り返し、スタッフとちょっとした言い合いになっていた。

 このピリピリとした緊張感が、むしろ「平和の少女像」を特別な像にしていた。日本では、炎上こそがかえって少女像を特別なものにしていたのだ。こうして「平和の少女像」は、逆説的に「オーラ」をまとう。

 素朴で地味な少女像をひとりの「アイドル」たらしめるのは、彼女を熱烈に支援する学生運動家たちであると同時に、熱烈に批判するネトウヨでもある。おそらく日本国内では、撤去されるそのときこそ、「平和の少女像」がもっとも光り輝くにちがいない。