てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

アニメはひとを救わない:京都アニメーションに献花する

 8月24日、放火事件のあった京都アニメーション第一スタジオに献花してきた。26日以降は献花台が撤去されるため、花を手向けることもかなわなくなる。

 あの日、ぼくはパートナーの展示の搬入と設営のために脚立にまたがり、白い展示室のなかで悪戦苦闘していた。一息つきながら何気なくTwitterを開くと、京都アニメーションが燃えているという画像つきの投稿が目に入ってきた。そのときはまだボヤか何かだと思っていた。けれども、どうやら放火らしいという情報とともに、現場の凄惨な様子が明らかになっていくにつれ、あまりの事態に言葉を失った。

 死傷者数はTwitterを開くたびにどんどん増えていった。作業が手につかず、更新されるニュース速報を何度も読み返した。照明機材を持つ手が震えた。自分がいったい何をしているのかわからなくなって、その場にへたりこんでしまいそうだった。

 献花台には、自分と同じように花を携えた人びとがひっきりなしに訪れていた。献花台は花であふれ、飲み物やお菓子、千羽鶴がいくつも供えてあった。

 京都アニメーションという名前は、アニメファンにとって特別な響きを持つ。とりわけぼくのような、2000年代初頭からアニメをもう一度見始めたような人間にとって、その名前は綺羅星の如き作品たちに彩られている。『AIR』『Kanon』『CLANNAD』『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』……。

 それらは鬱々とした大学時代に寄り添い、明日を生きるための活力を与えてくれた。自分に価値が見出せず、人生の意味を見失った、そういう人間の傍らにいつもいてくれた。同じような経験のあるひとも少なくないと思う。

 震災が起こる前の2000年代半ば、アニメは「終わりなき日常」を生き延びるための精神的なセーフティー・ネットとして機能していた。ぼくはアニメに、京アニに救われていた──そう言ってしまいたい気持ちはある。だが、それは結局のところ、偶然と幸運によって生き残り、人生に踏みとどまれた者のバイアスにすぎない。

 JR六地蔵駅から、献花台の設置されている京阪六地蔵駅への短い道のりを歩きながら、この周囲を歩き回った犯人のことを考えた。彼はぼくと同じように関東から新幹線で京都へ向かった。周到に下見を重ねたうえ、現場付近のスタンドでガソリンを調達。用意した台車に載せて運び、スタジオに撒き散らして火を放った。狂気と呼ぶほかない、驚くべき行動力だ。

 犯人のことを考えるたび、ぼくは自分の人生が彼のようではなかったことに安堵し、そして戦慄する。なぜぼくは犯人ではなかったのだろう。なぜぼくはガソリンを撒かず、火をつけずにすんだのだろう。なにがぼくと彼とを分けたのか。

 一部では犯人に精神疾患があるとの報道もあった。彼もまた、過酷な日々をアニメによってなんとかつなぎとめられ、持ちこたえてきたのかもしれない。あるいはアニメだけが、ほとんど唯一の社会との接点だったのかもしれない。アニメは、そういうぎりぎりの人間に寄り添うセーフティー・ネットとして機能する。だから、そこからついにこぼれ落ちてしまったとき、彼の狂気は、最後まで付き合ってくれたアニメそれ自体に向いてしまったのかもしれない。

 献花台のすぐ近くにある、焼け焦げたスタジオを見た。黄色い建物が真っ黒になっていた。女性がすすり泣いている。男性が腕組みをして、無言で立ちつくしている。

 ぼくにとって、この事件は他人事ではない。たんなる狂人のしわざとして、自分から切り離して処理することができない。それは京アニのファンだから、思い入れがあるから、というだけではない。そうではなくて、犯人のなかに、アニメによってはついに救われなかった自分の似姿を見てしまうからだ。

 アニメはひとを救わない。ただ寄り添うことしかできない。ひとを救うのは、ぼくらの社会のさまざまな制度であり、法であり、絆でなければならない。二度と同じような事件が起こらないように、ぼくらは、ぼくら自身を救わなければならない。

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈2〉

 テレビをつける。パソコンを開く。スマートフォンのロックを解除する。これらはいずれも、現代の情報環境下でアニメを見るための最初のステップである。これらの情報機器は私を取り巻く環境のなかに、日常という連続的な時間の流れのなかに、ひとつのモノとして埋め込まれている。テレビやパソコン、スマートフォンを操作してアニメを見ることは、したがって、そうした環境からの一時的な離脱ないし中断を意味しない。そうではなく、アニメを見ることはあくまで、私のこの日常の延長線上にある。

 テレビやパソコンの画面でアニメを見ながら、私はソファに寝そべり、菓子を食べ、ジュースを飲み、時折トイレにも行く。あるいは電車の座席に座り、揺られながら、眠りながら、スマートフォンでアニメを見る。同時に複数のウィンドウを開いてはそれらに目をやり、他人の感想を追い、時間を気にし、日々の雑事をこなす。アニメを見る私は、だらしなく、徹底的に、環境のなかに溶け込んでいる。アニメを見ること以外のさまざまな物事に、潜在的に注意を向けている。

 私は気の散った状態でアニメを見る──。これがアニメを見ることの第一の前提だ。私はテレビやパソコン、スマートフォンのひとつの画面に、完全に注意を集中しているわけではない。私の注意は環境中のあちこちに拡散している。このような知覚のあり方を「気散じ」と呼ぼう。

 18世紀ドイツの哲学者であるカントは、有名な三批判書の後に著した『実用的見地における人間学』(1798年)のなかで、気散じについて詳しく語っている。「気散じ[Zerstreuung](拡散)とは注意の分散によって、いま意識を支配している何らかの表象から他の異種の表象へと注意が転換される(抽象)状態をいう」。ひとつの表象から他の表象へと注意を分散ないし拡散させること。これがカントのいう気散じである。

 カントはさらに、このような状態を意図的な「気晴らし」と不随意的な「放心」の二種類に区別した。彼が後者の具体例として挙げるのは、小説好きの女性たちの「習慣化した気散じ」だ。カントの考えでは、小説を読みふけることは「放心状態[精神の不在Geistesabwesenheit](現在に対する注意の欠如)」をもたらし、日常生活にさまざまな悪影響を及ぼす。というのも、そこでは対象の表象がばらばらになり、悟性によって統一的につなぎ合わされることなく、心のなかで自由に「戯れる[spielen]」ことになるからだ。

 アニメを見る私もまた、表象を自由に遊ばせる。注意が散漫になり、放心状態になる。カントの時代、18世紀に小説に夢中になったヨーロッパの女性たちのように。だが、ここには明らかに否定的なニュアンスがある。カントは小説を悪しきものと考えた。アニメを見ることは、とりわけ気の散った状態で見ることは悪なのだろうか。気散じについてのカントの議論をまったくの逆方向から捉え直した批評家がいる。20世紀ドイツを代表する批評家のひとり、ヴァルター・ベンヤミンである。

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈1〉

 仕事や学校から帰宅し、遅い夕食をとりながらテレビをつけると、アニメが流れている。少年が運命的に少女と出会い、世界を救うための戦いに挑む。少女たちは学校の部室でたわいない世間話に花を咲かせる。TwitterをはじめとするSNSを開けば、アニメの感想をつづった「実況」投稿がタイムラインを流れていく。YouTubeニコニコ動画などの動画共有サイトには、アニメのシーンを切り貼りした「MAD動画」があふれている――。2000年代後半の日本でふつうに見られた光景だ。

 それから10年以上が過ぎ、景色はしだいにさま変わりしつつある。スマートフォンやパソコンさえあれば、いつでもどこでも視聴できる動画配信サービスが一般化し、深夜にリアルタイムで、あるいは録画して見る必要性は減った。テレビアニメの人気を受けて総集編や劇場版が制作され、映画館で上映されることも増えた。深夜アニメそのものはいまなお大量につくられ続けているが、それらを取り巻く環境は刻一刻と変化している。

 このような状況を踏まえて、それでもなお「アニメを見る私」についての一般的な理論を立ち上げることができるだろうか。アニメを見るとはどういうことか。この問いに対する答えは、日常的にアニメを見ている者にとってはなおさら、あまりにも自明であるように思える。息をすることや食べること、歩くことと同じように、現代の日本社会においてアニメを見ることは、人間の生来の自然な行為でさえあるかのようだ。

 けれども、これは当然正しくない。アニメを見るということは、一見してそう思えるほど単純明快な行為ではない。それは文化的・社会的・認知的要因が複雑に絡み合った特殊な行為であり、ひるがえって、現代を生きる「私(たち)」についての反省的なまなざしを与えてくれる。アニメを見ることは、それを見る者自身のありようを問い直すことでもあるのだ。

 本稿では、アニメを見ることの複雑さ、豊穣さについて語る。それはアニメ自体の持つ複雑さ、豊穣さであると同時に、もしくはそれ以上に、アニメを見る私、そして私たち自身の性質でもある。アニメを見るとはどういうことか。アニメを見る私(たち)とは何者なのか。これらの問いをめぐり、20世紀ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンの議論に依拠しながら、アニメを見る複数の主体について語ること。これが本稿の主題である。はじめよう。

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(11):仮象と遊戯

「初期言語論」でベンヤミンは、沈黙する自然を名づけることで、自然と人類との言語的・精神的共同性を打ち立てることを目指していた。これに対し「複製技術論」では、自然を名づけることに代えて、自然との「遊戯」という言い方が強調される。ここには、どのような理論的変化があるのだろうか。

 ベンヤミンは「複製技術論」の重要な注のなかで、「第一の技術」と「第二の技術」をそれぞれ「仮象Schein」と「遊戯Spiel」に関連づけている。それによると、前者が「第一の技術のもつ呪術的なやり方すべての、最も抽象化された、しかしそれゆえに最も恒常的な図式」である一方で、後者は「第二の技術のもつ実験的なやり方すべての、無尽蔵の貯蔵庫」(KZ: 7, 368)なのだという。

 ベンヤミンはこの二つの概念を「あらゆる芸術活動の原現象UrphänomenとしてのミメーシスMimesis」(ibid.)を構成する両極として位置づけ、次のように説明している。

模倣する人は彼が行うことを、ただ見かけ[仮象]のうえでのみ行う。しかも最も古い模倣には、たったひとつの素材しかなかった。それはすなわち模倣する人自身の身体である。踊りと言語、肉体および唇の仕草は、ミメーシスの発現として最も早いものである。――模倣する人は、彼が行う事柄を見かけのうえで行う。彼はこの事柄を演じる[遊戯する]と言ってもいい。こうしてミメーシスのうちに両極性があることが分かってくる。(ibid.) 

 ミメーシスはある事柄を「見かけ[仮象]のうえでscheinbar」模倣することであると同時に、踊りや言語においてその事柄を「演じる[遊戯する]spielen」ことでもある。これがミメーシスのもつ「両極性」である。

 すでに見たように「初期言語論」では、人間の非物質的な音声言語が特権的な役割を与えられていたが、ここではそれがより原初的なレベルで、とはつまり「唇の仕草」として具体的にとらえ返されていることに注意しよう。要するに「複製技術論」においては、いわばミメーシスの媒質としての人間の「身体Leib」に焦点が当てられているのだ。これは「初期言語論」とは明らかに異なる点であり、そしてこの点を理解するためには、「後期模倣論」とも言うべき「類似したものについての理論Lehre von Ähnlichen」(1933年)を参照する必要がある。

 このなかでベンヤミンは、人間のあらゆる高次の働きを規定するものとして「模倣の能力mimetische Vermögen」を位置づけている。これは自らの身体において「類似性Ähnlichkeit」を産出する能力であり、系統発生と個体発生という二重の歴史を持つとされる。

 ベンヤミンに言わせると、かつて類似性の法則に支配されていた領域は、現代におけるそれよりもはるかに広大であり、たとえば占星術における天空の諸事象と人間の運命との魔術的な「照応Korrespondenz」として経験されていた。したがって「私たちが日常のなかで類似性を意識的に知覚する事例は、類似性が私たちを無意識のうちに規定している無数の事例の、ごくわずかな一部でしかない」(LA: 2, 205)。

 ベンヤミンはこのような「無意識的に知覚された、あるいはまったく知覚されなかった、無数に多くの類似性」(ibid.)を「非感性的類似unsinnliche Ähnlichkeit」と呼んでいる。そして古代人は近代人よりも優れた模倣の能力をもっていたために、非感性的類似に応答することができたのだという。

 とはいえ人間の模倣の能力は、歴史のなかで跡形もなく消滅してしまったわけではない。そうではなくて、ベンヤミンによれば、この能力はいまや「言語Sprache」および「文字Schrift」のうちに流れ込んでいるというのである。

平和の少女像はかわいいか?

著名なアニメーター・漫画家として知られる貞本義行氏が、展示中止となった「表現の不自由展・その後」に出展されていた『平和の少女像』について、「キッタネー少女像」などとツイッターで発信し、物議を醸している。

少女像が「キッタネー」かどうかはともかく、そこに貞本氏が現代アートに求めているという「面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性」が見られないことはたしかだ。

というのも、それは旧日本軍による戦時性暴力を告発する作品であり、とくに日本人男性にとっては「心地よい」どころか、過去の戦争責任による「居心地の悪さ」を味わわされるからだ。

貞本氏のツイートは差別的であり、問題だが、展示の是非をめぐって議論が紛糾するなかで、像そのものの造形性に注目が集まるのは、悪いことではない。

じっさい、平和の少女像の表情や姿勢などには、制作者のキム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏によるさまざまな工夫や意図が込められている。

少女像の展示が中止された8月4日、漫画家の篠房六郎氏が、「チマチョゴリを着た女の子って、可愛いですよね」というコメントとともに、『平和の少女像』を想起させるイラストをツイッターに投稿した。

さらにその後、貞本氏の「キッタネー」発言を受けて、氏の代表作である「新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクター、綾波レイ惣流アスカラングレーチマチョゴリを着せた画像を投稿。

貞本氏に批判的なネット界隈では、おおむね称賛をもって受け止められているようだ。

しかし、私個人の意見をいえば、旧日本軍の性暴力を告発するモニュメントに、「かわいい」という形容詞をならべて鑑賞することは適切なのか、という疑問がある。

ここには二つの問題があるように思われる。

ひとつは、日本社会に対する異議申し立てとしての少女像を、当の日本社会の既存の価値観である「かわいい」に回収してしまっていいのか、という問題。

もうひとつは、『平和の少女像』そのものを「かわいい」ものに変えてしまうことで、再び女性を「モノ」化し、性的に搾取しているのではないか、という問題。

おそらく多くの韓国人は、『平和の少女像』を萌えキャラ化することには抵抗があるのではないか。

萌えキャラ化された瞬間、そこには男性の性的なまなざしが入り込む。それは当の少女像が訴えてきた、従軍慰安婦の苦難をもう一度、想像的に繰り返すことなのではないか。

もちろん、表現することは自由である。だが、「かわいい」萌えキャラにすることは、そう思われている以上に、あやうい試みでもある。

あいちトリエンナーレで「平和の少女像」を見てきた・感想

 あいちトリエンナーレの展示「表現の不自由展・その後」がネットで炎上している。

 第二次世界大戦中の従軍慰安婦を表現した「平和の少女像」をはじめ、過去に美術展での展示を拒否されたり撤去された作品が集められているためだ。

 ツイッターなどで検索すると、展示初日からトリエンナーレの窓口はもちろん、県や市、協賛企業などに対しても、作品の撤去を求めるネトウヨのクレームが殺到している。

 私は初日に見てきたが、少女像の近くには警備員が常駐し、複数人のスタッフが待機しているなど、すでにものものしい雰囲気が漂っていた。

 だが、じっさいに少女像を前にすると、撤去を求めるひとびとの激烈な批判にくらべて、じつに素朴で地味な印象を受けた。

 少女は椅子に腰かけており、表情はやや固く、こぶしを握りしめ、肩には小鳥が乗っている。掲示されていた説明文を読むと、そうした細部にはひとつひとつ意味が込められていることがわかる。

 けれども、造形物としてはあまりにも素朴なので、私はいささか拍子抜けした。

 日韓関係の悪化の原因のひとつとされる従軍慰安婦問題。韓国におけるそのシンボルともいうべき作品は、こんなに地味なものだったのか。

 「平和の少女像」の撤去を求めるひとびとは、口々に、日本を貶める韓国の反日プロパガンダだと批判するが、そんな雰囲気はこの像そのものにはまったくない。それはおそらく、今回この少女像が、あくまで美術館の一室に展示されているためだろう。

 じつをいうと、私が「平和の少女像」を見るのはこれが初めてではない。

 数年前に韓国に旅行にいった際、妻といくつかの少女像を見て回っている。なかでもいちばん印象に残っているのが、今回展示されているものと同じかたちの、在韓日本大使館に設置された少女像だ。

 ちょうど「光復節」(日本からの独立を果たした日)のころで、少女像のまわりには大量の学生が集結し、昼夜問わず交代で像を守り、花を手向け、舞台を設けてトークライブを行っており、警察車両がその周辺を厳重に取り囲んでいた。

 「平和の少女像」は、まさにこの騒動の渦中にあった。だからこそ、それは従軍慰安婦問題を象徴する像として、圧倒的な存在感を放つことができた。そこには「オーラ」があった。

 これに対して、「表現の不自由展・その後」で展示された今回の少女像は、そういったコンテクスト(文脈)から完全に切り離されている。それどころか、たとえば昭和天皇の写真を燃やす画像などの過激な作品と並べられ、その造形的な素朴さがいっそう際立つことになった。そこには「オーラ」がない。

 じっさい、展示会場にいた子どもたちは、ほとんど少女像には関心を示さず、もっと過激な作品のほうに興味を抱いているようだった。

 けれども、ここでさらに別のコンテクストが接ぎ木されることになる。

 炎上したことによって、展示室には、右翼活動家が直接抗議に来るのではないか、という緊張感が漂っていた。じっさい、私の目の前で保守派と思しき中年男性が、少女像を小突くような素振りを繰り返し、スタッフとちょっとした言い合いになっていた。

 このピリピリとした緊張感が、むしろ「平和の少女像」を特別な像にしていた。日本では、炎上こそがかえって少女像を特別なものにしていたのだ。こうして「平和の少女像」は、逆説的に「オーラ」をまとう。

 素朴で地味な少女像をひとりの「アイドル」たらしめるのは、彼女を熱烈に支援する学生運動家たちであると同時に、熱烈に批判するネトウヨでもある。おそらく日本国内では、撤去されるそのときこそ、「平和の少女像」がもっとも光り輝くにちがいない。

『天気の子』の見取り図

 新海誠監督の最新作『天気の子』を見てきた。鑑賞者それぞれの感想に資するために、過去の「批評」や「評論」から使えそうな部分をピックアップし、かんたんにまとめておく。

 すでに多くのひとが感想を述べているように、『天気の子』は、2000年代前半に一部のオタク界隈で流行した、いわゆる「セカイ系」の図式をなぞるような作品だった。

 ここでいう「セカイ系」とは、批評家の東浩紀によれば、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力(『ゲーム的リアリズムの誕生』96頁)のことだ。

 この定義は、必ずしもセカイ系と称されるすべての作品には当てはまらないという批判もあるが、理念的なモデルとしては優れている。実際『天気の子』は、ヒロインと主人公、つまりは「きみとぼく」という小さな人間関係が(警察という中間項を積極的に描いているとはいえ)、文字どおり「決定的に世界のかたちを変えてしまう」物語だった。

 その一方で、かつてセカイ系に向けられた批判は、この作品にもまた当てはまるように思われる。「凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいてい世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される」(『ゼロ年代の想像力』97頁)とセカイ系について批判的に語ったのは、評論家の宇野常寛だ。

 いちどは「気持ち悪い」と拒否されながらも、結局はヒロインに全肯定される男性主人公。女性ばかりが世界の運命を背負って労働に従事し、男性はその結果を受けとめきれずに苦悩するという責任のあり方。ヒロインを救うために法律を破って都心を奔走し、あげく銃までぶっぱなす主人公の男性的なナルシシズム

 『天気の子』のこうした描写が、宇野のいうように「家父長制的なマチズモ(男性優位主義)」を強化する、と批判することも可能だろう。この作品をセカイ系批判から擁護しようとすれば、また別の視点、従来の図式からはみ出す部分への注目が必要になる。

 降り続く雨によって水びたしになった東京。これはかつてセカイ系的な物語の舞台となった「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的な事態が、より具体的に、都市における「自然災害」としてとらえられていることを意味する。ここには、災害による危機とつねに背中合わせの微妙な緊張感や、それを受け入れるほかない諦観をみることができる。いわば、震災以後の日常感覚だ。

 作中でいわれるように、世界はすでに「狂っている」。ヒロインはそんな世界を正すために自らを犠牲にし、主人公はその自己犠牲的な選択をさらに拒否する。彼のこの選択は、たんに女性を所有しようとする男性的な欲望のあらわれであると同時に、「終わりなき日常」が成立しえないような狂った世界で、私たちが何を優先すべきなのか(もちろん法律よりも!)についての意思表明でもあるだろう。

 大人たちに殴られ、倒されながら、なおヒロインを追い求め、結果として都市を水没させた主人公は、世界と同じだけ「狂っている」。あるいは少なくとも、非合理的で、非理性的で、非常識ではある。だが、そのぶんだけ自己欺瞞的ではなく、罪悪感や後ろめたさすら感じさせない、すがすがしい狂気がみなぎっている。

 この世界を、そして私たち自身をどのていどまで非合理的な存在と感じられるかで、『天気の子』に対する評価は変わってくるだろう。世界の狂気とみえるものは、結局のところ、それと向き合う私たち自身の狂気なのだ。