てらまっとのアニメ批評ブログ

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無意識をアニメートする:『リズと青い鳥』と微小なものの超越性

 2018年4月に公開された京都アニメーション制作の映画『リズと青い鳥』は、監督・山田尚子と脚本・吉田玲子のコンビが手がけた、4作目となる劇場用アニメ作品である。同作はテレビアニメ『響け!ユーフォニアム』シリーズ(2015−2016)のスピンオフだが、登場人物の瞳の大きさや等身のバランス、輪郭線の太さといったキャラクターデザインが一新され、作画・物語とも本編とは一線を画した、独自色の強い作品に仕上がっている。一言でいえば、これ以前の劇場用アニメ3作品(『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』『映画 聲の形』)にも見られたような、山田監督らしさが色濃く表れているということだ。
 もちろん、集団制作でつくられるアニメ作品を、監督の「作家性」という切り口で語ることには慎重でなければならない。実写の映画撮影と同様、あるいはそれ以上に、アニメ制作は数多くのスタッフによる複雑な分業体制に支えられており、そのなかから監督の「個性」や「独創性」を取り出すのはきわめてむずかしい。けれども、同じ監督の複数の作品を並べてみると、そこには共通のモチーフが見出せるだけでなく、ときにはほぼすべての作品に通底する「手法」が見えてくることもある。ここでいう山田監督らしさとは、あくまでそうした具体的な方法論を便宜的に名指したものだ。
『映画けいおん』から『リズと青い鳥』にいたるまで、山田/吉田コンビの劇場用アニメ作品には、ある特徴的な手法が用いられている。それが、無意識をアニメートするという手法である。

「無意識」という言葉で多くのひとが思い浮かべるのは、フロイトユングラカンといった著名な精神分析家の名前だろう。フロイトは人間の心のなかに、通常は意識されることのない心理的なプロセスやメカニズム、つまり無意識の働きが存在すると考え、精神分析を創始した。最初期の手描きアニメーション作品『哀れなピエロ』(1892)が制作され、またリュミエールによる世界初の映画上映(1895)が行われたのも、ちょうど同じ時期にあたる。もちろん、フロイト自身は、無意識とアニメーションとの関係については何も語っていない。フロイトラカンの理論は、1960−70年代のフランスで発展した映画理論、いわゆる「装置論」に多大な影響を及ぼしたが、現代の日本アニメとの接点はほとんどないといっていい。
 にもかかわらず、山田監督の手がけたアニメ作品には無意識についての深い洞察が見てとれる。これは、たんなる監督の気まぐれや思いつきなどではない。そもそもアニメーションとは無意識を描き出すものであり、そしてそれこそが、アニメーションの成立条件のひとつでもあるからだ。山田監督は現在では忘れられがちなこの事実を、作画と物語の両面から、おそらく意識的にとらえ返そうとしている。
 たとえば『リズと青い鳥』では、主人公のひとりである鎧塚みぞれの、ある特徴的なしぐさが繰り返し描かれる。みぞれが言葉につまったとき、無意識のうちに自分の横髪をなでおろす「癖」だ。あるいは、登校する少女たちの足どりをとらえた、冒頭のリズミカルな歩行シーン。山田監督は『映画けいおん』から一貫して、歩く、または走る少女たちの足の動きをクローズアップで描いているが、同様の演出は『リズと青い鳥』でも多用されている。
 これらの何気ない身体動作のアニメーションに、すでに「無意識をアニメートする」という基本的な姿勢が色濃く表れている。それはつまり、普段なら意識することのない日常的な行為の「細部」に観客の注意を向けさせることであり、同時にそこから「意味」を読みとらせることである。

 映画研究者の長谷正人は、リュミエールにはじまる初期映画との比較を通じて、アニメーションにおける「細部」の重要性を論じている。長谷のいう「細部」とは、リュミエール映画に見られるような「カメラに偶然写ってしまった背景の自然現象や群衆一人一人の偶然的な振る舞い」(長谷:85頁)を指す。それはたとえば、画面を吹き抜ける「風」や舞い上がる「土煙」、ほとばしる「水しぶき」といったものだ。映画誕生から間もない時代の観客たちは、いまではほとんどかえりみられることのない、これらの映像に拍手喝采していたという。
 しかし、長谷がいうように、アニメーションには原理上、こうした偶然的な「細部」が入り込む余地はない。というのも「アニメーション映画は、どんな微細な『細部』も、製作者が自身の意図によって描き込まなければ成立しえない」(同頁)からである。彼は宮崎駿監督のアニメ映画を取り上げながら、そこで描かれる風やチョウが、「すべて偶然を装っているだけで、本当は宮崎監督による厳密な演出の下に動かされている」(同頁)ことを指摘する。つまり、カメラに偶然写りこんでしまうような「細部」を、アニメーションとして意識的に描きこむことで成立しているのだ。

 長谷はその具体的な例として、『となりのトトロ』(1988)で主人公のサツキが妹のメイを背負うシーンを挙げる。それによると「サツキは一度おぶったところで動作を止めて一呼吸おいたあと、もう一度メイを腰を使ってずり上げてみせる」(86頁)のだが、観客がこのなんでもないシーンに心揺さぶられるのは、背負い直すという「二重の動作」を通じて、私たちの「身体的無意識」のなかに眠っている「背負う」という動作が呼び起こされるためだという。要するに宮崎監督は、日常的な行為の「細部」を描くことで、観客の身体感覚に直接訴えかけようとするのである。
 さらに注目すべきなのは、ここで長谷が「身体的無意識」といういい方をしていることだ。聞き慣れない言葉だが、これはもっぱら人間の心について用いられる「無意識」の概念を、身体の動きにまで拡張したものだと考えることができる。念頭に置かれているのはおそらく、精神分析を援用しつつ独創的な映画論を展開したドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンだろう。

 ベンヤミンは映画のカメラを、ちょうどフロイト精神分析に対応する視覚装置として理解していた。カメラは、視界には入っていても通常はそれとして意識されないもの、つまり「視覚的無意識」を記録し、可視化することができる。彼が具体例として挙げるのは、たとえば人間の歩き方や、ライターやスプーンのつかみ方といった、ごく日常的な身体動作である。ベンヤミンが指摘するように、人間の歩き方を大ざっぱに説明することは誰にでもできるが、足を一歩踏みだす瞬間の、コンマ1秒単位の姿勢について説明できるひとはほとんどいない。ライターやスプーンをつかむときの、手と金属のあいだの微妙な位置関係の変化についても同様である。
 これに対して映画のカメラは、たとえばクローズアップやスローモーションといった手法を用いることで、こうした「細部」を人間の目に見えるものに変えることができる。それは、これまで誰も目にしたことのなかった「無意識が織りこまれた空間」である。

クローズアップというのは、〈これまでも〉不明確になら見えていたものを、たんに明確にすることではなく、むしろ物質のまったく新しい構造組成を目に見えるようにすることである。同様にスローモーションは、たんに運動の既知の諸要素を目に見えるようにするだけでなく、この既知の諸要素のなかに、まったく未知の要素を発見する。〔…〕したがって、カメラに語りかける自然が、肉眼に語りかける自然と異なることは明白である。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。〔…〕視覚的無意識は、カメラによってはじめて私たちに知られる。それは欲動的無意識が、精神分析によってはじめて私たちに知られるのと同様である。(ベンヤミン:619−620頁、一部訳変更)

 映画のカメラは、ちょうど精神分析が「欲動的無意識」を開示するように、通常の視覚ではとらえられない「視覚的無意識」を開示する。長谷のいう「身体的無意識」とは、いってみれば、この「視覚的無意識」として発見された微小な身体動作のことだろう。
 人間がなにかを「背負う」際にほとんど反射的に行っている「腰を使ってずり上げ」る動きは、カメラのような視覚装置の助けを借りることで、はじめて記録・再現することが可能になる。だからこそ、それはアニメーションとして再現されたとき、ありふれた行為でありながら「観客にはその意味を即座には解読できないような不透明な表情」(長谷:86頁)を帯び、作品の主題や物語の内容、あるいはキャラクターの意図へと還元できない独自の魅力を放ちはじめる。つまり「宮崎映画にあっては、〔…〕人間の基本的な動作を描いただけの無数の『細部』のリアリティが、作品の『主題』や『メッセージ』以上に、私たちの身体的感性を揺さぶる」(同頁)のだ。
 もちろん、こうした「視覚的/身体的無意識」の描写は、宮崎監督のアニメ作品にのみ見られるわけではない。それどころか、先に述べたとおり、それはアニメーションの成立条件のひとつですらある。実際、たとえば「歩く」という最も基本的な動作ひとつとっても、キャラクターが自然に歩いているように見えるためには、かかとの位置や膝の角度、肩や頭の高さなど、さまざまな「細部」の観察と再現が求められる。予算や人手、スケジュールの都合でしばしば簡略化されることは事実だが、「細部」の描写は原理的にあらゆるアニメ作品に見出すことができるはずだ。

リズと青い鳥』にもまた宮崎監督の作品と同様、いやそれ以上に、日常生活の細やかな表情が執拗なまでに描きこまれている。すでに紹介したみぞれの癖や冒頭の歩行シーンのほか、波打つようにかたちを変える制服のひだ、毛先の一本一本まで揺れ動くかのような髪の毛、眼球の曲面を接写する横顔のクローズアップなど、数え上げればきりがない。「無意識をアニメートする」とはさしあたり、これらの「細部」をアニメーションによって表現することにほかならない。
 とはいえ、山田監督が試みているのは、たんに細かくアニメーションさせることではない。ここで重要なのは、無意識的な「細部」の描写それ自体というよりもむしろ、それによってもたらされる物語上の効果のほうだ。

 長谷は、宮崎監督のアニメ作品に見られる卓越したアニメーション表現を評価しつつも、そうした「細部」にばかり注目する、いわゆる「オタク」たちの鑑賞態度に疑問を投げかけている。彼によれば、すでに挙げたような「視覚的/身体的無意識」の表現は、「映画の中心的主題の展開にとってはどうでもいい『細部』でありながら、それだけ抜き出しても十分に楽しめるだけの魅力を備えている」(88頁)。そのため、かえって作品の「主題」や「物語」への理解がおろそかになってしまうというのだ。ひとつの作品を繰り返し見るオタクは「無数の『細部』を主題的展開からは独立させてイメージとして楽しむ欲望」(同頁)にとらわれており、実際に『千と千尋の神隠し』(2001)などは、長谷の考えでは作品自体がそうした欲望に寄り添うものとなっている。これらは「さまざまな『細部』を中心的な『主題』へとまとめあげていく作品というよりも、『主題』からは切り離されたばらばらの『細部』の魅惑が羅列しているようにしか見えない」(88−89頁)。
 たしかに、代表作である『風の谷のナウシカ』(1984)をはじめ、宮崎監督のアニメ作品では人間と自然、文明などをめぐるスケールの大きな主題がしばしば描かれる。こうした神話的主題と比較すると、妹を背負い直すだけの1秒にも満たないアニメーションは、いかにもちっぽけでマニアックだ。後者に魅了されるあまり、前者への注目がなおざりになるとすれば、あまり適切な鑑賞態度とはいえないだろう。ここでは「細部」と「主題」、あるいは「物語」が、あくまでも対立するものとしてとらえられている。
 しかしながら、『リズと青い鳥』をはじめとする山田監督の作品には、こうした対立構造そのものが存在しないように見える。そこでは「細部」と「主題」がせめぎ合うのではなく、前者の読解(正確にはその不可能性)を通じてはじめて後者への理解が開けるというような、根本的に異なる物語−映像システムが作動しているからだ。山田監督は、物事の「細部」に表れるさまざまな「視覚的/身体的無意識」を、しばしば物語の重要な構成要素として用いているのである。

リズと青い鳥』で主題的に描かれるのは、主人公である鎧塚みぞれと、もうひとりの主人公・傘木希美の微妙な関係性の変化だ。その過程で彼女らは、自分が相手のことをうまく理解できていないだけではなく、自分自身のことも理解できていないということに気づく。作中に挿入される過剰なまでの「細部」の描写は、観客に対してこの二重の無理解、自己と他者の理解できなさを意味する暗号として現れる。つまり山田監督は、少女たちの「観客には〔そして彼女たち自身にも〕その意味を即座には解読できないような不透明な表情」を表現するために、あえて大量の「視覚的/身体的無意識」を描きこんでいるように見えるのだ。
 そうだとすれば、少なくとも『リズと青い鳥』においては、観客の「細部」へのこだわりが、作品の「主題」や「物語」の理解を阻むことはない。むしろ事態は逆である。人間の目覚めた意識ではとらえられず、「主題」や「物語」にとってはノイズでしかない「視覚的/身体的無意識」が、まさにその不可解さゆえに人間関係の見通せなさを暗示する。観客は「細部」に目を奪われることで、はじめて「主題」へとアクセスすることが可能になる。山田監督の作品においては、キャラクターの意識的な決断や意図的な行為ではなく、無意識のかすかなしぐさこそが物語を紡いでいく。

 アフォーダンス理論の紹介者として知られる佐々木正人は、人間の日常的な行為のなかに「マイクロスリップ」と呼ばれる微小な身体動作が見られることを指摘している。佐々木が例に挙げるのは、テーブルの上のカップをつかもうとするときの手の動きである。ベンヤミンは「視覚的無意識」の説明に際し、ライターやスプーンをつかむときの動きについて「手と金属のあいだで本当は何が起こっているのか、ましてやそれが私たちの精神状態・肉体状態によってどう変化するのかについては、私たちはほとんど知らない」(ベンヤミン:620頁)と語っていたが、佐々木のいうマイクロスリップは、まさにこの秘密を解き明かすものといっていい。そこで観察される4種類の動作について、彼は次のように解説している。

一つは、手がカップをつかむように伸ばされる時に、動きはじめや、カップのすぐそばで、手がわずかにその動きの速度を遅くする、あるいは一瞬止まる、微小な「躊躇」。第二は、ある物に向かっているように見えた手が、とちゅうで動きの軌道を急にスッと変えて、他の物に向かう、微小な「軌道の変化」。第三が、遠くのカップに手を伸ばす前に、それよりも近くのカップにわずかに触れてしまう「無意味な接触」。〔…〕第四が、物に向かう手が、直前でその形状を変化させる微小で急速な「手の形の変化」。これはたとえば手がカップを手のヒラ全体でかこみ持つように広く開いて差し出されたのに、カップの直前で手の形が、カップの横の把手をつまむ大きさにスッと変わるような動きである。(佐々木:204−205頁)

 テーブルの上のカップをつかむとき、人間はもっとも短い距離で、もっとも効率のよい仕方で手を動かすわけではない。そこには、少なくとも「躊躇」「軌道の変化」「無意味な接触」「手の形の変化」という、4種類のマイクロスリップが介在する余地がある。佐々木によるこれらの描写は、先の引用箇所でベンヤミンが述べていた「無意識が織りこまれた空間」そのものといえるだろう。長谷が注目した「背負い直す」アニメーションも、無意識の微小な身体動作という意味では、カップをつかむときの手の動きとほとんど同じ種類のものである。「無意識をアニメートする」とは、つまるところ「マイクロスリップをアニメートする」ことでもあるのだ。
 実際、劇作家の平田オリザは俳優の「自然」な演技を実現するために、これらの動きを意識的に演出に取り入れている。平田は「認知心理学の学者と15年くらい共同研究を行ってきて、俳優の演技の巧拙は、このマイクロスリップに左右されるんじゃないかという結論に達し」(平田:4頁)たという。また彼は、ロボットの振る舞いを人間に近づけるための工夫に際しても、やはりマイクロスリップに見られるようなランダムな動きを組み込んでいる。
 このように考えると山田監督の方法論は、平田が演劇において行っているマイクロスリップの導入を、アニメーションの領域で実現しようとする試みだといえるかもしれない。だが、それはたんに動きの「自然さ」や「人間らしさ」を追求するためだけではない。

 佐々木は、手の動きに見られるマイクロスリップを、発話における「言いよどみ」にたとえている。「どの自然な発話もかならず『言いよどみ』、『エー』とか『アー』などという喉の音をともなうわずかな停滞や、言いかけ、言い直し、などに満ちている」(佐々木:205頁)。発話とは、発話者の「意図」や「意思」のようなものがまっすぐに表れ出る「一つの流れ」などではない。そうではなくて、それは躊躇したり軌道を変化させたりする手の動きと同様、言いかけや言い直しなどをともないながら、「出かかっては消えていく多数の音のせめぎあう場」(同頁)として現れる。すでにフロイトは、さまざまな精神疾患とならんで、言い間違いや聞き間違い、言葉遊びといった日常の偶発的な出来事を、無意識の表れとして分析していた。
 山田監督の作品は、行為や発話におけるマイクロスリップを物語の動力源にしている。それはいってみれば、人間の通常の意識や行為とは異なる回路で紡ぎ出される無意識の物語だ。『リズと青い鳥』における過剰な「細部」が、自己認識や他者理解の難しさを映し出していたように、『映画けいおん!』(2011)や『たまこラブストーリー』(2014)では、「not so much A as にゃん=あずにゃん」や「お尻〔のかたちの〕餅=しりもち〔をつく〕」といった駄洒落めいた連想や言葉遊びによって、創造性や情愛などの中心的な主題が展開され、また暗示されてきた。聾唖の少女と手話によるコミュニケーションが主題となる『映画 聲の形』(2016)にいたっては、ほぼ全編が無意識の「細部」に彩られているといっても過言ではない。

 山田監督の出世作であるテレビアニメ『けいおん!』シリーズは、かつて「日常系」の代表作といわれた。「無意識をアニメートする」という彼女の手法は、物語がないと揶揄され、奇跡が描けないと批判されてきた日常系アニメを通じて編み出されてきた。それは、日常の「細部」に宿る「視覚的/身体的無意識」のせめぎ合いのなかから、微小な泡のように浮かび上がる物語の切片を拾い集め、ひとつの作品へと縫い上げる作業である。少女たちのかすかなしぐさのアニメーションに、わずかな声のイントネーションに、この日常を超えていく小さな奇跡、小さな超越性が孕まれている。国家や歴史といった大きな物語へと現実が再び呑み込まれつつあるいま、そこに秘められているポテンシャルは想像以上に深く、実り豊かなものだと私は思う。


参考文献
佐々木正人アフォーダンス入門』、講談社学術文庫、2008年
長谷正人『映画というテクノロジー』、青弓社、2010年
ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション1』浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年
「【平田オリザ氏×武田隆氏対談】(前編)決して同じ気持ちになれなくても、つながることはできるんです。」http://diamond.jp/articles/-/28364?
図:京アニ出版部『京都アニメーション版 作画の手引き』、株式会社京都アニメーション、2005年、61・56頁

小林さんちのシン・ゴジラ

 今期は『けものフレンズ』がツイッターまとめサイトを大いに賑わせているが、同時期に始まった京都アニメーション製作の深夜アニメ『小林さんちのメイドラゴン』も負けず劣らずすごーいアニメだと思うので、見ていて思い浮かんだことを長々と書いてみようと思う。
 『メイドラゴン』の内容を簡単に紹介すると、一人暮らしの女性システムエンジニアのもとにメイド姿の美少女に化けたドラゴンが押しかけてきて一緒に暮らすことになる、という話で、この二人(すぐにドラゴンが何匹か増える)のぎこちない共同生活がおもしろおかしく(ときにしんみりと)描かれる。日常のさりげないしぐさや唐突な戦闘シーンのひとつひとつに、京アニが培ってきた高度なアニメーション技術がふんだんに織り込まれていて、それだけでも十分見応えがあるのだが、ここではこれ以上深入りしない(というか、勉強不足で私にはうまく言語化できない)。私がこの作品に惹かれるのは、アニメーションの快楽はもちろん、「メイドのドラゴンと一緒に暮らす」という一見トンデモに思える設定が、いろいろな示唆を与えてくれるからだ。それはたとえば、愛と死の問題である。
 『メイドラゴン』の美少女ドラゴンたちは、いわゆる「他者」を日本のアニメ/マンガ/ライトノベルの文法で造形したものということができる。これは『メイドラゴン』を一話でも見ればすぐにわかることなので、ここではいちいち作中の例を挙げたりはしない。とにかく、このドラゴンたちは、私たちのごく身近にいる他者、なかでも「外国人」とかなり似通ったメンタリティをもっている。ちがいがあるとすれば、外国人が「日本人」との文化的な差異につまづくのに対して、ドラゴンは「人類」との差異につまづく(そしてすぐ滅ぼそうとする)ということくらいだろう。ED曲の「イシュカン[異種間/一週間]・コミュニケーション」というタイトルが、そこらの私大の学部名になっていたりもする「異文化(間)コミュニケーション」をもじったものであることは明らかだ。
 とはいえ、これだけなら、別に『メイドラゴン』にかぎった話ではない。今期の深夜アニメを見ても、人間と擬人化された動物の友愛を扱った『けものフレンズ』はもちろん、障害者をバンパイアや雪女といった「亜人」として描いた『亜人ちゃんは語りたい』など、同じような主題をもった作品はいくつもある。排外主義的なデモやヘイトスピーチが蔓延する昨今の世界情勢を考えれば、「異種間コミュニケーション」の大切さを描いたアニメが放映されるのは良いことだと思うが、ここではそういう話もしない。いずれにせよ『メイドラゴン』には、これらのアニメ作品のどれともちがう重要な特徴がひとつある。それは、ただの動物でも亜人でもなく「ドラゴン」であるということだ。
 あまりに自明すぎるのでドラゴンの説明も割愛するが、一般的にいって、ドラゴンは人間よりもずっと強く、長生きで、恐ろしい存在だ。彼女たちは作中でもその片鱗を何度か見せており、また人類を「劣等種」と呼んで露骨に下に見てもいる(にもかかわらず、人間のメイドとして奉仕するという逆転現象に『メイドラゴン』の出オチ的なおもしろさがあるわけだが)。つまり、美少女メイドに変身したドラゴンと一緒に暮らすということは、人間よりも圧倒的に強大で、制御不可能な存在と同居することを意味している。これを現実社会の言葉でいいかえるなら、一番しっくりくるのは「災害」だろう。ドラゴンは身近な「他者」であると同時に、地震津波原発事故といった、私たちの日常生活を根底から覆しかねない「災害」でもある。これが、『メイドラゴン』を他のリベラルアニメから区別している最大の要因だ。
 もちろん、ほとんどの視聴者にとっては、そんなことは言われなくてもわかっているにちがいない。たしかに、この美少女メイドの正体はドラゴンであり、ちょっとした災害クラスの危険性をもっており、しかも隙あらば自分の尻尾を食べさせようとしてくる。しかしそんなことよりも、いまはトールのいじらしさや、ルコアさんの胸囲や、カンナちゃんの太ももについて語るべきではないか。長文を書いている暇があったら気のきいたツイートをRTして、ファンアートを投稿して、新たな視聴者の獲得とコミュニティの拡充を図る、これが良いアニメオタクというものではないか。
 私はこの意見に完全にアグリーである。というか、そもそも私は「あの美少女メイドの正体は危険なドラゴンなんだぞ、目を覚ませ」と言いたいわけではない。どんなに新興宗教の信者のメンタリティに似ていても、そういう人たちのささやかな幸福を否定するつもりはないし、何よりそれは私自身の幸福でもある。けれどもその一方で、主人公と同居している美少女がドラゴンであることは本質的な問題ではない(ちょうど、目の前のディスプレイ上の美少女がたんなる「絵」にすぎないことが問題ではないように)という、私を含め多くのアニメオタクに見られる(もはやネタなのかベタなのかわからない)姿勢が、人間の生にとってどういう意味をもちうるのか、そのことにもカンナちゃんの太ももと同じくらい関心がある。そして『メイドラゴン』もまた(京アニ作品はだいたいいつもそうだが)、私たちがまさにそのように見ることができるということに、ささやかな希望を託しているように思える。
 問題設定が少し抽象的すぎるかもしれない。話をわかりやすくするために、ここで、もうひとつのドラゴン(龍)の物語を迂回することにしたい。その物語というのは、昨年公開された映画『シン・ゴジラ』のことだ。この作品に登場する龍、つまりゴジラは、これまでさんざん語られてきたように、空襲であり、原爆であり、核実験であり、震災であり、原発事故であり、要するに過去にこの日本列島上で生じた、そして未来に再び生じるであろう「災害」そのものだ。ごく単純化していえば『シン・ゴジラ』は、そのような未曾有の危機に際して、政府や自治体、自衛隊、都市インフラといった日本の社会システムがいかに対処するのか、そのプロセスを克明にシミュレートした作品だった。したがって『シン・ゴジラ』と『メイドラゴン』は、ともに災害を擬人化、あるいは擬「龍」化した作品ということができる。そして、この二つの作品を比較することで、先ほどのあいまいな問題がだいぶクリアに見えてくる、ような気がする。
 『シン・ゴジラ』で東京周辺を荒らし回ったゴジラは、最終的に人間の知恵と策略に屈し、活動停止に追い込まれる。映画ではそれ以上描かれていないが、おそらくこの先、人々は動かなくなった(そしてまたいつか動き出すかもしれない)ゴジラと共存していくのだろう。災害の擬龍化という観点からすると、それはそれでよく考えられたオチではある。けれども、ここで注目したいのは、それよりもう一段階上のファンタジー要素、つまりはゴジラの尻尾から人型の生命体(巨神兵?)が誕生しかけていた、というラストカットのほうだ。これは公開当初、ファンのあいだで大変な議論を呼んだが、あれから半年以上が過ぎたいまなら、この描写を全然ちがう仕方で、明後日の方向へと解釈することができるのでないか。『シン・ゴジラ』の結末は、龍から人への変身の可能性を示唆している。そして私は、これとほとんど同じ設定の深夜アニメをよく知っている。『シン・ゴジラ』は事実上『メイドラゴン』である。もっと正確にいえば、『シン・ゴジラ』の続編にしてスピンオフが『メイドラゴン』なのだ。
 もちろん、これは半ばジョークとして受け取ってもらいたいのだけれど、もう半分は、それなりに真剣な問題提起でもある。『メイドラゴン』が実際に『シン・ゴジラ』の続編である可能性は万に一つもないだろうが、『メイドラゴン』を『シンゴジラ』の続編として「考える(妄想する)」ことはできる。そしてこのことは、災害をめぐる二つの擬◯化、つまり擬龍化と擬人化のちがいとして、さらには愛することの可能性をめぐる問題としてとらえ直すことができるように思う。
 『メイドラゴン』を『シン・ゴジラ』の続編として見たとき、そこでまず目につくのは、龍を手なづける方法のちがいだろう。日本の社会システム総動員で封じ込められたゴジラは、ひょんなことから酔っ払った女性SEに助けられ、美少女メイドとして彼女の自宅に押しかけてくる。つまり『メイドラゴン』では、いわば「(性)愛」による龍の籠絡が描かれているわけだが(作中では「チョロいドラゴン=チョロゴン」という)、これはまさに『シン・ゴジラ』からほとんど排除されていた問題系だ。『シン・ゴジラ』には龍と人のあいだの性愛の可能性がない。もちろん、アメリカにはドラゴンカーセックスというドラゴンと自動車の性行為に興奮する嗜好があり、また日本にも会田誠の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》というエロティックな絵画作品があるが、これらはあまり一般化できないように思う。愛の可能性を開くための最も手っ取り早い方法は、その対象をイヌやネコのような愛玩動物として造形するか(『シンゴジラ』の場合、これはいわゆる「蒲田くん」人気に見られる)、もしくは性的に魅力的な人物として描写するかのどちらかだろう(前者との相乗効果を狙うために、たいてい幼女か少女か童顔になる)。『メイドラゴン』が選択したのは後者であり、それによって(私の妄想では)『シン・ゴジラ』を引き継ぎつつ乗り越えようとしている、というわけだ。
 それにしても、擬人化とは何なのか。日本のアニメやマンガ、ライトノベルでは当たり前のように行われているので気がつかないが、世界的に見たとき、ここでいう擬人化の手法、つまり「擬少女化」ともいうべき表現手法は、あまり普遍的な慣習とは思えない。ディズニーのアニメ映画に登場する喋る動物たちは、たしかにひとつの擬人化ではあるが、彼らはあくまで「二足歩行して言葉を話す動物」であり、視聴者の(性)愛の対象となるような擬少女化とは大きく異なる。これはミッキーやドナルドダックと『けものフレンズ』の◯◯フレンズたちを比較すれば一目瞭然だ。ディズニーのアニメ映画は、あくまで「人間ではないものが人間として振る舞う」ことに力点が置かれており、それによって視聴者の(愛ではなく)反省を誘発しようとしているように見える。だからこそディズニーは、たとえば『ズートピア』がそうであるように、動物たちに仮託して「政治的に正しい」魅力的な作品を作り上げることができる。これはどちらかというと、風刺画の文法だ。
 他方で、日本の擬少女化にはふつう「反省」や「風刺」といった契機は含まれていない。繰り返しになるが、そこで求められているのはあくまで「(性)愛」であり、逆に最も愛することから遠い存在にこそ力を発揮する。たとえば、今期の深夜アニメ『幼女戦記』の主人公である金髪碧眼の幼女は、性格の捻くれたサラリーマンのおっさんを擬少女化したものだし、dアニメストアで放映されている(らしい)『怪獣娘ウルトラ怪獣擬人化計画』というアニメは、文字通り『ウルトラマン』シリーズに登場する怪獣たちを擬少女化したものだ。戦時中の艦艇を擬少女化したソーシャルゲーム艦隊これくしょん―艦これ―』のヒットも記憶に新しい。こういう「擬少女化」の直接的な起源のひとつは、たぶん手塚治虫だろう。あまりちゃんと読んでいないのでいまいち具体的な作品名を思い出せないが、最近『新潮』で公開された手塚のエロティックな遺稿は(これも一瞬立ち読みしただけだけれど)、擬少女化の歴史的な成り立ちを伝えている。そこには「グラマラスなネズミが体をくねらす絵や、裸の女性がコイや白馬に変身する絵」などが含まれていた。
 いずれにせよ、この擬少女化という手法には、ディズニー的なものとは別の理想、別のユートピアの可能性が宿っている。それは動物を通じて人間に反省を強いるのではなく、人間と動物、人間と無機物、人間と非人間のあいだに性愛関係を結ぶ、いわば形而上的で神話的な乱婚制を含意している。『メイドラゴン』でたびたび描かれる政治的にリベラルな関係性は、その副産物にすぎない。
 そしてこのユートピアは、ここからはより重度の妄想だが、現実においては破滅的な出来事として、つまりは「災害」として出来するのではないか。そこでは擬少女化のプロセスが裏返り、人間ではないものを人間化する方向ではなく、人間をただの物質へと還元する(それによって分解と合体が可能になる)方向へと推移する。見渡すかぎりの焼け野原や瓦礫の山は、人間にとっては悲劇以外の何ものでもないが、非人間にとってはまちがいなくひとつのユートピアだろう。長崎の原爆資料館には、原爆による高熱と爆風で、ガラスや金属などの物質と一体化した人体の一部が展示されている。
 ドラゴンが美少女メイドに変身し、人間と仲良く暮らすという荒唐無稽な物語は、定期的に発生する巨大災害という過酷な現実の「陰画(ネガ)」としてある。ドラゴンが美少女であることに疑問を抱かず、美少女が絵にすぎないことを意に介さない視聴者は、この愛と死の敷居の上に立っている。現実におけるむごたらしい死が、フィクションにおける神話的な愛の可能性を準備する。『メイドラゴン』のユートピアは、『シン・ゴジラ』のシミュレーションが終わる、まさにその場所から始まるのだ。

日常生活の暗号解読術 :『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ

※ブログだと長くて読みづらいのでPDF化しました。
https://drive.google.com/file/d/0B8CxLP7a5iXoMHh3VUl5VXN0R1U/edit?usp=sharing


〈1〉
 商店街という言葉には、どこかノスタルジックな響きがある。
 それはアーケードに反響する買い物客のざわめくような足音であり、店員の威勢のいいかけ声であり、また手さげ袋のなかの商品が立てるかすかな物音でもあるだろう。
 こうした響きのすべてが今日、きしんだシャッターの音にかき消されつつあるとしても、いまなお、あるいはいまだからこそ、商店街という言葉のうちには、もはやない/いまだない幸福への裏路地がひそかに伸びている。
 たわいない言葉の響きに秘められた、無意識の暗号を解読すること――そうやって私たちは、いつしか日常のいたるところから枝分かれしている、迷宮のような運命の敷居をまたぐのだ。


 京都アニメーションが制作した『たまこまーけっと』(二〇一三年一〜三月)は、そんなノスタルジックな商店街を舞台にしたオリジナルアニメ作品である。
 本論考では、ジークムント・フロイトの議論を参照しながら、この作品に登場するキャラクターの名前や会話のなかに、無意識の暗号が数多く散りばめられていることを明らかにしたい。
 『たまこまーけっと』は、機知や駄洒落によって無意識を言語化・可視化することで、まるで糸を紡ぐように、あるいは餅をこねるように、日常生活に秘められたささやかな物語をアニメートしていくのだ。


 まずは『たまこまーけっと』について簡単に紹介しておこう。
 『たまこまーけっと』は、うさぎ山商店街の餅屋の娘である北白川たまこと、南の島から迷い込んできた言葉を話す鳥デラ・モチマッヅィの二人(正確には、一人と一羽)を中心に、にぎやかな商店街の心温まる人間模様を描いたアニメ作品である。
 さしあたって『たまこまーけっと』は、「日常系」ないし「空気系」と呼ばれるアニメ作品に分類することができるように思われる。実際、この作品のエンドクレジットには、監督の山田尚子をはじめ、日常系アニメの代表作として知られる『けいおん!』シリーズの制作スタッフが名前を連ねている。
 では、日常系アニメとはどのようなものだろうか。


 『“日常系アニメ” ヒットの法則』(以下『ヒットの法則』と略称)によると、日常系アニメとは、「“萌え”を感じさせる美少女キャラクターによる日常生活」を描いたアニメ作品のことだ。その多くは「萌え四コマ」と呼ばれる四コマ漫画を原作とし、おおむね現代の日本を舞台に、美少女キャラクターのゆるやかなコミュニケーションを描いている。典型的な日常系アニメとしては、たとえば『らき☆すた』や『けいおん!』、『ひだまりスケッチ』などを挙げることができるだろう。
 これらの作品に登場する美少女キャラクターは、特別な能力や地位をもたない「(その作品世界では)ごくごく普通の学生」である。そこでは、彼女たちの「当たり前の日常」を脅かすような大事件(たとえば超能力バトルなど)は決して起こらない。
 そのため、日常系アニメに対しては、「作品全体を貫く物語性の希薄さ」が指摘されることも少なくない。『ヒットの法則』にしたがうなら、こうしたアニメ作品からは、「困難との対峙や葛藤、本格的な恋愛といったドラマツルギーがおそらく意図的に排除されて」おり、「従来の作品にあるような「大きく盛り上がる要素」が欠如している」のだという。


 日常系アニメに共通して見られる(とされる)こうした特徴は、一見すると、『たまこまーけっと』にも当てはまるように思われる。
 実際、『日刊サイゾー』のアニメ時評「『けいおん!』制作陣集結の『たまこまーけっと』が陥った、“完璧すぎる理想の日常”の落とし穴」では、『たまこまーけっと』の「理想の日常」が厳しく批判されている。


シビアな「現実」が渦巻く世界の片隅に「理想の日常」という避難場所を作るのではなく、どこまでいっても誰も傷つかず、悩むことのない理想の日常「しか存在しない」別次元の世界を創造してしまった『たまこまーけっと』という作品は、結果的に作品の外部に存在する我々視聴者の居場所すら排除してしまったといえる。[…]視聴者の目線不在で、別次元の人々の取るに足らない日常ばかりが繰り返される『たまこまーけっと』に感じる違和感と空々しさは、つまるところ現実とは地続きではない作品に漂う「嘘臭さ」「薄さ」。そして「身内ノリに対する部外者の疎外感」にほかならないのだ。


 要するに『たまこまーけっと』は、苦悩も葛藤もない「理想の日常」だけを描こうとするあまり、かえって視聴者の感情移入を阻害し、「疎外感」を抱かせてしまったというわけだ。


 しかしながら、『たまこまーけっと』に「困難との対峙や葛藤、本格的な恋愛といったドラマツルギー」がまったく描かれていないかといえば、必ずしもそうではない(ただ大事件に発展しないだけだ)。むしろ、この作品では、そうした事柄がつねに問題になっているとさえいえるだろう。
 たとえば、主人公のたまこは、何も悩みごとのなさそうな天真爛漫な性格だが、幼い頃の母親の死が(彼女の父親と同じように)影を落としている。また、たまこの妹のあんこも、実家の餅屋やうさぎ山商店街に対して不満を抱き、いつも子供っぽく頬を膨らませている。さらに、たまこの親友の常磐みどりと幼なじみの王子もち蔵は、二人ともたまこに淡い想いを寄せており、彼女をめぐって恋の鞘当てを繰り広げる。
 そして、偉そうな言葉を話す鳥デラは、まさにうさぎ山商店街の「トリックスター」(鳥だけに)ともいうべき存在だ。彼の役割は、それぞれのキャラクターが抱える悩みや秘めた想いを見抜き、彼女たちの背中を少しだけ押してやることで、のんびりとした商店街のリズムを加速することにある。
 つまり『たまこまーけっと』には、視聴者の現実から完全に切り離された「理想の日常」が描かれているように見えて、実はそうした日々のいたるところに、誰もが経験する恋愛の苦悩や自意識の葛藤、終わりの予感がひそかに織り込まれているのだ。
 にもかかわらず、この作品に対して「嘘臭さ」や「薄さ」、さらには「身内ノリに対する部外者の疎外感」といった批判が寄せられるのは、いったいなぜだろうか。
 それはおそらく、『たまこまーけっと』に見られる恋愛や葛藤の描き方が、一般的な手法とくらべて、あまりにも洗練されすぎているためだ。そこでは、キャラクターの無意識の働きがアニメートされているのである。


 そもそも『たまこまーけっと』には、デラによるナレーションを別にすると、それぞれのキャラクターが自分の悩みや想いを独白する、いわゆる「モノローグ」がほとんど存在しない。その代わりに、この作品では、つねに二人以上のキャラクター同士のコミュニケーションによって、つまりは「ダイアローグ」を通じて物語が進んでいく。
 しかし、キャラクターの秘められた想いをモノローグなしに視聴者に伝えることは、それほど簡単なことではない。なぜなら、たとえどんなに親密な間柄でも、ごく日常的なダイアローグのなかで、キャラクターの苦悩や葛藤が直接的に表現されることは、まずありえないからだ。とくにそうした想いが、話している相手に向けられたものであればなおさら、はっきりと言葉にされることは少ないだろう。
 したがって、一般的にダイアローグでは、モノローグとは対照的に、キャラクターの苦悩や葛藤がわかりづらくなる、あるいは意識的に覆い隠される傾向にあるといっていい。
 そしてこのことは、たまこたちが暮らす「うさぎ山商店街」という小さなコミュニティのなかでは、より切実な色合いを帯びてくる。
 もしそれぞれのキャラクターが、自分の内心を包み隠さず吐き出してしまったら、たしかに視聴者にはわかりやすいかもしれないが、商店街の人間関係は決定的におかしくなってしまうにちがいない。だからこそ、みどりやもち蔵は、自分の気持ちを素直にたまこに伝えられないでいるのだ。
 『たまこまーけっと』に「薄さ」や「疎外感」を感じるとすれば、それはおそらく、このような理由によるのだろう。


 だが、そうだとすれば、やはりこの作品は、キャラクターのモノローグを排除し、彼女たちの苦悩や葛藤をダイアローグによって覆い隠すことで、「作品の外部に存在する我々視聴者の居場所」を消し去ってしまったのだろうか。
 もちろんそうではない。なぜなら『たまこまーけっと』では、ごくありふれたダイアローグのなかに、それぞれのキャラクターの秘められた想いが、まるで暗号のように巧妙に織り込まれているからだ。
 そして、このとき重要な手がかりを与えてくれるのが、精神分析創始者として知られるジークムント・フロイトである。
 フロイトといえば、通俗的には、人間の心理現象をすべて性的なものと結びつけて説明してしまう、いささか疑わしい人物と見なされている。しかし、本論考でわざわざフロイトの議論を参照するのは、『たまこまーけっと』に性的なモチーフを読み込みたいからではない。
 そうではなくて、フロイトが些細な言い間違いや名前の度忘れ、さらには機知や駄洒落といった言葉遊びのなかに、夢と同様、抑圧された無意識の働きを読み取ろうとしていたからだ。


〈2〉
 たとえば、フロイトは『機知』(一九〇五年)のなかで、ハインリヒ・ハイネの作品に登場する、次のような言葉遊びを例に挙げている。

というわけで、学士さん、誓ってもよろしいが、私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人間として、まったく百万家族の一員のように(ファミリオネール[famillionär])扱ってくれたんですよ。


 この「ファミリオネール[famillionär]」という耳慣れない言葉は、「家族の一員のように(ファミリエール[familiäre])」と「百万長者(ミリオネール[Millionär])」を合成したものである。フロイトによれば、これは「ロートシルトは私をまったく自分と同等の人間として、まったく家族の一員のように[ファミリエール]扱ってくれた、つまり百万長者[ミリオネール]にできる範囲で家族のように」という通常の表現を圧縮したものなのだという。つまり、〈ファミリエール[familiäre]+ミリオネール[Millionär]→ファミリオネール[famillionär]〉というわけだ。
 フロイトは、こうした機知のメカニズムを「代替形成を伴う縮合」と呼び、夢に見られるような無意識の働きと同一視している。


 もうひとつ例を挙げよう。
 フロイトにいわせると、最も一般的に見られる言葉遊びは「音合わせの機知」、すなわち駄洒落である。『機知』では、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲から、次のような台詞が引用されている。

その名もヴァレンシュタイン[Wallenstein]、
もちろん彼はわれわれすべて(アレン[allen])にとって
躓きと腹立ちの石(シュタイン[Stein])なのだ。


 今度は「ファミリオネール」とは反対に、「ヴァレンシュタイン[Wallenstein]」という名前が「すべて(アレン[allen])」と「石(シュタイン[Stein])」に分割されている。つまり、〈ヴァレンシュタイン[Wallenstein]→アレン[allen]+シュタイン[Stein]〉という音合せになっているのだ。
 こうした駄洒落は、複数の語をひとつに圧縮するのではなく、それらの語の構造に見られる一般的な類似や、韻を踏むような音合わせ、さらには語頭の文字の共通性などによって作り出される。
 とはいえ、どちらの事例も「語はわれわれにとってただの音像なのであり、これやあれやの意味がそれと結びつく」という点で共通している。フロイトにとって言葉遊びとは、本来意識的であるはずの思想過程が、一時的に無意識にゆだねられた結果、ひとつひとつの語が(固有の意味から切り離された)「音像」へと還元され、縮合や遷移、分解といったさまざまな加工を施されて立ち現れたものなのである。


 さて、私たちはいまや、このような言葉遊びを『たまこまーけっと』のあちこちに見出すことができる。
 たとえば、第一話のストーリーは、うさぎ山商店街に迷い込んできたデラ・モチマッヅィ[とても餅が不味い]という名前の鳥に、ひたすら餅を食べさせて「餅美味い[もちうまい]」といわせるという、ある意味ではくだらない駄洒落として理解することができる。
 また第八話には、バドミントンのラケットで打ち返されたデラを眺めて、たまこの友人である牧野かんなが「バードミントン」とつぶやくシーンがある。これはいうまでもなく「バドミントン」と「バード[鳥]」を縮合した合成語であり、〈バドミントン+バード→バードミントン〉という機知になっているわけだ。
 これらのたわいない言葉遊びは、「ファミリオネール」や「ヴァレンシュタイン」とまったく同じように、フロイトによる機知の定義に正確に当てはまるといえるだろう。


 こうした機知や駄洒落のなかでも、とりわけ洗練されているのは、『たまこまーけっと』第二話の後半に登場する英語構文に関する事例である。
 これは、学校の休み時間に英語の課題に取り組んでいたたまこが、問題文の「not only A but also B」という構文をつぶやいたところ、その様子を眺めていたみどりが、すぐに「AだけでなくBも、だから、『彼らは言葉だけでなく心もまた大切に』」と解答する、というものだ。
 ただし、このシークエンスそのものは、言葉遊びでも何でもない、仲の良い学生同士のごくありふれたダイアローグにすぎない。
 もちろん、みどりのセリフのなかに、たまこに対する彼女の秘められた想いを読み取ることも不可能ではないだろう。なぜなら、「彼らは言葉だけでなく心もまた大切に」という英文そのものが、言葉にならない、あるいは言葉にするわけにはいかない、みどりの切ない恋心を暗示したものとして読むこともできるからだ。
 つまり、このシーンでは、翻訳可能なもの(言葉−文字−ダイアローグ)と翻訳不可能なもの(心−ニュアンス−モノローグ)が対置されているのである。
 このような解釈は、英文を翻訳するのに手こずっているたまこを見かねて、みどりがつい自分で訳してしまうという発話状況によっても、いっそう際立たせられているといえるだろう。
 しかし、だからといって、みどりの想いが鈍感なたまこに伝わることはありえないし、みどりもそのことを知っているからこそ、平静を保っていられるのだ。したがって、もしこの二人しかいなかったら、みどりの恋心がひそかに漏れ出てしまうことも、おそらくありえなかっただろう。
 だが、みどりにとっては運悪くというべきか、実はたまことみどり「だけでなく」、かんな「も」また、その場に居合わせていたのである。それによって、翻訳不可能なはずだったみどりの「心」が、鮮やかにアニメートされることになる。


 かんなは「not only A but also B」という英語構文を、みどりのように正しく翻訳するのではなく、まったく異なった仕方で「誤訳」してみせる。英語の課題に取り組むたまこの髪をいじりながら、かんなはみどりとたまこのダイアローグに割り込むかたちで、不意に「あ、枝毛」とつぶやくのだ。
 これは直接的には、たまこの髪に枝毛を見つけたということであり、また間接的には、第二話前半のラストシーンで、たまこが自分の父親を「ハゲ」呼ばわりしたことを受けたものだろう。いずれにせよ、かんなのこのセリフは、英文の翻訳をめぐるたまことみどりのダイアローグとは、一見すると何の関係もないように思われる。
 だが、そうではないのだ。かんなが枝毛を見つけたのは、たまこが「not only A but also B」とつぶやいたすぐ後のことだった。もうおわかりだろう。かんなの唐突な「枝毛[えだげ]」発言は、「not only A but also B」を翻訳した「AだけでなくBも」の一部、すなわち「Aだけ[えーだけ]」の駄洒落になっているのだ。
 つまり、このシーンでかんなは、まず英語構文を日本語に翻訳した上で、日本語訳をさらに分解し、その一部を無意味な音像へと還元することで、言葉遊びに変換しているのである。


 しかも、このシークエンスにはまだ続きがある。
 かんなの「枝毛」発言を受けて、たまこは「みどりちゃん、髪きれいだね」といいながら手を伸ばし、みどりの髪に触れる。予想外のことに不意を突かれたみどりは、思わず言葉を失い、たまこに髪を撫でられるがままになってしまう。
 やがて、かんなまでがみどりにじゃれつくと、ようやく我に返ったみどりは、適当に二人をあしらい、平静を装うのだった。
 しかし、髪を撫でられるわずか数秒のあいだ、みどりの横顔をクローズアップして描いたカットからは、たまこに対する彼女のひそやかな想いが、うるんだような大きな瞳に反射しながら、まるで放課後の光のように画面の向こう側へと漏れ出している。


 以上のシークエンスをあらためて整理すると、次のようになるだろう。
 まず、このシーンでは〈「not only A but also B」→「AだけでなくBも」→「言葉だけでなく心も」〉という、たまことみどりのあいだで交わされる通常の意識的なコミュニケーションの連鎖がある。あるいはそこに、翻訳可能な言葉と翻訳不可能な心の対置を読み込むこともできるだろう。
 ところが、この連鎖にかんなが割り込むことで、親密な身体的接触をともなう、きわめて複雑なコミュニケーションの連鎖が同時並行的に生み出される。その連鎖とは、〈「not only A but also B」→「AだけでなくBも」→「Aだけ[えーだけ]」→「枝毛[えだげ]」→「みどりちゃん、髪きれいだね」→(たまこがみどりの髪に触れる)→(みどりの無防備な表情)〉というものだ(厳密には、この後さらに、みどりがたまことかんなをあしらうシーンが続く)。
 このもうひとつの連鎖は、フロイトにしたがうなら、語を無意味な音像として処理することで言葉遊び(駄洒落)を作り出す、無意識の働きによるものといえるだろう。
 つまり、たまことみどりの意識的なダイアローグに、かんなの無意識が作用した結果、予想を越えたコミュニケーションの連鎖(たまこがみどりの髪に触れる)が引き起こされ、抑圧されていたみどりの恋心が露わになってしまったのだ。翻訳不可能な彼女の恋心が、無意識によって鮮やかに翻訳されているのである。
 こうしたコミュニケーションは、相手の反応をあらかじめ予想して言葉を紡ぐ、意識的で協働的なダイアローグをはるかに超え出ている。むしろそれは、さまざまな声が重層的に響き合い、予想外の連鎖を引き起こす「ポリローグ」とも呼ぶべきものだろう。
 そこでは、それぞれの発話者の意識だけではなく、あるいは意識よりもはるかに饒舌に、無意識がコミュニケートすることになる。だからこそ、このシークエンスでは、モノローグが一切用いられていないにもかかわらず、みどりの秘められた想いが視聴者に明かされてしまうのだ。


 さらにつけ加えると、第二話の「not only A but also B」をめぐる言葉遊びは、みどりの切ない恋心が隠された暗号であると同時に、続く第三話冒頭でのクラス替えの結果を予言したものと読むこともできる。
 というのも、第三話では、たまことかんながA組になるのに対して、みどりだけはB組になってしまうからだ。そうだとすれば、「AだけでなくBも」というみどりの解答には、たとえ別々のクラスになっても、これまでと変わらない親密な関係性を維持したい、してほしいという、みどりの願望が込められていたのではないだろうか。
 もしかしたら、自分がたまこと違うクラスになってしまうことを、みどりはひそかに予感していたのかもしれない。


〈3〉
 『たまこまーけっと』に見られる無意識のポリローグは、ダイアローグには表れないキャラクターの隠された悩みや想いを、モノローグを用いずに日常的なコミュニケーションのなかに織り込むことで、ささやかな物語を生成する役割を果たしている。それはいいかえると、この作品のプロットそのものが、機知や駄洒落といった言葉遊び的なコミュニケーションの連鎖によって形作られているということだ。
 なかでも、たまこの妹のあんこに焦点を当てた第四話と第九話には、そうしたモチーフが第二話以上にわかりやすく表れている。
 だが、第四話と第九話の具体的な分析をはじめる前に、ここでもう一度、人間や土地の「名前」に関するフロイトの議論を参照することにしよう。なぜなら、この二つのエピソードでは、キャラクターの名前をめぐる言い間違いや言葉遊びが、きわめて重要な役割を演じることになるからだ。


 フロイトは『日常生活の精神病理学』(一九〇一年)の冒頭で、自分の個人的な体験を例に挙げながら、名前の一時的な「度忘れ」が引き起こされるメカニズムを考察している。
 ある日、フロイトは「シニョレッリ[Signorelli]」という画家の名前をどうしても思い出せず、代わりに「ボッティチェリ[Botticelli]」と「ボルトラッフィオ[Boltraffio]」という二つの名前が、頭のなかにしつこく浮かんできたのだという。この度忘れのメカニズムを説明するために、フロイトは次のようなエピソードを紹介している。
 フロイトは「シニョレッリ」という名前を度忘れする直前、「ボスニアヘルツェゴビナ[Bosnien und Herzegowina]」に住んでいるトルコ人の「死と性」にまつわる風習について話していた。その話のなかに、「先生(ヘル[Herr])」という語が登場する。
 また、フロイトはその数週間前「トラフォイ[Trafoi]」に滞在しており、そのあいだに自分の患者のひとりが不治の性的障害を苦にして自殺した、という知らせを受け取っていた。
 一見すると何の関係もないように思えるこれらのエピソードから、フロイトはまるで暗号を解読するかのように、「シニョレッリ」という名前を度忘れしたメカニズムを導き出していく。


 まず「シニョレッリ[Signorelli]」という名前が、「シニョール[Signor]」と「エリ[elli]」に分解され、後者は「ボッティチェリ[Botticelli]」という代替名の一部([Bottic-elli])にそのまま表れる。
 他方で、イタリア語で男性の敬称を意味する「シニョール[Signor]」は、同じくドイツ語の男性の敬称である「ヘル[Herr]」へと翻訳される。そして、この「ヘル[Herr]」という語が、その一部を含む「ボスニアヘルツェゴビナ[Bosnien und Herzegowina]」という名前の結びつきへと遷移し、さらに「ボスニア[Bosnien]」の語頭の「ボ[Bo]」が、「ボッティチェリ[Botticelli]」および「ボルトラッフィオ[Boltraffio]」へと遷移する。
 また、同時に「ヘル[Herr]」という語は、トルコ人の風習についての話と結びつくことで、「死と性」という抑圧された主題系を呼び起こし、「トラフォイ[Trafoi]」で聞かされた患者の訃報と関連づけられる。そして、この「トラフォイ[Trafoi]」が微妙に変形され、「ボルトラッフィオ[Boltraffio]」の一部([Bol-traffio])へと遷移するのである。
 つまり、フロイトが「シニョレッリ」という名前を忘れてしまったのは、本来、彼が忘れたがっていた(抑圧していた)「トラフォイ」での訃報と、この「シニョレッリ」という語が、無意識のうちに結びついていたためなのだ。


 フロイトにしたがうなら、名前の一時的な度忘れは、夢や言葉遊びとまったく同じように、語の縮合・遷移・分解といった無意識の働きによって生じる。そして、このとき重要なのは、「この過程で名前は、ひとつの文を変形してそこから判じ絵を作る際の字面と同じような具合に取り扱われている」ということだ。
 要するに、無意識の領域では、名前は象形文字のような具体性をもった「判じ絵」として、つまり文字通りの意味での「キャラクター(文字像)」として現れるのである。
 名前が視覚や聴覚によって知覚される具体的な像(イメージ)であると同時に、意味をもった文字でもあるということ。これは『たまこまーけっと』に登場するキャラクターに驚くほどよく当てはまる。
 たとえば、餅屋「たまや」を営む北白川家の人間はみな、「あんこ」や「豆大」、「福」、「たまこ」といったように、家業である餅や屋号にまつわる言葉が名前になっているし、ライバル餅屋のひとり息子にいたっては、「もち蔵」という安直すぎる名前がつけられている。また、南の島の住人たちは、「デラ・モチマッヅィ[とても餅が不味い]」に「チョイ・モチマッヅィ[少しだけ餅が不味い]」、「メチャ・モチマッヅィ[きわめて餅が不味い]」と、これまた身も蓋もない名前である。
 そのため、『たまこまーけっと』には、キャラクターの名前をめぐるコミュニケーションが繰り返し登場することになる。そして、なかでも注目に値するのが、すでに述べたように、あんこに焦点を当てた第四話と第九話なのだ。


 天使のような小学生、あるいは小学生のような天使であるあんこは、自分のことを「あんこ」と呼ばれることを嫌がり、まるで『赤毛のアン』に登場するアン・シャーリーのように(あるいは彼女とは真逆に)、第一話から「あんこのことはあんって呼んで」と繰り返し主張している。
 なぜなら、あんこは自分が餅屋の娘であることを受け入れられず(ここにもおそらく、母親の不在がかかわっている)、餅にまつわる「あんこ」という名前で呼ばれることに、心理的な抵抗感を抱いているからだ。
 しかし、彼女のことを実際に「あん」と呼んでくれるのは、実家に住み着いたデラだけであり、家族やうさぎ山商店街の人々は、相変わらずあんこのことを「あんこ」と呼び続けている。
 つまり『たまこまーけっと』では、キャラクターの名前がコミュニティ(家族や学校、うさぎ山商店街)の問題と密接に結びついているのである。だからこそ、部外者であるデラだけが、どんなに邪険に扱われても、あんこのことを「あん」と呼ぶのだ。
 実際、家族によって与えられ、コミュニケーションの過程で流通・循環する名前は、そのキャラクターの性格や行動、ときには運命までも左右する。だから、自分の名前を好きなように書き換えるということは、たとえ一時的にではあれ、コミュニティの重力から離脱することを意味するだろう。たとえば、恋人同士の秘密の呼び名のように。
 とはいえ、まだ小学生であるあんこにとっては、恋愛を通じて自分の名前を書き換えることは、事実上不可能であるように見える。
 『たまこまーけっと』第四話では、まさにそうした名前の書き換えが、コミュニティからの離脱によってではなく、言葉遊びに見られる無意識の働きによって成し遂げられていることになる。これによってあんこは、自分の名前にまとわりつく「餅屋の娘」という意味の重荷を、少しだけ軽くすることができたのだった。


 第四話で描かれるのは、あんこの淡い恋の物語である。
 クラスメイトの柚季に恋心を抱いているあんこは、彼を含む何人かで一緒に博物館に出かけるのを楽しみにしていた。しかし、実家の餅作りや商店街の祭りの手伝いに忙殺され、彼女だけ博物館に行くことができなくなってしまう。その代わりにあんこは、商店街の人々との交流を通じて、しだいにコミュニティに馴染んでいく。
 ところが、実家の前で威勢よく餅を売っていたあんこの目の前に、不意に博物館帰りの柚季が現れる。恥ずかしいところを見られ、激しく動揺した彼女は、自分の部屋のクローゼットのなかに閉じこもってしまう。
 コミュニケーションを遮断し、かたくなに外に出ることを拒んでいたあんこだったが、柚季が博物館のお土産を差し出すことで、ようやくクローゼットの扉を開くのだった。
 では、柚季が持参した博物館のお土産とは、いったい何だったのだろうか。
 それは「アンモナイト」の化石である。そして私たちは、ここにも言葉遊びが含まれていることに気づくはずだ。
 つまり、あんこの願い通りに「あんこ」が「あん」へと分解された上で、その語を含む「アンモナイト」へと遷移しているのである。さらに、ここでは「アンモナイト」が、「あん」と「ナイト」の縮合による合成語としても機能していると考えられる。つまり、〈「あんこ」→「あん」〉+〈「あん」+「ナイト」→「アンモナイト」〉というわけだ。
 そうだとすれば、あんこをコミュニケーションに復帰させ、アンモナイトを手渡した柚季が、文字通りの意味で「あん」の「ナイト[騎士]」であり、彼女が「いないと」悲しい、寂しいという秘密の暗号をこのお土産から読み取ることも、決して不可能ではないだろう。


 最後に、『たまこまーけっと』第九話を見てみよう。
 このエピソードでは、あんこが思いを寄せているクラスメイトの柚季が、転校してしまうことが明らかになる。とくに注目してほしいのは、物語の後半、柚季の転校を知ってふさぎこんでいたあんこが、それでも意を決して柚季のところに走り、彼に「つきたてのお餅(豆大福)」を差し出すという初々しいシーンだ。
 きょとんとしている柚季に対して、あんこは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしながら、たどたどしく、しかし真剣に餅の説明をしようとする。そこで繰り返される「つきたて」という言葉は、まず「つき」へと分解され、さらに「柚季(ゆずき)」から「好き(すき)」へと次々に遷移していくだろう。
 だが、何よりも決定的なのは、あんこの次のようなセリフである。

[お餅の]なかにあんこが、私じゃない、あんこのほうのあんこが入ってて…


 これはもはや言葉遊びですらない、避けようのない言い間違いとして、あんこの隠された想いをこれ以上ないほど鮮やかに描き出している。このシーンでは、あんこの意識よりもずっと精細かつ饒舌に、彼女の無意識がアニメートされ、またコミュニケートしているのだ。


 「あんこ」をめぐるこれらのエピソードは、無意識のポリローグに秘められた解放的なポテンシャルを暗示しているといえるだろう。
 たしかに「あんこ」という名前には、餅屋の娘という逃れがたい意味が背負わされている。この意味は、ときにあんこの自由な言動を束縛し、あるいは感情を抑圧することで、彼女の運命を支配しようとさえするかもしれない。
 だが、この名前は同時に、言葉遊びや言い間違いといった無意識の働きを通じて、予想もつかないような形態へと縮合・分解・遷移することができる、ひとつの音像ないし文字像(キャラクター)でもあるのだ。
 そうだとすれば、名前をめぐる日常的なコミュニケーションに翻弄されるのでも、また逆に、クローゼットに引きこもって切断するのでもなく、言葉遊びや言い間違いに見られるような無意識の働きによって、自らの運命をさまざまな可能性へと開いていくことができるのではないだろうか。
 『たまこまーけっと』には、名前による呪縛を解放へと変換する、そのような無意識の働きがアニメートされているのだ。


 『たまこまーけっと』が描いているのは、たしかに、私たちの現実から切り離された「理想の日常」に見えるかもしれない。
 だが、すでに見てきたように、それはこの作品が、キャラクターの抱える苦悩や葛藤をすべて消し去ってしまったからではない。そうではなくて、機知や駄洒落といった無意識のポリローグをアニメートすることで、彼女たちのひそやかな想いを、ごくありふれたコミュニケーションのなかに暗号として織り込んでいるからなのだ。
 そして、私たち自身の日常もまた、実は『たまこまーけっと』と同じように、あるいはフロイトが鮮やかに分析したように、意識という縦糸と無意識という横糸によって織り成される、繊細なテクストなのではないだろうか。
 その表面に刻まれた判じ絵のような暗号の数々は、ごくありふれた日常生活のなかで、私たちの運命が知らず知らずのうちに書き換わっていたことを、そっと教えてくれる。『たまこまーけっと』は、そうした暗号を解読するための、おそらく最良の教科書のひとつである。
 無意識の領域で名前が分解され、さまざまな語へと縮約・遷移していくように、私たちの生もまた、無数に枝分かれする迷宮のような裏路地へと開かれているのだ。

武装する日常系アニメ vs 幼女ファシズム?:《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》要点まとめ #日常系ソフトコア

3月9日(日)に《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》というゆるふわパネルディスカッションを開催しました。
シンポジウムでの議論の要点を自分なりにまとめてツイートしていたのですが、映像アーカイブの保存期間が過ぎたこともあり、備忘録をかねて再度ブログにまとめることにしました。

当日の実況まとめはこちら↓
《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》映像+まとめ #日常系ソフトコア
http://togetter.com/li/641317

立川コンテンツ・テ□リズム企画についてはこちら↓

立川街歩きイベント構想録
http://togetter.com/li/631584

立川街歩き構想録(その2) #立川征服
http://togetter.com/li/641714

分身の不在、幽霊の視線:『おおかみこどもの雨と雪』について

 細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』が、2012年を代表するアニメ映画のひとつであることに疑問の余地はないだろう。この作品は「おおかみおとこ」である夫を事故で失った未亡人の花が、二人の「おおかみこども」(雨と雪)の子育てに悪戦苦闘する物語である。洗練された映像と音楽、それに感動的なストーリーが多くの観客を魅了し、公開直後から大きな反響を呼び起こすことになった。
 しかしその一方で、『おおかみこども』に対する否定的な意見も少なくない。評論系のブログや同人誌では、実際の子育てと大きく異なっていることや、母親をある種のヒーローとして描くことについて、かなり手厳しい批判がなされている。なかでも注目したいのは、「そもそも主人公の花に共感できない*1というものだ。たしかに母子家庭の子育て(しかも狼男と人間の子供)という大変な状況にもかかわらず、何があってもニコニコしている彼女は──作中でその理由は一応説明されているとはいえ──やはりどこか不自然で、不気味な印象を与えたかもしれない。母性信仰というよくある批判は、おそらくこの点に由来していると言っていいだろう。
 だがここで主張したいのは、まさに花に共感できないということが、『おおかみこども』を比類ない作品にしているということなのだ。この点を説明するために、まずは『おおかみこども』を細田守監督の別の作品と比較し、次におおかみおとこの特権的な位置を確認することにしよう。


 『おおかみこども』の観客は、二重の意味で花から隔てられているように見える。第一に、この作品は花の娘である雪が、幼い頃の母親との思い出を物語るという形式になっている。とはいえ雪のナレーションはさほど多くないし、フラッシュバックのように物語の時系列が大きく前後する箇所も見あたらない。むしろ重要なのは第二の隔たりのほうだ。見たところ『おおかみこども』には、観客がスクリーンのなかに擬似的に入り込み、主人公である花に寄り添うための仕掛けがほとんど存在しない──これが第二の隔たりである。このことは同じ細田守監督の『サマーウォーズ』や『デジモンアドベンチャー 僕らのウォーゲーム』と比較するとわかりやすいだろう。
 この二つの作品に共通しているのは、世界中の無数のネット・ユーザーたちが主人公に協力して悪いコンピュータ・ウイルスをやっつけるという、いわば『ドラゴンボールZ』の「元気玉」──「みんな、オラにちょっとだけ元気を分けてくれ!」──のようなストーリー展開になっていることだ。この展開には少なくとも二つのメリットがある。ひとつは、味方の劣勢を一挙に挽回することで、物語を劇的に盛り上げることができるという点。そしてもうひとつは、観客を物語のうちに擬似的に参加させることができるという点だ。つまり無名の脇役をたくさん登場させることで、たんなる傍観者にすぎないはずの観客に、自分があたかも当事者のひとりであるかのように想像させ、物語にいっそうのめり込ませるのである(これとほとんど同じことが、おそらく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の「ヤシマ作戦」にもあてはまるだろう)。
 とくに『サマーウォーズ』や『デジモン』では、脇役たちが直接主人公に協力するのではなく、ネットのアカウントやアバターとして登場する。これは現代のソーシャル・ゲームではよく見られることであり、作中の「元気玉」をより現代的・効果的なものにしていると言えるだろう。日々のつらい現実に打ちのめされ、どうせ自分はヒーローにはなれないと諦めている観客でも、ヒーローを応援する群衆のひとりくらいにはなれるのだし、そうなりたいとひそかに願っているのだ──いまは行き場を失った正義感が、ネットの炎上を引き起こしているとしても。主人公のピンチを救う無名のアバターは、そんな観客たちの分身としてスクリーンに登場する。


 このように考えると『おおかみこども』には、観客を擬似的に参加させるためのわかりやすい仕掛けが見あたらないことに気づく。これは言い換えれば、子育てに苦労する花や、人間関係で苦悩する雨と雪を助けるためのアバターが(韮沢のおじいさんを除いて)ほとんど存在しないということだ。だから『おおかみこども』の観客は、擬似的な当事者ではなくたんなる傍観者として、スクリーンの外部から三人の様子を見守ることしかできない。そして実際に彼女たちは、ほとんど誰の助けも借りずに──というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも観客の存在にはまったく無関心に──それぞれの進むべき道を勝手に切り開いていく。
 もちろんアバターが登場しないからといって、主人公に共感できなくなるわけではないし、ましてや物語にのめり込めなくなるわけでもない。だが『サマーウォーズ』や『デジモン』とくらべると、『おおかみこども』の主人公が観客から隔てられていることは明らかだろう。子育ての苦労を分かち合い、花の助けになりたいと思っても、彼女自身がまるで何ごともなかったかのように笑っているのだから(むしろ花の笑顔にいらだつ韮沢のおじいさんの反応は、観客の困惑をストレートに表しているように見える)。実際『おおかみこども』には、コミュニティやコミュニケーションの力で大きな困難を乗り越える、という先の二作品のような展開があまり見られない。花に共感できないという批判は、ひとまずこのような作品の構造に由来していると言えるのではないだろうか。


 しかしこうした『おおかみこども』理解は、それだけでは不十分である。なぜならこの作品には、傍観者としての観客と同じような位置にいるキャラクターがひとりだけ存在する──というより「不在する」と言うべきかもしれない──からだ。それは言うまでもなく、花の亡くなった夫、つまりおおかみおとこである。彼は物語の序盤で早々に退場してしまい、結局最後まで名前さえ明らかにされない。ときどき花の夢や幻想のなかに現れては、子育てに思い悩む妻を抱擁したり元気づけたりはするものの、彼女たちが直面するさまざまな困難に対しては、当然ながら何の役にも立たない。
 これは言い換えると、おおかみおとこが観客とほとんど同じ場所に立っているということだ。観客が物語に擬似的に参加できず、花の苦労を分かち合えないのとちょうど同じように、おおかみおとこは彼の妻や子供たちから隔てられている。つまり『おおかみこども』では、観客は花の子育てに協力できない代わりに、あるいはむしろそのことによって、無名のおおかみおとこの視点に立っているのだ(もしジェンダー的な問題があるとすれば、それは母性信仰がどうこうというよりも、おそらくこうした図式そのものだろう)。だからこの作品には観客のアバターが存在しない、というのは正確ではない。そうではなくて、観客たちは決して物語の当事者になることができず、たんなる傍観者にすぎないからこそ、死んでしまったキャラクターが彼らの分身となるのである。こうして『おおかみこども』の観客は、子育てに参加できないおおかみおとこを通じて、いわば実体をもたない幽霊として作品のなかに入り込むことになる。


 しかしだからといって、おおかみおとこが無意味な存在として描かれているわけではないことに注意しよう。むしろ事態は逆である。たしかに彼は、たとえば韮沢のおじいさんのように、自分の妻や子供たちに実際に手を差し伸べることはできない。しかしそれでも花にとっては、まるで幽霊のようなおおかみおとこの存在こそが、子育ての最大の原動力になっていたことは明らかだろう。というのもすでに触れたように、彼は妻の夢や幻想のなかにたびたび登場しては、子育てに疲れきった彼女を抱きしめていたからだ。それは夫の突然の死によって永久に失われ、夢や幻想のなかであがなわれるほかない、花の幸福な記憶そのものである(おそらくフィクションとは本質的に、実現されることのなかったもうひとつの人生、幸せになれたかもしれないもうひとりの自分なのだろう)。一面に白い花が咲き乱れるあの美しい風景は、農作業で泥にまみれる彼女の姿と明確なコントラストをなしている。
 だがそうだとしても、花が困難な子育てを放棄し、安易な夢や幻想に耽溺していると考えるのは間違いだ。なぜならそれは現実から逃避するためではなく、むしろ現実を生きるためにこそ必要とされるファンタジーなのだから。きっと彼女は自分の夢や幻想が何の役にも立たないことを、また幽霊が何の助けにもならないことを知っているにちがいない。しかしそれでも花を生かすのは、このささやかなファンタジー以外にはありえない。彼女は夢や幻想のなかでだけ、死んだはずの夫に再会し、彼の腕のなかで束の間の幸福感を味わうことができる。だからこそ花は、現実のさまざまな困難にぶつかりながらも、かろうじて笑い方を忘れずにいられるのではないだろうか。彼女が泣き言ひとつ漏らさず、つねに笑顔を絶やさない──そのせいで気味悪がられ、共感できないと批判される──のは、ありえたかもしれないもうひとつの『おおかみこども』、つまりはフィクション内フィクションに支えられているおかげなのだ。たとえそれがどれほど現実の子育てからかけ離れていたとしても、ここに細田守監督の信念を見ないでいることは難しい。
 そしてこうした図式はそのまま、フィクションとしての『おおかみこども』と観客との関係に折り返される。幽霊としての観客に求められているのは、花の過酷な境遇に同情し、擬似的な当事者として協力する(協力した気になる)ことではない。そうではなくて、スクリーンの向こう側に干渉できないことの無力感にさいなまれながら、彼女の物語を最後まで見届けることである──ちょうどタンスの上に置かれた、おおかみおとこの免許証の写真のように。花がもうひとつの世界から見られていることを、幽霊からの視線を信じているのでなければ、大変な子育てに笑顔で立ち向かうことはできなかったにちがいない。見ることが同時に触れることであり、また祈ることでもあるような、見ることの経験がたしかに存在する。


 『おおかみこども』のクライマックス・シーンを思い出そう。オオカミとして山に去っていく雨に取り残され、灰色がかった画面の中央で立ちすくむ、黄色いレインコートに身を包んだ花の姿。しだいに小さくなっていく彼女の視線がとらえているのは、振り返らずに遠ざかっていく若いオオカミの姿なのだろうか、それとも彼女には見えるはずのない世界、つまりはスクリーンの向こう側の客席なのだろうか。「元気で、しっかり生きて!」という花の叫びが雨上がりの澄んだ空気を振動させ、映画館の暗闇に響き渡るとき、彼女の祈りがほかならぬ自分に宛てられたものではないと、どうしてそんなふうに考えることができるだろうか。花が幸福な夢や幻想から目覚めるとき、もしかしたらおおかみおとこの幽霊は、いつもそう言って彼女を送り出していたのかもしれない。
 祈りとはおそらく、ひとつの世界から枝分かれするもうひとつの世界に向けての、ほんの一瞬重なり合った二つの世界のあいだの、最後の挨拶のようなものだろう。フィクション経験の最高次の瞬間、私たちはそんな挨拶を贈られる──ありえたかもしれない人生から、しっかり生きるように、と。

*1:「討論会『おおかみこどもの雨と雪』を語る」『FLOWORDS vol.4』

多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(2)

斜めから見る:谷口真人《Anime》と矢吹健太朗To LOVEる ダークネス

前回の記事(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110710/1310312513)からずいぶん時間が経ってしまいましたが、今回は第一回目で取り上げた梅ラボに続いて、イメージのマルチレイヤー性にきわめて自覚的なアーティスト、谷口真人に焦点を当てようと思います。まずは以下のページから彼の作品を見てください。

http://blog.makototaniguchi.com/?month=201104


谷口の代表的な作品として知られているのは、《Anime》(2011年)と題された油絵のシリーズです。一見すると、何かごちゃごちゃした絵の具のかたまりが、まるで空中に浮いているかのように見えるかもしれません。しかし私たちはすぐに、この絵の具のかたまりが透明なガラス板の上に貼りついていること、そしてその背後に鏡が設置されていることに気づくでしょう。つまり谷口の《Anime》シリーズの特徴は、油絵が不透明なキャンバスの上ではなく、手前のガラス板と背後の鏡を木製フレームで囲った箱形の装置の上に描かれていることにあります。そしてこのシンプルな構造は、スーパーフラットな単一表面に対する鋭い批評意識に支えられています。どういうことでしょうか。

そもそもスーパーフラットと言われる作品は、それがアニメであれマンガであれ、あるいは村上隆の作品であれ、つねに正面から、しかも一定の距離をおいて見られることを前提にしています。これは当たり前のように思われるかもしれませんが、たとえば日本で人気の高い印象派の絵画とくらべてみると、スーパーフラットなイメージの特殊性が明らかになるでしょう。

私たちがモネやセザンヌの作品を観賞するとき、その場に立ち止まったまま動かないということはあまりないはずです。むしろ近づいてみたり遠ざかってみたり、意外と動き回っている人が多いのではないでしょうか。なぜなら印象派の絵画は——これは別に印象派にかぎったことではありませんが——、遠くから眺めたときと近くから眺めたときとでは、同じ作品から受けるイメージがまったく異なるからです。私たちはふつう、やや遠目から作品全体を眺め、次に顔を近づけてひとつひとつの「タッチ」を確認し、それからまた少し離れて全体を眺める、このリズムを繰り返しています(そしてこれは同時に、一筆ごとに全体の印象をたしかめる画家のリズムでもあるでしょう)。個々のタッチはひどく雑に見えるのに、全体としてはひとつのイメージが現れているということ。この不思議な揺らぎこそが、もしかしたら印象派の人気の秘密なのかもしれません。

これに対してアニメやマンガを観賞するためには、近すぎても遠すぎてもいけません。アニメは近すぎると目が悪くなる——「部屋を明るくしてテレビから離れてみてね!」——し、マンガは遠すぎると文字が読めないからです。というかそれ以前に、アニメやマンガに近づいても遠ざかっても何も変わらないか、あるいは何がなんだかわからなくなるだけで、印象派の絵画が与えてくれるような驚きはありません。そして観賞者もそのことを前提にしています。だからこそアニメやCGでは、「画質」や「解像度」の良し悪しが問題になるわけです。画像を拡大する=画像に近づくことは、画家の個性的なタッチではなく、ノイズやドットの粗さを際立たせることにしかならないでしょう。

絵画とのちがいを逆手にとったのが、村上隆スーパーフラットな作品です。彼の平面作品に近づいて眺めると、表面が驚くほどツルツル・ピカピカに仕上げられていることがわかります。つまり村上は、画家の手の痕跡をできるかぎり排除することで、セルアニメのキャラクターのようなスーパーフラット性を作り出していると考えられます。そこには印象派の絵画に見られるような、画家の身体の動きと結びついたリズムは存在しません。ちなみに印象派以前のアカデミズムの画家たちは、その卓越した技量によって、個々のタッチによるムラをかぎりなくゼロに近づけようとしました。

そしてもうひとつ、スーパーフラットなイメージは、斜めから見ることができません。これはあらゆる絵画にも言えることですが、とくにアニメやCGにとっては、きわめて重大な意味をもっています。というのも正面から見られることではじめて、イメージ本来のマルチレイヤー性が圧縮され、スーパーフラットな単一表面へと「合成compose」されるからです。たとえばセルアニメでは、前景に位置するキャラクター(作画レイヤー)によって、背景画(背景レイヤー)の一部が隠されてしまいます。このような盲点が生まれるのは、二つ以上のレイヤーをひとつの視点から合成しているためです。そしてこの視点というのが、レイヤーに対して垂直に伸びる視点、つまり複数のレイヤーを「串刺しにする」まなざしなのです(これについては前回の記事(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110710/1310312513)も参考になると思います)。伝統的な絵画や映画には、そもそもレイヤーを合成するという契機が存在しません。

この直進するまなざしは、アニメ制作のデジタル化によって、ひとつの象徴的な表現を見出すことになりました。それが新海誠の多用する「光」の表現です。Photoshopで作られる新海の映像には、多くの場合、カメラが強い光源をとらえたときに生じる複雑な光の演出——たとえばレンズフレアやスミア、ブルーミングといったもの——が施されています。そしてこれらの演出は、画面に一体感を与えることで、複数のレイヤー間のズレを見えなくさせる役割を果たしています。つまり画面の内部から外部へと直進する光が、レイヤーを合成する私たちのまなざしをガイドしているわけです。

新海の光を深夜アニメに応用すると、美少女キャラクターのパンツや裸を隠す「謎の光」や「湯気」になります。そこで私たちがじれったい思いをするのは、ひとつしかない正面からのまなざしがさえぎられているためです。あるいはテレビを下から見ることで、画面のなかの女性のスカートを覗こうとする人の笑い話を思い出してもいいでしょう。逆に言うと、美少女フィギュアの魅力は明らかに、視点の多様さと自由さによるものです(つまりパンツが見えるということです)。だからこそAmazonの商品紹介ページでは、あらゆる角度からのフィギュアの写真が掲載されているのです。


ずいぶん前置きが長くなってしまいましたが、以上の考察はすべて、谷口の《Anime》シリーズに触発されたものです。彼は作品の基底材を立体化・複数化し、そこに斜めからのまなざしを引き入れることで、スーパーフラットなイメージをみごとに「脱—合成de-compose[=分解]」してみせました。詳しく見ていきましょう。

ガラス板に付着した絵の具の正体は、正面からではなく、斜めから見ることによって明らかになります。少し視線を傾けるだけで、ガラス板の背後の鏡に往年の『世界名作劇場』シリーズを思わせる、どこか懐かしい可憐な少女の姿が映し出されていることに気づくでしょう。つまりこの絵の具のかたまりは、実はガラス板の裏側から少女を描いたときに、分厚く塗り重ねられたものだったのです。そして私たちは、ガラス板の背後におかれた鏡の反射によってのみ、裏返された少女のイメージを目にすることができます。しかしそのためには、作品に正面から向き合うのではなく、斜めから見る必要があります。なぜならこの装置の正面に立つと、手前のガラス板と背後の鏡が重なり合ってしまい、絵の具の裏側が隠れてしまうからです。これは言い換えれば、ひとつの視点から二つのレイヤーが合成されることで、盲点が生まれるということを意味します。

ガラス板の裏側の少女の姿を見るためには、ガラス板と鏡のあいだで反射する光をとらえなければなりません。つまりこの二つのレイヤーをぴったりと重ね合わせるのではなく、微妙にずらす必要があるわけです。私たちは作品に斜めに向き合い、ガラス板と鏡をそれぞれ別々のレイヤーへと分解することで、はじめて鏡に映った少女の姿を目にすることができます。したがってここには、スーパーフラットなイメージを脱合成しようとする、谷口の批評的なスタンスを読みとることができるでしょう。そしてそのために彼は、複数のレイヤーを圧縮してしまう正面からのまなざしに代えて、斜めからのまなざしを導入したのです。ではイメージを脱合成することで、いったい何が達成されたのでしょうか。

ガラス板の裏側から塗るという谷口の手法は、直接的には「セル画」の制作手法と同じものです。セル画というのは、透明なシートに描かれた絵(作画レイヤー)のことで、これを背景画(背景レイヤー)に重ねることでセルアニメが作られます。そしてセル画の特徴は、まず下書きの上に重ねてキャラクターの輪郭線を写した後、ひっくり返して裏側から着色するという点にあります。これによってアニメのキャラクターに特徴的な、ムラのないツルツルした表面に仕上がるわけです。そして谷口の手法がおもしろいのは、セル画を裏返したまま展示したことにあります。そうすることで彼は、キャラクターのなめらかな表面の背後に、混沌とした絵の具のかたまりが潜在することを示しているのです。

この絵の具のかたまりは、鏡に映った少女の姿と鋭い対照をなしています。そこにリアル/フィクション、触覚/視覚の対比を重ね合わせることもできるでしょう。しかしここで重要なのは、両者を二項対立的にとらえることではありません。というのも谷口は、フィクションに対してリアルを上位においているわけでも、またその逆でもないように思われるからです。むしろ《Anime》シリーズを見る私たちのまなざしは、どちらか一方のレイヤーに固定されるのではなく、たとえば印象派の絵画を前にしたときのように、ガラス板と鏡という二つのレイヤーのあいだを揺れ動くのではないでしょうか。そしてこの往復運動こそが、彼の作品を優れたものにしている最大の要因であるように思われます。どういうことでしょうか。

ふつう私たちは、アニメやマンガのキャラクターがただの絵であることを知っています。にもかかわらず、ただの絵に強い感情を抱いてしまうことも少なくありません。これはキャラクターに「萌え」たことのある人なら、誰でも一度は味わったことのある経験でしょう。そして《Anime》シリーズの装置を構成する二つのレイヤーは、この認識と感情のズレに対応していると考えられます。絵の具の付着したガラス板が認識をもたらす一方で、少女を映し出す鏡が感情をかき立てるというわけです。したがってこの二つのレイヤーのあいだを往復するまなざしは、認識と感情とのあいだの「にもかかわらず」を絶えず再生産し、私たちに「反省reflection[=反射]」をうながすことになります。これは絵の具のかたまりである、にもかかわらず、少女である、にもかかわらず…といったように。

これに対してスーパーフラットなイメージは、このような反省のサイクルを作り出すことができません。むしろそれは私たちの視点を固定し、反省を遮断することで、キャラクターへの感情的な没入を引き起こすものです(この場合、反省はつねに事後的に——たとえば「賢者タイム」において——なされます)。つまりイメージを脱合成するということは、複数のレイヤー相互のズレや隙間を浮かび上がらせ、それらを新しい関係性のなかに位置づけ直すことにほかなりません。斜めから見るまなざしは、脱合成された二つのレイヤーのあいだの反射=反省を作動させるのです。

フィクションに対してリアルを強調することや、リアルに対してフィクションを擁護することは難しくありません。またアニメやマンガのような油絵を描くことや、油絵のようなCGを描くことも——技術的にはともかく——それほど目新しくはないでしょう。これに対して谷口の独創性は、むしろ両者の関係性そのものをとらえ、その差異を可視化する装置を作り出したところにあります。いまや私たちのまなざしは、スーパーフラットな単一表面を絶えず剥落させ、マルチレイヤーなイメージ空間へと入りこみます。そこではいくつものレイヤーのあいだを反射=反省する光が、私たち自身の網膜をそのひとつの結節点とするような、新しい「星座Constellation」を形作ることになるでしょう。


最後に、もうひとつ実験的な事例を紹介しておきましょう。おそらくいま最も挑戦的な漫画家のひとりである、矢吹健太朗の『To LOVEる ダークネス』(2010年〜)から、主人公の少年リトが美少女暗殺者ヤミのスカートのなかを目撃するシーンです(ここから先は少し性的な描写が続くので、不快に思われる方は読まないでください)。まずは以下のまとめサイトの記事から、「さらなるハレンチな事態に!」というキャプションがつけられている画像を見てください。正面でパンツを脱がされている長い髪の少女がヤミで、左上で慌てている少年がリトです。

【ネタバレ注意】『ToLOVEる ダークネス』第11話はお静ちゃん無双回!お風呂あり!くぱぁ&ペロペロあり!完全アウトな描写あり!? - ToLOVEる☆LOVE


一見して分かるように、正面に固定された読者のまなざしに対しては、ヤミのスカートのなかは巧妙に隠されているように見えます。つまりここではリトだけが、彼女のスカートのなかを目にしているわけです。しかし諦めるにはおよびません。驚きのあまり大きく見開かれた彼の瞳をよく見てください。瞳のなかに細いスリットが描きこまれていることに気づくはずです。これはもちろんリトの瞳孔にすぎないわけですが、にもかかわらず、私たちはそれをヤミの秘密の部分として眺めずにはいられません。これは瞳孔である、にもかかわらず…。

矢吹は少年誌での性的描写の限界に挑戦していると言われますが、このシーンはそのなかでも、最も洗練された表現のひとつに数えられるでしょう。これもまた斜めから見ることで、イメージを脱合成する試みと言えるかもしれません。さしあたって彼は、ヤミのスカートがめくれるという出来事を二つの視点に分解しています(もちろん、それ自体は決して珍しいことではありません)。ひとつは、イメージを正面から見る——したがってスカートのなかが盲点になる——私たち読者の視点です。そしてもうひとつは、ヤミの視点を正面から描き直したものであり、リトの姿が中央にとらえられています。しかしここで重要なのは、直接的には描かれていない第三の視点、つまりリトのまなざしです。

ヤミのスカートのなかを覗くためには、彼女の髪の毛が重ならない角度からの視点が必要になります。そしてこの条件を完璧に満たすのが、いわゆる「ラッキー・スケベ」ことリトのまなざしです。とはいえこのシーンでの彼の視点、すなわちヤミのスカートのなかを、そのまま正面から描きこむことは少年誌では不可能でしょう。こうして矢吹は、いわば必要に迫られて、谷口の《Anime》シリーズと同じようなメカニズムを採用することになりました。つまりリトの瞳を鏡として利用することで、斜めから見るまなざしを正面へと屈折させたのです。それが左下の拡大されたコマです。

さらに矢吹の巧みなところは、ヤミのスカートのなかをリトの瞳孔と重ね合わせた点にあります。そうすることで彼は、イメージに近づく/遠ざかるというリズムを導入することになりました。通常の距離で見るとただの瞳孔ですが、顔を近づけてよく見ると、実は…というわけです。斜めから見るまなざしを密かに描きこみ、イメージを複数のコマへと脱合成すること。この一連の複雑な操作によって、彼は本来見えてはいけないものを描き出すことに成功したと言えるでしょう。

思想家トレーディングカードゲーム企画(#しそトレ)

ツイッターで進行中の思想家トレーディングカードゲーム企画(#しそトレ)メモ

思想家カードゲームハッシュタグ(#しそトレ)まとめ その1 - Togetter

ルールはマジック・ザ・ギャザリングに準拠

【名称変更案】

  • クリーチャー=思想家
  • ソーサリー/インスタント=概念
  • 土地=書物
  • マナ=ロゴス
  • アーティファクト的なインスタント=研究
  • 墓地=ヒストリー?アーカイブ
  • パワー/タフネス=真理/権威?
  • ライフ=理性?自説の強度?
  • 黒/沼=ドイツ語/ドイツ語文献
  • 青/島=フランス語/フランス語文献
  • 白/平地=古典語(ギリシャ・ラテン)/古典語文献
  • 赤/山=英語(イギリス・アメリカ)/英語文献
  • (緑/森=日本語(中国語)/日本語(中国語)文献)

【スターターセット案】

  • 66枚(30枚デッキ*2)
  • 書物カード:6枚*4言語(24枚)
  • 思想家カード:6枚*4言語(24枚)
  • 概念カード:3枚*4言語(12枚)
  • 研究カード:6枚

【カード化予定の思想家】

参考→Category:各国の哲学者 - Wikipedia

【カード化予定の概念】
未定

【制作方法】

【参考文献】