良質のエンターテインメントか、体制のプロパガンダか ──『羅小黒戦記』についての考察

 先日、日本語吹き替え版が公開されて話題になっている映画『羅小黒戦記』(ロシャオヘイセンキ)を観てきた。もともとは2019年に中国で制作されたアニメ映画で、先に公開された日本語字幕版もSNSなどで評判になっていたから、個人的にとても楽しみにしていた。

 結論から言うと、私はこの中国産アニメ映画をたいへん楽しむことができた。ディズニーや日本アニメに負けずとも劣らない高度に洗練されたアニメーションが、日本とは微妙に異なった中国の文化背景や生活描写と違和感なくミックスされていて、ふだん日本の深夜アニメばかり観ている私にはとても新鮮に感じられた。とくにさまざまな「目」の表現によるキャラクターの豊かな表情と、ダイナミックな戦闘シーンの描き方には、日本アニメの色濃い影響がうかがえつつも、それをほぼ完全に消化して独自に進化させつつある中国アニメの勢いが現れているように思えた。

 しかしながら、この作品を楽しめたことが果たして本当によいことだったのかどうか、私には判断がつかない。というのも、『羅小黒戦記』の物語にはかなりきわどい、言ってしまえば中国共産党の「プロパガンダ」的な側面があるようにも感じられたからだ。そこで提示されていたのは、ある意味で徹底して現状肯定的・体制維持的な価値観だった。以下では、この点について私が感じたことをかいつまんで述べてみたい。なお重大なネタバレが含まれるので、未見の方は注意してほしい。

 さしあたって『羅小黒戦記』は、妖精と人間の共生可能性をめぐる物語である。主人公の妖精・小黒(シャオヘイ)は人間によって森から追い出され、同じく妖精である風息(フーシー)らに救われる。しかし、風息を追ってきた強力な術者である人間の無限(ムゲン)に捕まり、道中をともにするうちに、憎んでいたはずの人間やその社会への理解を深めていく。妖精たちは館(やかた)という独自組織を中心に人間と共生しているのだが、これに反発する風息らの一派は、小黒の秘められた力を利用して人間を駆逐し、故郷を取り戻そうと企んでいた。しかし、最終的に小黒は風息ではなく、無限をはじめとする館の勢力と協力し、風息一派を打倒することになる。これが『羅小黒戦記』のあらすじである。

 一見すると、この物語はたんによくできているだけではなく、政治的にも正しい(ポリティカリー・コレクト)ように思える。妖精の分離独立を唱える過激派を倒し、人間との共生を目指す穏健派が勝利する物語だからだ。いわゆる「多文化共生社会」のスローガンを地で行くような展開である。たいていの日本人を含め、それなりの教育を受けてきた現代人は、この結末におおむね満足するのではないかと思う。だが、ここには罠がある。

 まず確認しておくべきなのは、物語のなかですでに、妖精と人間の共生社会がある程度実現されているということだ。妖精たちは正体を隠して人間社会に溶け込み、あるいは人間の立ち入れない館で他の妖精とともに暮らしている。人間嫌いの妖精も少なくないが、それでも風息らのように人間と対決しようとする勢力はごく一部にすぎない。作中のこうした事情を踏まえると、風息一派の企みは、せっかく築いてきた共生社会を文字通り破壊するものとして映る。主人公が彼らを止めようとするのも、また観客がそれを応援するのも当然かもしれない。

 しかしながら、ここには重大な倫理的問題が隠れている。その問題とは、妖精と人間の共生社会が実現しているという前提そのものが、多数派である人間にとってきわめて都合のよいものであるということだ。そもそも妖精たちが人間社会に溶け込み、あるいは館というバーチャルな共同体で暮らしているのは、彼らが人間に住処を奪われ、そのように生きることを強いられたからである。人間には、つまり多数派である私たち観客には、妖精の居場所を奪ったという明確な「罪」がある。にもかかわらず、作中では妖精の側から現状を肯定的に描くことで、人間=観客を免罪してしまう。彼らだっていまの社会に満足しているんだからいいじゃないか、というわけだ。

 その一方で、風息らの目指す故郷の奪還は、手段はともかく主張としてはまったく正当であり、本来であれば人間社会の側が(妖精居住地を設けるなどして)適切に対応すべき事柄である。にもかかわらず、本作では彼らを同じ妖精に鎮圧させることによって、いまある社会を維持していくことが(私たち人間にとってはもちろん)妖精にとっても最善である、というメッセージを発してしまう。妖精の一方的な犠牲に上に成り立っている「多文化共生社会」を、ほかならぬ妖精の側から擁護させているのだ。これによって、人間=観客は安心して自分の罪を忘れることができる。妖精が住処を追われたのはたしかに不幸なことだったが、いまでは彼らも現代文明の恩恵を受けてそれなりに幸せにやっているらしい、よかったよかった──。『羅小黒戦記』を観終わったときのすがすがしい気持ちは、罪を赦された犯罪者のそれと同じである。

 このように言うと、たかがアニメに対して何を熱くなっているのか、と白い目で見られるかもしれない。実際、私自身もフィクションの解釈に倫理や道徳を過度に持ち込むのは好きではない。しかし、曲がりなりにも多文化共生をテーマとする作品が、最終的に多数派の免罪という結末にいたるのは、いささかグロテスクと言うべきではないだろうか。もちろん、エンターテインメントとしては完全に正しい。観客は自分の罪と向き合わずに済み、それどころか免罪までしてくれるのだから。この作品を「楽しめた」ことがよいことだったのかわからない、というのはこのような意味である。

 わざわざ言うまでもないことだが、本作の「妖精」という存在には、各地の少数民族をはじめとする中国社会の少数派が仮託されていると考えられる。その意味で『羅小黒戦記』には、中国の多数派の人々が自国の少数派をめぐる問題をどのように捉えているか、または捉えたいと思っているか、というきわめてアクチュアルな問いが含まれている。そして、この作品の出した答えは、多数派にとって都合のよい現状肯定と体制維持という、まさに中国共産党プロパガンダそのものだった。私はチベット自治区ウイグル自治区で実際に何が行われているのか、正確に知っているわけではない。報道されていることのどこまでが真実なのかもわからない。しかし、私が抱いたスクリーン上の妖精たちへの共感が、現実に弾圧されている少数民族に対する憐れみや同情へと開かれるのではなく、現体制の暗黙の支持へと物語的に滑り落ちていくことに、違和感を覚えずにはいられなかった。これはあまりにも「リベラル」すぎる見方だろうか。一党独裁の中国では受け入れられない価値観を押し付けているのだろうか(日本でも一般的とは言いがたいが)。そうかもしれない。しかし、本作を手放しで絶賛する声が多いことを考えると、私にはどうしても言うべきことのように思える。

 最後にもうひとつ、作品の細部についても書いておきたい。人間でありながら強大な術を駆使して並みいる妖精を圧倒し、畏怖と敬慕を集める無限は、まさに人間=観客の理想像である。彼は「多文化共生社会」の守護者であり、私たちの理想的なアバターとして配置されている。だが、法と秩序の執行者がこのように強力に、また魅力あふれる存在として描かれる点にも、どこかプロパガンダ的な匂いが感じられる。無限は、言ってみれば中国共産党の自画像のようなものだ。しかし、そうだとすれば、彼と対になる「悪人」もまた作中に登場させるべきだったのではないか。つまり、妖精を支配し、追放し、虐待する悪しき存在としての人間をこそ執拗に描くべきだったのではないか──少数民族自治区中国共産党が行っているように、とは言わないまでも。

 人間が無限のような善人だけではないことがわかれば、風息一派の正当性はもとより、無限と協力して彼らと対決する小黒の決断にももっと重みが出てくるだろうし、何より、観客が自分の罪を忘却して気持ちよくなることもない。実際、同じような多文化共生のテーマを扱った日本のアニメ作品、たとえばいま放送中の『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかⅢ』などには、しばしばこうした悪人が登場する。なぜ『羅小黒戦記』には悪人が出てこないのだろうか。それは、私たち多数派の人間が例外なく善良であると信じたい、それによって自分の罪を否認したいからではないか。繰り返しになるが、これはエンターテインメントとしては大正解である。プロパガンダとしてもそうかもしれない。しかし、アニメはその先まで行けると私は信じている。

 

 

追記:もうひとつの結末

 

 この記事を書き終えた後、『羅小黒戦記』を観て感じたことをもう一度自分のなかで反芻していたのだが、本作のテーマに深く関係する重要なポイントについて書き忘れていたことに気づいたので、ここに追記しておきたい。そのポイントとは、物語のクライマックスで無限と対決する風息が口走った、ある台詞である。正確な言い回しは覚えていないが、それは「小黒が自分たちに協力してくれる可能性もあった」という趣旨の台詞だった。この台詞は小黒本人によってただちに否定されてしまうが、しかし、現状肯定と体制維持へと収束する『羅小黒戦記』の「別の可能性」を暗示しているという点で、じつはきわめて重要な意味を持っていたのではないかと思う。

 風息は、無限の影響で人間との対立に懐疑的になった小黒の説得に失敗し、故郷の奪還という自らの目的のために、任意の空間を支配する小黒の力を無理やりに奪う。これによって風息は、それまで小黒と無限に寄り添って物語を追ってきた観客にとっての明確な「敵」となり、最終的な敗北へといたる。しかし、本記事にも記しているように、風息の主張そのものには十分な正当性があり、二人が最初に出会った経緯を考えても、小黒が無限ではなく風息に協力していた「世界線」を思い描くのはまったく難しくない。その世界では、おそらく小黒の能力によって風息の故郷が取り戻され、妖精の、妖精による、妖精のための「独立国家」が誕生していただろう。妖精の事実上の抑圧の上に成り立つ「多文化共生社会」とは異なる、オルタナティブな社会が実現していただろう。

 こうした「別の可能性」は、もしかしたらいまの中国社会ではタブーとされているのかもしれない。中国共産党による検閲で、そもそも発表することさえできないという事情もあるかもしれない。だが、物語がいよいよ現状肯定的・体制維持的な展開へとなだれ込んでいくなかで、それとは別の未来、別の世界を暗示する台詞が差し挟まれていることに、私はもっと早く気づくべきだった。たとえそれが、風息のたんなる負け惜しみにすぎなかったとしても、彼の思い描いたもうひとつの結末は、いわばフィクション内フィクションというかたちで、あるいは二次創作的な想像力というかたちで、私たち観客へとひそかに告げ知らされている。いまある現実とは別の、ありえたかもしれない可能性を、歴史=物語のなかで敗れていった者たちの夢として描き込むこと。私はそこに、中国のアニメ制作者の矜持が現れているように思う。