てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

アニメはひとを救わない:京都アニメーションに献花する

8月24日、放火事件のあった京都アニメーション第一スタジオに献花してきた。26日以降は献花台が撤去されるため、花を手向けることもかなわなくなる。 あの日、ぼくはパートナーの展示の搬入と設営のために脚立にまたがり、白い展示室のなかで悪戦苦闘してい…

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈2〉

テレビをつける。パソコンを開く。スマートフォンのロックを解除する。これらはいずれも、現代の情報環境下でアニメを見るための最初のステップである。これらの情報機器は私を取り巻く環境のなかに、日常という連続的な時間の流れのなかに、ひとつのモノと…

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈1〉

仕事や学校から帰宅し、遅い夕食をとりながらテレビをつけると、アニメが流れている。少年が運命的に少女と出会い、世界を救うための戦いに挑む。少女たちは学校の部室でたわいない世間話に花を咲かせる。TwitterをはじめとするSNSを開けば、アニメの感想を…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(11):仮象と遊戯

「初期言語論」でベンヤミンは、沈黙する自然を名づけることで、自然と人類との言語的・精神的共同性を打ち立てることを目指していた。これに対し「複製技術論」では、自然を名づけることに代えて、自然との「遊戯」という言い方が強調される。ここには、ど…

平和の少女像はかわいいか?

著名なアニメーター・漫画家として知られる貞本義行氏が、展示中止となった「表現の不自由展・その後」に出展されていた『平和の少女像』について、「キッタネー少女像」などとツイッターで発信し、物議を醸している。 キッタネー少女像。天皇の写真を燃やし…

あいちトリエンナーレで「平和の少女像」を見てきた・感想

あいちトリエンナーレの展示「表現の不自由展・その後」がネットで炎上している。 第二次世界大戦中の従軍慰安婦を表現した「平和の少女像」をはじめ、過去に美術展での展示を拒否されたり撤去された作品が集められているためだ。 ツイッターなどで検索する…

『天気の子』の見取り図

新海誠監督の最新作『天気の子』を見てきた。鑑賞者それぞれの感想に資するために、過去の「批評」や「評論」から使えそうな部分をピックアップし、かんたんにまとめておく。 すでに多くのひとが感想を述べているように、『天気の子』は、2000年代前半に一部…

フェミニズム以後のオタク2:「安全に痛い自己反省パフォーマンス」について

前回の記事の続きを書こうと思ったのは、いただいたコメントのなかに、自分でもなんとなく感じていた問題点、というより既視感を指摘したものがあったからだ。いわゆる「安全に痛い自己反省パフォーマンス」というものである。 teramat.hatenablog.com 安全…

フェミニズム以後のオタク

タイトルにつけた「フェミニズム以後」というのは、フェミニズムが終わったあとという意味ではない。そうではなくて、これはフェミニストによる批判を踏まえてなお、ひとがオタクであるとはどういうことか、どのようにあるべきか、という問いだ。 オタクであ…

『からかい上手の高木さん』とメタフィクション

2019年7月、『からかい上手の高木さん』2期の放送がスタートした。これは山本崇一郎が『ゲッサン』で連載中の漫画を原作としたテレビアニメだ。 『からかい上手の高木さん』の構造はきわめてシンプルかつミニマルで、女子中学生の高木さんがクラスメイトの西…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(10):沈黙する自然を翻訳する

事物は人間のように音声言語によってではなく、魔術的・物質的共同性によって自己を伝達し合う。これが自然の沈黙であり、他方でベンヤミンによれば、この沈黙する自然を人間において音声言語へといたらせること、つまりは名づけることが、人間に課せられた…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(9):初期言語論における自然の沈黙

ベンヤミンが目指す自然と人類との共演は、自然に言語を与えることと言い換えられる。これはどのような事態を指すのだろうか。彼は1916年に書いた「言語一般および人間の言語について」(以下「初期言語論」)のなかで、きわめて神学的・形而上学的な言語論…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(8):自然に言語を与える

現代の高度な科学技術を「第二の技術」として社会に内蔵し、自然と人類との調和的な共演を実現すること。これがベンヤミンのいう生産力の自然な利用であり、革命の最終目標とも言うべきものだった。 このように述べるとき、さしあたってベンヤミンの念頭に置…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(7):第一の技術と第二の技術

政治の美学化は、戦争において頂点に達する。戦争は生産力の「不自然な」利用であり、これに対してベンヤミンは、生産力の「自然な」利用を目指している。 では、生産力の自然な利用とはどのようなものか。これを理解するうえで重要なのは、ベンヤミンが「複…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(6):戦争の美学

ファシズムは大衆にスペクタクルな表現を与え、記念碑的造形のための人間素材として呪縛する。ひとかたまりになった大衆は、階級認識と自己認識を欠いた集団へと変えられてしまう。 ベンヤミンは「複製技術論」のなかで、このような「政治の美学化」の臨界点…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(5):大衆をほぐすこと、あるいは芸術の政治化

党大会に動員され、総統の前で「かたまり」となる大衆。ベンヤミンはそのような現象を彫刻的なメタファーでとらえ、「ファシズム的芸術」と呼んだ。それは「人間素材」としての大衆を、「記念碑的造形」へと彫刻することを意味する。 ベンヤミンは「複製技術…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(4):ファシズム芸術と大衆の彫刻

政治の美学化は、ナチスの党大会に代表されるような「大衆の表現」によって実現する。ベンヤミンは「複製技術論」の第二稿と同年に発表した「パリ書簡〈1〉――アンドレ・ジッドとその新たな敵」(1936年、以下「パリ書簡」)のなかで、そうした大衆のあり方を…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(3):ファシズムと大衆の表現

これまでの繰り返しになるが、ベンヤミンがコミュニズムによる「芸術の政治化」を主張したのは、ファシズムによる「政治の美学化」に対抗するためだった。とすれば、ファシズムの戦略についての彼の分析を参照することで、コミュニズムに期待していたものを…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(2):集団的身体における自然との共演

前回述べたとおり、ベンヤミンはファシズムによる「政治の美学化」に対抗するために、コミュニズムによる「芸術の政治化」を主張していた。けれども、彼はその具体的な中身についてほとんど説明していない。ベンヤミンが「芸術の政治化」に直接言及している…

ヴァルター・ベンヤミンと映画の神学(1):「複製技術時代の芸術作品」における内部分裂

20世紀ドイツの思想家・批評家として知られるヴァルター・ベンヤミンは、1936年に「複製技術時代の芸術作品」(以下「複製技術論」)と題された有名な論考を発表している。この論考の末尾でベンヤミンは、ファシズムが進める「政治の美学化」に対して、コミ…

多層化するスーパーフラット(5.0):起源の暴力を乗り越える

村上がスーパーフラットを発表した当時、批評家の椹木野衣は、スーパーフラットという概念それ自体というよりも、展示された作品から受ける触覚的印象と、あらゆる文化現象を等価なものとして扱うパフォーマティブな側面に注目し、それを戦後の日本社会と重…

多層化するスーパーフラット(4.0):藍嘉比沙耶とレイヤーの理論

2018年10月から放送されているアニメ『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』(以下『いもいも』)の「作画崩壊」がネットの話題をさらった。とくに注目を集めたのは、キャラクターがしゃべっている口元だけが顔から分離し、宙に浮かんでいるという前代未聞の…

多層化するスーパーフラット(2.1)

村上の「スーパーフラット」概念に対する、理論的側面からの包括的な批判は、日本の現代美術とはかなり異なる文脈から現れた。アニメ研究者のトーマス・ラマールは、宮崎駿をはじめとする現代日本のアニメについて論じた著書『アニメ・マシーン』(2013年)…

多層化するスーパーフラット(1.1)

「スーパーフラット」という概念を提唱したのは、周知のように、日本を代表する芸術家のひとりである村上隆だ。いまからおよそ20年前、村上は江戸時代の屏風絵から現代のアニメや漫画のワンシーンまでを一堂に集めた「スーパーフラット展」を開催した。 同展…

多層化するスーパーフラット(0.1)

美術評論家の松井みどりは、2003年に発表した論考のなかで、村上隆の「スーパーフラット」概念を再検討しつつ、その理論的更新の必要性を指摘している。松井がキュレーターを務め、2007年に水戸芸術館で開催された「夏への扉――マイクロポップの時代」展は、…

無意識をアニメートする:『リズと青い鳥』と微小なものの超越性

2018年4月に公開された京都アニメーション制作の映画『リズと青い鳥』は、監督・山田尚子と脚本・吉田玲子のコンビが手がけた、4作目となる劇場用アニメ作品である。同作はテレビアニメ『響け!ユーフォニアム』シリーズ(2015−2016)のスピンオフだが、登場…

小林さんちのシン・ゴジラ

今期は『けものフレンズ』がツイッターやまとめサイトを大いに賑わせているが、同時期に始まった京都アニメーション製作の深夜アニメ『小林さんちのメイドラゴン』も負けず劣らずすごーいアニメだと思うので、見ていて思い浮かんだことを長々と書いてみよう…

日常生活の暗号解読術 :『たまこまーけっと』と無意識のポリローグ

※ブログだと長くて読みづらいのでPDF化しました。 https://drive.google.com/file/d/0B8CxLP7a5iXoMHh3VUl5VXN0R1U/edit?usp=sharing 〈1〉 商店街という言葉には、どこかノスタルジックな響きがある。 それはアーケードに反響する買い物客のざわめくような…

武装する日常系アニメ vs 幼女ファシズム?:《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》要点まとめ #日常系ソフトコア

3月9日(日)に《しんぽじうむ!日常系アニメのソフト・コア》というゆるふわパネルディスカッションを開催しました。 シンポジウムでの議論の要点を自分なりにまとめてツイートしていたのですが、映像アーカイブの保存期間が過ぎたこともあり、備忘録をかね…

分身の不在、幽霊の視線:『おおかみこどもの雨と雪』について

細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』が、2012年を代表するアニメ映画のひとつであることに疑問の余地はないだろう。この作品は「おおかみおとこ」である夫を事故で失った未亡人の花が、二人の「おおかみこども」(雨と雪)の子育てに悪戦苦闘する物語で…