てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で成仏できない人のために

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 これは2012年に放送されたアニメ『キルミーベイベー』のファンが、放送終了後にネット掲示板に書き込んだとされる有名なアスキーアート(AA)だ。たんなる自虐的な冗談のようにも見えるが、実のところフィクションというものの本質を突いたきわめて鋭い警句ではないかと思う。アニメは終わる。そして私たちはそのたびごとに、自分の人生と向き合わなければならない。

 先日封切りされた『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン・エヴァ』)は、まさにこのAAどおりの結末を迎えた。人類補完計画を発動した父・ゲンドウとの対話の末、彼を含めレイやアスカ、カヲルなどをそれぞれの居場所へと送り出したシンジは、エヴァンゲリオンの存在しない世界を創り出し、マリとともにこの“現実”へと駆け出していく。アニメではなく実写で撮られたラストシーンには、いまや彼らと同じ世界を生きる私たちへのエールが込められているようにも見える。今度は君たちが自分の人生と向き合うときだ──作中でシンジがそうしたように、と。

 テレビシリーズから20年以上を経て、名実ともに「エヴァ」は完結した。1990年代のテレビ放送時から追いかけてきたような古参ファンにとっては、人間的に大きく成長したシンジの姿に感慨もひとしおだったにちがいない。ツイッターなどではすでに「大傑作」との呼び声も高く、完結を長年待ち続けてきた亡霊のごときファンが“成仏”したとの報告も多数ある。だが、私自身は成仏どころか、しばらく途方に暮れてしまった。自分の人生と向き合うにあたって、シンジの生き方はほとんど参考にならないように思えたからだ。

 前作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)には、このシリーズを見続けているあいだに法律上の大人になってしまったファンを意識したと思われる奇妙な設定が登場する。それが「エヴァの呪縛」だ。エヴァンゲリオンパイロットであるシンジやアスカ、レイ、マリは作中で10年以上の月日が流れているにもかかわらず、この「呪縛」によって肉体的にまったく成長しない。他方で、彼ら以外のキャラクターは相応に年を重ね、内面的にも外見的にも変化している。この設定は『シン・エヴァ』にも引き継がれ、シンジの同級生だったトウジやケンスケが立派な大人になって再登場する。

 これは明らかに、いつのまにか大人になってしまったが、いつまでも“大人”になりきれない一部の(私のような)ファンを意識したものだろう。トウジはニアサードインパクトを生き延び、結婚して子供をもうけ、いまは村医として人々のために働いている。ケンスケも村の「なんでも屋」としてインフラのメンテナンスなどをしながら、シンジやアスカの一時的な保護者役を買って出る。彼らとシンジとのあいだの精神的・肉体的なギャップは、辛い目に遭うたびに引きこもってしまう彼の、そして私の未成熟さを容赦なくあらわにする。

 ここにはひとつのスタンダードな“大人”像、つまりは成熟のモデルが示されている。家族やコミュニティの一員としての役割と責任を引き受けることだ。もちろん、トウジやケンスケのような生き方がすべてではないし、これとはまったく別の成熟のかたちもありうるかもしれない。けれども、結局のところ『シン・エヴァ』では、オルタナティブな成熟のあり方はほとんど示されていなかったように思う。物語の後半で立ち直ったシンジは、自分の、そして父のやったことに決着をつけるために再びエヴァンゲリオンに乗る。これは言い換えれば、「この父の子供」としての役割と責任を自ら引き受けるということでもある。

 私も多くのファンと同様、シンジの成長を心からうれしく思っている。だが、それはもはや私個人とはなんの関係もない、ひとりのフィクショナル・キャラクターに対する感慨にすぎない。すべてのエヴァンゲリオンを消し去った後、真新しいスーツ姿でマリの手をとり、神木隆之介の声で歯の浮くような台詞を口にするシンジに、私は少なからずショックを受けた。こんな、最近の新海誠映画のパロディのようなシーンが、あの「エヴァ」の結末なのか。シンジとマリが結ばれること自体には何も文句はない。ただ、社会や他者への違和感など微塵も感じさせず、ふたりで手をつないで“現実”の世界を軽やかに駆けていく彼らの姿が、どうしようもなく遠くに感じられてしまったのだ。

 もちろん、シンジ本人にとってはそれこそが幸せなのだろう。トウジやケンスケのように順調に“大人”になれた多くのファンにとっても、そうかもしれない(だからこそ『シン・エヴァ』を見て“成仏”できるわけだ)。しかし、相変わらず「エヴァの呪縛」にとらわれた一部のファンは、シリーズの完結によって解放されるどころか、むしろますますがんじがらめになっていく。トウジやケンスケは言うまでもなく、もはやシンジのように生きることさえかなわない。「槍」を持たない私たちに、人生をやり直すことなんてできない。定型的な成熟を阻む「呪縛」は、もう手の施しようがない深みまで浸透してしまった。それほどこの年月は長く、重い。

 先に「シンジは参考にならない」と書いたのは、このような理由による。私たちには、というより私には、彼とは別の仕方で“大人”になるための、あるいは大人とは別の何者かになるためのオルタナティブな回路が必要なのだ。そして、その手がかりはシンジではなく、彼の父にしてすべての元凶でもあるゲンドウのほうにあるように思う。

 亡くなった妻と再会するためだけに躊躇なく人類全体を巻き込み、人間すらやめてしまうゲンドウこそ、完結してなお「エヴァの呪縛」にとらわれ続ける私(たち)の似姿ではないか。かつてのシンジと同じく、いやそれ以上に他者を恐れ、わが子にさえおびえる彼は、唯一の理解者だった妻の喪失をいつまでも受け入れることができない。結局、ゲンドウはシンジとの対話を通じて彼のなかに妻の存在を見いだし、彼女の魂が封じられたエヴァンゲリオン初号機とともに自らを槍で貫く。

 これがもうひとつの成熟の可能性なのかと言われれば、もちろんそんなことはない。最後まで他者を拒み、妻に依存していた身勝手な男が、周囲にさんざん迷惑をかけたあげく自分の子供に尻ぬぐいをさせるという、およそ褒めるべきところのない事例にすぎない。むしろ私(たち)がここから学ぶべきなのは、どうしたらゲンドウにならずに済むかということであり、そして万一なってしまったら、自分の子供=シンジなしでどうやって自分を救うかということだ。

 少なくとも私の見るかぎり、シンジの物語である『シン・エヴァ』にこの問いの答えはない。だが、たとえば新海誠監督の『秒速5センチメートル』(2007)などは、同様の問題に真正面から取り組んでいる。もう戻らない日々、もう会えない人々をうらやみ嘆くのではなく、その記憶こそをかけがえのないものとして保持し、喪失の経験を含めて自らの生を肯定すること。それが成熟のありうべき別のかたちと言えるのかどうかはわからない。しょせんナルシシスティックな自己憐憫にすぎないのかもしれない。けれども、たぶんそうやって私(たち)は、自分で自分の「呪縛」を少しずつ解いていくしかないのだ。

エヴァ」は完結した。いくら呼んでも帰ってこない。もうあの幸せな時間は終わって、次のアニメが始まるまでのあいだ、私も自分の人生と向き合わなければならない。シンジになれなかった私にとって、それは相変わらず途方に暮れるほかない代物だったが、それでも『シン・エヴァ』を見終わった後の人生が、以前よりもほんの少し明るく、色づいたものになっていてほしいと願っている。

 

 

 

 

未成熟さの倫理──2020年私的ベストアニメ『継つぐもも』について

 2020年も膨大な数のアニメが放送されたが、個人的に最も印象に残ったのは、浜田よしかづ原作の『継つぐもも』だった。もちろん、私が通して見ることのできたアニメの数などたかが知れているから、もっと評価されるべき作品を見落としている可能性は大いにある。それでも、『継つぐもも』が私にとっての2020年ベストアニメである事実はおそらく揺らがないだろう。

『継つぐもも』は2020年4月から1クール放送されたアニメで、前作『つぐもも』(2017)の2期目にあたる。本来ならもっと早く、できれば放送中か放送終了直後には文章化したかったのだが、自分のなかでうまく消化できず、気づけば放送開始から1年近くが過ぎてしまった。このままではいつまで経っても書けないと思い、当時の印象が薄れる前に備忘録を兼ねてブログに上げることにした。なお、以下では『継つぐもも』の詳細なネタバレが含まれるので、未視聴の方は注意してほしい。

 

『継つぐもも』が私にとって衝撃的だったのは、結論から言うと、物語の中盤と終盤がまったくつながっていないように感じられたからだ。もちろん、注意深く見返せばいたるところに伏線が張られているのだが、原作未読の状態でリアルタイムでアニメを追っていた私には、最終盤の展開は完全に予想の範囲外だった。視聴者のミスリードを誘うように巧妙にプロットが仕組まれており、私はそれにまんまとはまったというわけだ。

 さしあたって『つぐもも』は、主人公の男子中学生が、美少女の姿をした「付喪神」とともに地元の町にはびこる怪異を調伏する物語である。もともと主人公は怪異を生み出す「すそ(呪詛)」を集めやすい体質なのだが、母親の形見である着物の袋帯付喪神をはじめ、さまざまな美少女たちの助けを借りながら、町の平和を守る「すそはらい」として成長していく。勘のいい方ならすぐにわかるとおり、この作品は『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(2015~)などと同様、いわば典型的な「美少女獲得型成長物語」に分類される。人助けなどを通じた主人公の成長の「報酬」として美少女による(性的)承認が得られ、しだいにハーレムが形成されていくタイプの物語だ。実際『つぐもも』には、美少女から主人公への性的なアプローチが随所に描き込まれ、少なくとも男性視聴者にとっては大きな見どころのひとつとなっている。「学園で伝奇で美少女山盛りな欲張りコメディ」というのが、アニメ公式サイトのキャッチコピーである。

 じつを言うと、私も『継つぐもも』を見始めたのはほとんどエロシーン目当てだった。そういえば『つぐもも』1期はちょっとエロかったな、というおぼろげな記憶を頼りに、当時不足気味だったエロ成分を摂取するためにdアニメストアで視聴を開始した経緯がある。とはいえ、刹那的な動機にもかかわらず視聴を継続することができたのは、エロ要素はもちろん、物語の構造自体がかなりしっかりしているように感じられたからだ。

つぐもも』1期ではもっぱら主人公の「すそはらい」としての成長のみを取り上げていたが、2期では付喪神と人間との複雑な関係に焦点を当て、道徳的な葛藤が生じるようなプロットが組まれていた。人間に虐待された過去を持ち、「迷い家」と呼ばれる隠れ家でひっそりと暮らしていた付喪神たちが、自らの共同体を維持するために主人公の暮らす町の土地神を襲い、その力を奪おうと計画するのだ。一見してわかるとおり、この設定は明らかにイスラエルパレスチナの領土問題をモデルにしている。虐げられ放浪する付喪神ユダヤ人が、現地の住民=アラブ人を犠牲にするかたちで自らの国家を打ち立てようとするわけだ。それなりによく考えられた構成である。

 この土地神は訳あって幼女の姿をしたロリ美少女で、当然主人公側のハーレムの主要メンバーなのだが、当の主人公は迷い家側から送り込まれたスパイとも仲良くなり、陰謀の渦中に巻き込まれていく。やがて相手の目的と動機を知った主人公は、おそらく彼らの謀略を阻止しつつも、たんに敵として殲滅するのではなく、なんとか共存する道を探ろうとするだろう。なぜなら、それこそが現代社会において道徳的に望ましい態度だからであり、視聴者の多くが期待している展開でもあるからだ。事実、私もそういう物語展開を予想していた。たとえば、人間不信の迷い家付喪神に対し、主人公とパートナーである帯の付喪神との固い絆を見せることで、人間にも信頼に値する者がいることを示し、彼らを一種の「移民」として町に受け入れる──といった具合である。先に挙げた『ダンまち』3期は、こうした王道展開をきれいになぞっている。

 ところが、『継つぐもも』はそうはならなかった。物語の最終盤で、事態はまったく明後日の方向へと展開していくことになる。

 

『継つぐもも』最終話直前の11話で、迷い家はついに主人公の町に総攻撃を仕掛ける。ところが、土地神が町にかけていた結界を解き、ロリ美少女から大人の姿となって本来の実力を発揮すると、あっさり勝負はついてしまう。これで一件落着かと思いきや、迷い家のリーダーは相手方に協力していた謎の美少女二人組に背後から刺されて力を奪われ、黒い球体のなかから死んだはずの主人公の母親が現れる。

 この時点で「は?」という感じなのだが、じつは彼女たちの狙いは土地神による結界の解除そのもので、その隙を突いて母親を復活させるために迷い家に協力していたらしい。つまり、パレスチナ問題を彷彿させるそれまでの物語構造そのものが、視聴者もろとも作中のキャラクターをまるごと「釣る」ための壮大な「疑似餌」にすぎなかったのだ。

 混乱する主人公に対し、土地神は彼の母親にまつわる重大なエピソードを明かす。この母親はかつて主人公自身が生み出した強力な怪異に取り憑かれ、わが子を殺そうとしたところを、もとは母親のパートナーだった帯の付喪神と土地神によって阻止・撃退されたのだという。このあたりの事情は1期でもひそかに暗示されていたようなのだが、主人公は記憶を封印されており、私もまったく覚えていなかった。おそらく原作未読の視聴者は全員同じだろう。

 亡き母親を慕っていた主人公は案の定、ショックで茫然自失状態になる。そのうえ、母親に取り憑いた怪異は主人公が生み出したものであるため、彼自身が倒さなければ町全体を破壊するほどの巨大な災厄、「すそがえし」が起きてしまうのだという。要するに、主人公は自分を殺そうとしてくる母親を、自分の手で殺さなければならないのだ。さもなければ、自分の命はもとより、これまで築き上げてきた美少女ハーレムもすべて失われてしまうだろう。

 これはある意味で、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)冒頭の「エヴァに乗れ」と同じくらい理不尽な状況である。しかも厄介なことに、ゲンドウと違って筋が通っている。ちなみに、母親役の声優はミサトさんと同じ三石琴乃で、軽いノリもどこか共通している。

 だが真に絶望的なのは、突然父殺しならぬ「母殺し」を課せられたことではなく、この母親がめちゃくちゃ強いということだ。最終話でリーダーの敵討ちを挑んだ迷い家の残党を瞬殺すると、主人公を除くほぼ全員を相手に渡り合い、ひとり残らず戦闘不能にしてしまう。これまでハーレム要員としてお世話になってきた美少女たちが次々とやられ、土地神にいたっては目の前で殺されるというショッキングな展開に、主人公と私のメンタルはボロボロである。それでも、ようやく覚悟を決めて母親に立ち向かうものの、案の定まったく歯が立たない。そしてついにとどめを刺されかけたとき、パートナーである帯の付喪神が身を挺して主人公をかばい、彼の代わりに串刺しになって死ぬ。

 

 私の受けた衝撃の大きさが少しでも伝わっただろうか。主人公が最終話でメインヒロインに殺されるアニメは心当たりがあるが、メインヒロインが最終話で主人公の母親に殺されるアニメというのは見たことも聞いたこともない。もちろん、死ぬといっても彼女は付喪神だから、血まみれの死体が転がるわけではなく、バラバラに切り刻まれた着物の帯が風に舞うだけだ。それでも、12話(1期も含めれば24話)をかけて追ってきた物語の幕切れが、主人公ならずとも愛着のある美少女たちの惨殺というのは、さすがに予想の範疇を超えている。ましてや、物語の最終盤までそんな気配を一切感じさせない確信犯的な構成である。いったいどのあたりが「学園で伝奇で美少女山盛りな欲張りコメディ」なのか。コメディ要素ゼロどころか、最終的にマイナスに振り切っている。

 とはいえ、私が『継つぐもも』を高く評価するのは、たんにこの作品がショッキングな結末を迎えたからではない。そうではなく、そのショックには相応の「意味」が見いだせるように思われるからだ。『継つぐもも』最終盤の展開は、言ってみれば、きわめて自己批評的な試みとして理解することができる。

 

 先に私は『つぐもも』について、よくある「美少女獲得型成長物語」と形容した。これは1期および2期の11話までは完全に当てはまる。しかし、2期の最終話は明らかにそうではなかった。むしろ「美少女獲得型成長物語」に対する強烈な自己否定、というより自己批評として機能している。主人公がせっかく築き上げてきた美少女ハーレムが、彼自身の母親の手によってなすすべなく破壊されてしまうからだ。

 しばしば指摘されることだが、男性向けフィクション作品によく見られるこうしたハーレム構造は、男性主人公の母親的なものへの依存と関係しているといわれる。どんなときも主人公を献身的に支え、惜しみない(性的)承認を与えてくれる美少女たちのあり方に、わが子を溺愛する母親の姿が重ねられているわけだ。いささか露骨な言い方をすると、そこでは「セックスできる母親」こそが欲望されている。実際『つぐもも』では、すでに述べたとおり、メインヒロインは母親の形見の帯の付喪神であり、主人公に対してたびたび性的なアプローチを仕掛けつつも、同時に「すそはらい」として未熟な主人公の保護者役も務めている。そこに母親的なものの影を見ないでいるのは難しい。

 ともあれ、私はこうした作品の視聴者が、母親との潜在的な近親相姦願望を抱いていると言いたいわけではない。そうではなく、母親を想起させるほどの美少女による全面的な承認が、主人公の「成長」を駆動していることに注目したいのだ。そもそもハーレムが成立するためには、主人公がヒロインたちから慕われ、ケアされるにふさわしい存在でなければならない。そのために彼は、たとえば人助けなどを通じて自らの道徳的な正しさを証明し続けなければならないだろう。かくして「主人公の成長」と「美少女の獲得」は一体化し、後者が前者の動機ないし目的として機能し始める。つまり「美少女獲得型成長物語」とは、男性主人公がもっぱら美少女による承認を得ることで、あるいはそれを得るために人間的に成長していく──すなわち「ヒーロー」になる──物語類型のことなのだ。

 しかし、これは言い換えると、男性主人公が物語のヒーロー足りえるのは、母親代わりの美少女たちから無条件の承認を与えられているおかげであり、またそのかぎりでしかない、ということでもある。よく知られているように、批評家の宇野常寛は、こうした依存構造を「母性のディストピア」と呼んで激しく批判した。主人公の成長といっても、結局は母親の胎内でまどろんでいるだけであり、美少女たちにかしづかれる「矮小な父」を演じているにすぎないのだと。

 宇野の批判をどう受け止めるにせよ、多くの「美少女獲得型成長物語」が彼の指摘するような構造を備えているのは間違いない。だからこそ、こうした物語構造に自覚的な作品、たとえば先に挙げた『エヴァ』では、最終的に主人公の母親のクローンであるレイではなく、まったき他者としてのアスカとの共生(不)可能性が提示される。相変わらず美少女頼みではあるものの、主人公に幼児的な全能感を与えて物語のヒーロー足らしめる「母胎」の外部へと脱出することが目指されるのだ。

 

 このような文脈に当てはめると、『継つぐもも』もまた、美少女ハーレムをあえて解体することで、類型的な「美少女獲得型成長物語」を更新しようとする試みであることがわかる。そしてこの作品がユニークなのは、母親的なものと関連づけられることの多いハーレムを、主人公と関係のない第三者によってではなく、彼の母親自身の手で破壊させていることだ。これは宇野の言う「母性のディストピア」の正当な表現にも見えるし、またそこからの逸脱にも見える。いずれにせよ、そこでは「母親」という語の持つ意味が反転、あるいは二重化されている。母親とは、たんに無条件の承認を与えてくれる都合のいい女性などではない。そうではなく、しばしばわが子に過剰な役割や期待を背負わせ、趣味嗜好を規制し、子供の人生そのものを呪縛する「ラスボス」的存在でもあるのだ。

 これはある意味で極端な母親像であり、どの程度共感できるかは視聴者の家庭環境にもよるだろう。だが「家父長」という言葉とは裏腹に、家庭内では往々にして母親こそが子供に対して強権的に振る舞う傾向があるように思われる。もちろん、これは多くの場合、彼女が男性中心的な社会から排除され、家庭内で家事・育児を引き受けさせられる性差別的構造によるものであり、フェミニストなら母親のほうが被害者だと言うかもしれない。しかし、子供の側からすると、母親の承諾を得なければ好きな漫画やアニメ、ゲームに触れることさえできず、さらにエロ方面への興味関心にいたっては厳しく検閲されるわけだから、父親よりも母親のほうが「権力者」に見えたとしてもおかしくない。母親を物語のラスボスに仕立てることは、必ずしも不自然な展開ではないのだ。

 かくして『継つぐもも』は、先に見たような「美少女獲得型成長物語」への批判を換骨奪胎し、より強固な「成長物語」へと止揚することができる。美少女ハーレムを揶揄するために用いられていた「母性」や「母胎」といった語は、当の母親自身がヒロインたちを容赦なく殺害することで、メタファーとしての効力を停止してしまう。母親がわが子を殺そうとする以上の「母性のディストピア」など存在しうるだろうか。しかし、これは逆に言うと、主人公がラスボスとしての母親を打倒しさえすれば、この新たな「ディストピア」から脱出できるということでもある。実際『継つぐもも』最終話では、主人公はメインヒロインのなきがら(帯の切れ端)を抱えて一晩泣き明かした後、晴れやかな表情で母親を倒すための修業に出る。つまり、しばしば「美少女獲得型成長物語」の批判的乗り越えとして提示される「母親的なものの否定」という選択肢を、まさにその「美少女獲得型成長物語」のなかで反復し、主人公の新たな「成長」の動機として再設定しているのだ。これこそが先に『継つぐもも』を「自己批評的」と形容した理由であり、また個人的に高く評価する理由でもある。

 もちろん、宇野や彼の支持者はこの展開に納得しないだろう。そこでは結局のところ、美少女からの承認に依存した男性主人公のあり方は何も変わっていないし、それどころか母親を倒すために、あるいは倒すことで美少女ハーレムがより強固なかたちで復活する可能性のほうが高いからだ。事実、原作の続きはまさにそういう経過をたどっている。にもかかわらず、この作品に対して「母性」や「母胎」といった母親由来のメタファーによる批判はもはや成立しない。主人公はまさにその母親にパートナーを殺されたのであり、母親を倒すためにこそ修業に明け暮れるのだから。

 

 このように『継つぐもも』は、主人公の母親に美少女ハーレムを一度破壊させることで、ハーレム構造へのよくある批判を無効化しつつ、それを新たに意味づけ直す。主人公の母親代わりというよりも、むしろ母親を打倒するためにこそ必要とされる構造として正当化するのだ。しかし、そもそも男性向けフィクション作品における美少女ハーレムは、それほど道義的に許されないものなのだろうか。私は必ずしもそうではないと思う。

 たしかに、美少女による承認に依存しながらヒーローを演じる男性主人公のあり方は、本来あるべき(とされる)「成熟」や「自立」とはほど遠いのかもしれない。あるいはそれらの不可能性そのものから目を背けているのかもしれない。『つぐもも』をはじめとする「美少女獲得型成長物語」の男性主人公の多くは、たいがいの視聴者と同様、軟弱で、鈍感で、優柔不断であり、ヒロインの助けがなければひとりでは何もできない。そのくせ、何人もの美少女たちに囲まれてちやほやされ、ときに世界を救うヒーローとしても活躍するのだから、心ある人の目には欺瞞的に映るのもよくわかる。主人公の成長と言っても、結局は新たな美少女を獲得するための聞こえのいい方便にすぎず、女性にモテたい、ヒーローになりたいという男性の幼稚な欲望の受け皿として消費されているだけなのではないか、というわけだ。

 こうした批判はまったく正当なものに思われるし、先に述べたとおり私自身、エロシーン目当てで『継つぐもも』の視聴を始めたことも事実である。だが、それがもっぱら男性視聴者の欲望に奉仕するためのたんなるポルノグラフィにすぎないのかというと、おそらくそうではない。そこには少なくともひとつ擁護されるべき重要なポイントがある。そのポイントとは、自分とは異なる他者や非人間に対するアニミズム的/フェティシズム的感受性とでも言うべきものだ。

 

「美少女獲得型成長物語」の男性主人公の大半は、美少女による承認に依存した見せかけのヒーロー、宇野の言い方では「矮小な父」にすぎない。しかし、これらのフィクション作品において重要なのは、彼らがむしろその矮小さ、卑小さのゆえに、他者の苦痛にやすやすと共感し、手を差し伸べることができるということだ。こうした主人公は、自分が常日頃ハーレムの美少女に助けられ、支えられているからこそ、他者を救うことにためらいがない。しかも多くの場合、ここで言う「他者」には、たとえば人間と敵対する魔物や怪物など、広く人間以外の生物・無生物一般が含まれる。幼い子供が傷ついた動物を家に拾って帰るように、彼らは相手が何者であろうと、目の前で苦しんでいる存在を決して見捨てない。たとえその結果、自分が面倒な状況に追い込まれるとしても、である。これはきわめて倫理的な態度ではないだろうか。美少女ハーレムに依存する主人公の未成熟さこそが、言ってみれば、他者への共感・共生の可能性の条件として機能しているのだ。

 もちろん、これに対してその偽善性を指摘することはできる。かつて「泣きゲー」と呼ばれる男性向けアダルトゲームが批判されたように、結局は「かわいそうな美少女を救って気持ちよくなりたいだけ」ではないかと。しかし、相手が美少女だろうがなんだろうが、苦しんでいる人や困っている人に思わず手を差し伸べてしまうことに対して、つねに「道徳的に正しい」動機を要求するのは端的に間違っている。これは開き直っているわけではなく、こうした行為は思想家の東浩紀が述べているように、もっと本能的で衝動的な「憐れみ」の感情に突き動かされているからだ。そこには打算や下心はもちろん、政治的な友/敵関係をも超え出ていく「未成熟さの倫理」のようなものがある。

つぐもも』もまた、こうした男性主人公の系譜を引き継いでいる。だが、とりわけこの作品で注目すべきなのは、メインヒロインが人間ではなく付喪神であることだろう。モノに魂が宿ることで生まれる付喪神は、明らかに「ただの絵」に人格を見いだして興奮したり感動したりするオタクの振る舞いに対応している。男性向けフィクション作品はしばしばフェミニストから「女性をモノ化している」と批判されるが、おそらくこれは転倒していて、少なくともオタク向け作品に関しては、あらゆるモノを潜在的に美少女として、つまりは魂を持った存在として見ていると言うべきなのだ。そこではモノと人間との差異は必ずしも自明ではない。このアニミズム的/フェティシズム的感受性は、人間と非人間の境界をやすやすと超越し、たんなるモノに感情的にコミットすることを可能にする。そして、まさにこうした「未成熟」な感性こそが、自分とは異なる他者との共生可能性というきわめて現代的なテーマへと接続されていく。

つぐもも』が一貫して描いているのは、人間と付喪神の対等・平等な関係である。帯の付喪神の力を借りて「すそはらい」となる主人公は、人間ではない彼女に対して自分と対等どころか、格上のシニア・パートナーとして接する。さらに、付喪神をたんなる道具としてしか見ない人間と対決し、彼女たちが自分と同じ人格を持った存在であることを繰り返し強調する。そもそも主人公のハーレムを構成する美少女たちの大半は人間ではなく、付喪神や土地神、神の使いといった超常の存在であり、そこでは人間と非人間の区別が完全に失効している。他者との共生という一見リベラルな理念は、あくまでこの神話的な乱婚制の副産物として生じるにすぎない。だが、たとえそうだとしても、この未明の暗闇のなかにはたしかにある種の倫理のようなものが息づいている。それは定型的な成熟の可能性を奪われたこの国で、オタク的ファンタジーを通ってのみ到達しうるいびつな希望そのものだ。私たちはそれと知らずに、もうひとつの未来へと続く敷居の上に立っている。

 

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戦闘美少女とその敵:『ストライクウィッチーズ ROAD to BERLIN』『戦翼のシグルドリーヴァ』についての雑感

 2020年冬に放送されたアニメ『ストライクウィッチーズ ROAD to BERLIN』(以下『RtB』)と『戦翼のシグルドリーヴァ』(以下『しぐるり』)には、いくつかの共通点がある。どちらも「萌えミリ」と呼ばれる、美少女キャラクターとミリタリー趣味をかけ合わせた独特のジャンルの作品で、銃を持ち、あるいは戦闘機に乗った少女たちが正体不明の敵(ネウロイ、ピラー)と激しい戦いを繰り広げる物語だ。かつて精神科医斎藤環が「戦闘美少女」と名づけた形象の最新版である。

 この2つの作品を見ていて、個人的に気になった点がある。それは、これまでの「萌えミリ」作品と比べて、本来いなくてもいいはずの中高年男性キャラクターの存在感がかなり高まっているように見えたことだ。たとえば『ストライクウィッチーズ』シリーズでは、これまでも整備兵というかたちでしばしば無名の男性キャラクターが登場してきたが、今期の『RtB』では、戦闘美少女(ウィッチ)たちと比べて明らかに無能だが愛すべき上官として、白髪の男性司令官が重要な役割を担っている。また『しぐるり』では、戦闘美少女(ワルキューレ)たちが所属する基地の司令官はもとより、戦場で彼女たちの盾となる中年男性軍人のおどけた言動がしつこくクロースアップされ、ある種のコミカルな雰囲気を作品に与えている。だが、「戦う美少女を愛でる」という萌えミリ本来の趣旨からすれば、彼らは別にいてもいなくてもかまわない、というかむしろ邪魔な存在であるはずだ。私の記憶が正しければ、実際に『ストライクウィッチーズ』1期(2008)の終盤では、ウィッチの足を引っ張る悪役として中高年男性キャラクターが登場する。にもかかわらず、戦闘美少女を主役とするアニメで、彼らがにわかに活躍するようになったのはなぜだろうか。

 その理由のひとつとして、私は「後ろめたさ」があるのではないかと思う。年端も行かない少女ばかりを最前線で戦わせ、自分は安全なところからその様子を眺めていることへの、ある種の罪悪感のような感情だ。言うまでもないことだが、これはいささか不合理な感情である。そもそもこの少女たちは実在しない、ディスプレイのなかだけの存在にすぎないのだから。現実に誰かの命が失われかけているわけではまったくない。にもかかわらず、私たちはフィクションのなかで傷つき、死にゆく彼女たちに憐れみを感じる。人間の感情や情動は、現実の出来事によってだけではなく、しばしば想像によっても喚起されるからだ。

 そうだとすれば、世界のため、あるいは人類のために最前線に送られる戦闘美少女に、私のような男性オタクが奇妙な後ろめたさを抱くこともあるのではないか。というより、本来はそれが自然であるようにさえ思える。少女たちはときに祖国や仲間を失い、自分自身をも犠牲にしながら強大な敵に立ち向かう。そんな彼女たちを、私たちは──闘技場で殺し合う剣闘士に熱狂する古代ローマ市民のように──文字どおり見世物にし、食い物にしている。もちろん、古代ローマの剣闘士とは異なり、空飛ぶ戦闘美少女が現実に存在するわけではない。だが、たとえ彼女たちがフィクショナル・キャラクターにすぎないと知っていても、どこか後ろめたい気持ちを完全に消し去ることはできないだろう。

 これは制作側にとっては憂慮すべきリスクである。作品をエンターテインメントとして気兼ねなく消費してもらう妨げになりかねないからだ。そこで、視聴者の後ろめたさを解消するための装置が必要になる。この一種の安全装置として考案されたのが、おそらくは中高年男性キャラクターなのだ。彼らはしばしば私たち、とりわけ男性視聴者の声を代弁する。実際『しぐるり』では、中年の男性司令官が戦闘美少女に頼らざるをえないことを嘆き、自分の無力を悔やむような発言をしている。彼らは、そして私たちも、好き好んで少女たちを戦場に送っているわけではない。特別な力を持っているのが彼女たちだけだから、しかたなくそうしているにすぎない。だからこそ、ウィッチやワルキューレのような力を持たない中高年男性も、少女たちの盾として必死に戦い、ときには彼女たちをかばって自爆することさえいとわないのだ。

 彼らの活躍は、視聴者に「戦っているのは少女たちだけではない」というアリバイを与えてくれる。これによって私たちの後ろめたさは軽減され、安心して彼女たちの戦いを見守ることができる。私たちは相変わらず安全なところから眺めているだけだが、あくまで少女たちを「応援」しているのであって、食い物にしているわけではないと主張するだろう。いまや人類は一丸となって立ち向かわなければならず、そこに性別や年齢は関係ない。悪いのは人類の存続を脅かす「敵」であって、その意味で少女たちも私たちも等しく被害者なのだ──。

 しかしながら、本当にそうだろうか。これはもちろん、フィクションの鑑賞態度としては文句なく正しい。現実には誰も傷ついていない出来事に対して、倫理的な責めを負う必要はどこにもない。けれども、ありえないことだが、もし戦闘美少女が死に際にディスプレイの向こう側を目撃したとすれば、彼女はどう思うだろうか。自分も、いままで自分が戦ってきた謎の敵も、画面の外にいる「こいつら」が創り出したものであり、自分たちが必死で戦っているのを見て無邪気に喜んでいたと知ったら、ひどく幻滅し絶望するのではないか。それどころか、こいつらこそが自分たちを苦しめる真の敵だとさえ考えるかもしれない。要するに、私たちはたしかに戦闘美少女の「フィクショナルな敵」ではないが、より悪いことに「メタフィクショナルな敵」ではあるのだ。

 私たちが彼女たちに感じる後ろめたさは、そのひそかな徴候である。だからこそ、その感情を抑圧し隠蔽するためにさまざまな設定が用意され、本来は不必要な中高年男性キャラクターまで投入される。彼らは視聴者にとっての、いわば偽のアバター(分身)だ。しかし、これは逆に言えば、戦闘美少女という形象がもはや自明ではなくなりつつあることの証しなのではないか。なぜ私たちはこうも少女ばかりを戦わせたがるのか。人類を脅かす謎の敵を用意し、特別な力を与え、彼女たちを戦場へと送ることで、私たちはいったい何を守ろうとしているのか。おそらく多くの視聴者が、その答えになんとなく気づき始めている。ネウロイやピラーといったフィクショナルな敵は、少女たちに自己犠牲を強いる不公正な制度や構造、社会システムを温存し、メタフィクショナルな敵としての私たち自身から目をそらすためのハリボテにすぎない。少女たちが本当に戦うべき相手は、正体不明の人類の敵などではない。そうではなく、彼女たちが生贄にされるのを見て笑っている私たち自身なのだ。

 この隠されたメカニズムを主題的に暴露したのが、言うまでもなく『魔法少女まどか☆マギカ』(2011、以下『まどマギ』)である。視聴者のヘイトを集めた「キュゥべえ」は、少女たちを戦闘美少女(魔法少女)に変えて敵(魔女)と戦わせ、彼女たちが次第に消耗し絶望して魔女に変わってしまう、その際の感情エネルギーの回収を目的としていた。これはまさしく、少女たちが戦うさまを喜んで眺めている私たち視聴者そのものであり、だからこそ蛇蝎のごとく嫌われたのだろう。『まどマギ』が少女を犠牲にする魔法少女―魔女システムの根絶によって締めくくられるのは、多くの視聴者は自覚していないかもしれないが、生贄としての戦闘美少女を欲望する私たち自身への痛烈な批判でもある。

 それから10年が過ぎ、戦闘美少女はいまだに人類のために戦わされている。公平を期すために付け加えると、冒頭で挙げた作品のうち、とくに『しぐるり』は『まどマギ』とよく似た特徴を持っている。少女たちにワルキューレとしての力を与え、ピラーと戦わせる存在が、少なくともテレビシリーズでは真の敵であるらしいことが明らかになったからだ。この黒幕としての神「オーディン」は、幼い少年の姿で登場するが、彼こそがキュゥべえと同様、私たち視聴者の真のアバターであることは疑いえない。他方で『RtB』では、相変わらず正体も目的も不明の敵と交戦している。すべての作品が『まどマギ』を継承・発展させるべきだとはもちろん思わないが、もし『ストライクウィッチーズ』シリーズが続くのであれば、そして多少とも同時代的であることを望むのであれば、メタフィクショナルな敵をどのように作中に描き込むかが鍵になるだろう。

 私たちは「戦う美少女を愛でる」段階を過ぎつつある。その先にどのような展開が待っているのか、私にはまだわからないけれども。

良質のエンターテインメントか、体制のプロパガンダか ──『羅小黒戦記』についての考察

 先日、日本語吹き替え版が公開されて話題になっている映画『羅小黒戦記』(ロシャオヘイセンキ)を観てきた。もともとは2019年に中国で制作されたアニメ映画で、先に公開された日本語字幕版もSNSなどで評判になっていたから、個人的にとても楽しみにしていた。

 結論から言うと、私はこの中国産アニメ映画をたいへん楽しむことができた。ディズニーや日本アニメに負けずとも劣らない高度に洗練されたアニメーションが、日本とは微妙に異なった中国の文化背景や生活描写と違和感なくミックスされていて、ふだん日本の深夜アニメばかり観ている私にはとても新鮮に感じられた。とくにさまざまな「目」の表現によるキャラクターの豊かな表情と、ダイナミックな戦闘シーンの描き方には、日本アニメの色濃い影響がうかがえつつも、それをほぼ完全に消化して独自に進化させつつある中国アニメの勢いが現れているように思えた。

 しかしながら、この作品を楽しめたことが果たして本当によいことだったのかどうか、私には判断がつかない。というのも、『羅小黒戦記』の物語にはかなりきわどい、言ってしまえば中国共産党の「プロパガンダ」的な側面があるようにも感じられたからだ。そこで提示されていたのは、ある意味で徹底して現状肯定的・体制維持的な価値観だった。以下では、この点について私が感じたことをかいつまんで述べてみたい。なお重大なネタバレが含まれるので、未見の方は注意してほしい。

 さしあたって『羅小黒戦記』は、妖精と人間の共生可能性をめぐる物語である。主人公の妖精・小黒(シャオヘイ)は人間によって森から追い出され、同じく妖精である風息(フーシー)らに救われる。しかし、風息を追ってきた強力な術者である人間の無限(ムゲン)に捕まり、道中をともにするうちに、憎んでいたはずの人間やその社会への理解を深めていく。妖精たちは館(やかた)という独自組織を中心に人間と共生しているのだが、これに反発する風息らの一派は、小黒の秘められた力を利用して人間を駆逐し、故郷を取り戻そうと企んでいた。しかし、最終的に小黒は風息ではなく、無限をはじめとする館の勢力と協力し、風息一派を打倒することになる。これが『羅小黒戦記』のあらすじである。

 一見すると、この物語はたんによくできているだけではなく、政治的にも正しい(ポリティカリー・コレクト)ように思える。妖精の分離独立を唱える過激派を倒し、人間との共生を目指す穏健派が勝利する物語だからだ。いわゆる「多文化共生社会」のスローガンを地で行くような展開である。たいていの日本人を含め、それなりの教育を受けてきた現代人は、この結末におおむね満足するのではないかと思う。だが、ここには罠がある。

 まず確認しておくべきなのは、物語のなかですでに、妖精と人間の共生社会がある程度実現されているということだ。妖精たちは正体を隠して人間社会に溶け込み、あるいは人間の立ち入れない館で他の妖精とともに暮らしている。人間嫌いの妖精も少なくないが、それでも風息らのように人間と対決しようとする勢力はごく一部にすぎない。作中のこうした事情を踏まえると、風息一派の企みは、せっかく築いてきた共生社会を文字通り破壊するものとして映る。主人公が彼らを止めようとするのも、また観客がそれを応援するのも当然かもしれない。

 しかしながら、ここには重大な倫理的問題が隠れている。その問題とは、妖精と人間の共生社会が実現しているという前提そのものが、多数派である人間にとってきわめて都合のよいものであるということだ。そもそも妖精たちが人間社会に溶け込み、あるいは館というバーチャルな共同体で暮らしているのは、彼らが人間に住処を奪われ、そのように生きることを強いられたからである。人間には、つまり多数派である私たち観客には、妖精の居場所を奪ったという明確な「罪」がある。にもかかわらず、作中では妖精の側から現状を肯定的に描くことで、人間=観客を免罪してしまう。彼らだっていまの社会に満足しているんだからいいじゃないか、というわけだ。

 その一方で、風息らの目指す故郷の奪還は、手段はともかく主張としてはまったく正当であり、本来であれば人間社会の側が(妖精居住地を設けるなどして)適切に対応すべき事柄である。にもかかわらず、本作では彼らを同じ妖精に鎮圧させることによって、いまある社会を維持していくことが(私たち人間にとってはもちろん)妖精にとっても最善である、というメッセージを発してしまう。妖精の一方的な犠牲の上に成り立っている「多文化共生社会」を、ほかならぬ妖精の側から擁護させているのだ。これによって、人間=観客は安心して自分の罪を忘れることができる。妖精が住処を追われたのはたしかに不幸なことだったが、いまでは彼らも現代文明の恩恵を受けてそれなりに幸せにやっているらしい、よかったよかった──。『羅小黒戦記』を観終わったときのすがすがしい気持ちは、罪を赦された犯罪者のそれと同じである。

 このように言うと、たかがアニメに対して何を熱くなっているのか、と白い目で見られるかもしれない。実際、私自身もフィクションの解釈に倫理や道徳を過度に持ち込むのは好きではない。しかし、曲がりなりにも多文化共生をテーマとする作品が、最終的に多数派の免罪という結末にいたるのは、いささかグロテスクと言うべきではないだろうか。もちろん、エンターテインメントとしては完全に正しい。観客は自分の罪と向き合わずに済み、それどころか免罪までしてくれるのだから。この作品を「楽しめた」ことがよいことだったのかわからない、というのはこのような意味である。

 わざわざ言うまでもないことだが、本作の「妖精」という存在には、各地の少数民族をはじめとする中国社会の少数派が仮託されていると考えられる。その意味で『羅小黒戦記』には、中国の多数派の人々が自国の少数派をめぐる問題をどのように捉えているか、または捉えたいと思っているか、というきわめてアクチュアルな問いが含まれている。そして、この作品の出した答えは、多数派にとって都合のよい現状肯定と体制維持という、まさに中国共産党プロパガンダとも言うべきものだった。私はチベット自治区ウイグル自治区で実際に何が行われているのか、正確に知っているわけではない。報道されていることのどこまでが真実なのかもわからない。しかし、私が抱いたスクリーン上の妖精たちへの共感が、現実に弾圧されている少数民族に対する憐れみや同情へと開かれるのではなく、現体制の暗黙の支持へと物語的に滑り落ちていくことに、違和感を覚えずにはいられなかった。これはあまりにも「リベラル」すぎる見方だろうか。一党独裁の中国では受け入れられない価値観を押し付けているのだろうか(日本でも一般的とは言いがたいが)。そうかもしれない。しかし、本作を手放しで絶賛する声が多いことを考えると、私にはどうしても言うべきことのように思える。

 最後にもうひとつ、作品の細部についても書いておきたい。人間でありながら強大な術を駆使して並みいる妖精を圧倒し、畏怖と敬慕を集める無限は、まさに人間=観客の理想像である。彼は「多文化共生社会」の守護者であり、私たちの理想的なアバターとして配置されている。だが、法と秩序の執行者がこのように強力に、また魅力あふれる存在として描かれる点にも、どこかプロパガンダ的なにおいが感じられる。無限は、言ってみれば中国共産党の自画像のようなものだ。しかし、そうだとすれば、彼と対になる「悪人」もまた作中に登場させるべきだったのではないか。つまり、妖精を支配し、追放し、虐待する悪しき存在としての人間をこそ執拗に描くべきだったのではないか──少数民族自治区中国共産党が行っているように、とは言わないまでも。

 人間が無限のような善人だけではないことがわかれば、風息一派の正当性はもとより、無限と協力して彼らと対決する小黒の決断にももっと重みが出てくるだろうし、何より、観客が自分の罪を忘却して気持ちよくなることもない。実際、同じような多文化共生のテーマを扱った日本のアニメ作品、たとえばいま放送中の『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかⅢ』などには、しばしばこうした悪人が登場する。なぜ『羅小黒戦記』には悪人が出てこないのだろうか。それは、私たち多数派の人間が例外なく善良であると信じたい、それによって自分の罪を否認したいからではないか。繰り返しになるが、これはエンターテインメントとしては大正解である。プロパガンダとしてもそうかもしれない。しかし、アニメはその先まで行けると私は信じている。

 

追記:もうひとつの結末

 この記事を書き終えた後、『羅小黒戦記』を観て感じたことをもう一度自分のなかで反芻していたのだが、本作のテーマに深く関係する重要なポイントについて書き忘れていたことに気づいたので、ここに追記しておきたい。そのポイントとは、物語のクライマックスで無限と対決する風息が口走った、ある台詞である。正確な言い回しは覚えていないが、それは「小黒が自分たちに協力してくれる可能性もあった」という趣旨の台詞だった。この台詞は小黒本人によってただちに否定されてしまうが、しかし、現状肯定と体制維持へと収束する『羅小黒戦記』の「別の可能性」を暗示しているという点で、じつはきわめて重要な意味を持っていたのではないかと思う。

 風息は、無限の影響で人間との対立に懐疑的になった小黒の説得に失敗し、故郷の奪還という自らの目的のために、任意の空間を支配する小黒の力を無理やりに奪う。これによって風息は、それまで小黒と無限に寄り添って物語を追ってきた観客にとっての明確な「敵」となり、最終的な敗北へといたる。しかし、本記事にも記しているように、風息の主張そのものには十分な正当性があり、二人が最初に出会った経緯を考えても、小黒が無限ではなく風息に協力していた「世界線」を思い描くのはまったく難しくない。その世界では、おそらく小黒の能力によって風息の故郷が取り戻され、妖精の、妖精による、妖精のための「独立国家」が誕生していただろう。妖精の事実上の抑圧の上に成り立つ「多文化共生社会」とは異なる、オルタナティブな社会が実現していただろう。

 こうした「別の可能性」は、もしかしたらいまの中国社会ではタブーとされているのかもしれない。中国共産党による検閲で、そもそも発表することさえできないという事情もあるかもしれない。だが、物語がいよいよ現状肯定的・体制維持的な展開へとなだれ込んでいくなかで、それとは別の未来、別の世界を暗示する台詞が差し挟まれていることに、私はもっと早く気づくべきだった。たとえそれが、風息のたんなる負け惜しみにすぎなかったとしても、彼の思い描いたもうひとつの結末は、いわばフィクション内フィクションというかたちで、あるいは二次創作的な想像力というかたちで、私たち観客へとひそかに告げ知らされている。いまある現実とは別の、ありえたかもしれない可能性を、歴史=物語のなかで敗れていった者たちの夢として描き込むこと。私はそこに、中国のアニメ制作者の矜持が現れているように思う。

 

 

フィクションvs.フェミニズム:『宇崎ちゃんは遊びたい!』について

 2019年10月、日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボレーションした献血PRポスターがSNS上で「炎上」した。胸の大きさを強調した(しばしば「乳袋」と呼ばれる)衣装を身にまとった女性キャラクター(宇崎ちゃん)のイラストが、主にフェミニストから「女性を性的にモノ化している」と批判され、これに対してポスターを擁護したいオタクが反発するという、近年ではあまりにもよく見かけるようになった「フェミニストvs.オタク」案件のひとつである。この炎上自体はSNSを大いに賑わせたあと、ポスターの掲示期間終了とともにある程度沈静化したが、2020年8月現在も宇崎ちゃんと同じ体型だという女性アカウントがフェミニストと個別にやり合っていたり、宇崎ちゃんの大きな胸の形はリアルではなく男性の陰嚢と同じだ、という斬新な切り口で罵り合ったりしている。

 私自身は炎上当時、原作漫画を読んだことがなかったので、「これは女性の性的モノ化ではなく、むしろ胸の大きな女性をエンパワーメントするものだ(したがって問題ない)」という主張を唱えていた。大きな胸を誇らしげに突き出してみせる宇崎ちゃんの姿は、男性オタクの性的なまなざしに一方的にさらされるだけのたんなる「モノ」ではなく──あるいは「モノ」であると同時に──、もっと主体的で自立した存在として描かれているように思えたからだ。

 2020年7月、満を持してTVアニメ『宇崎ちゃんは遊びたい!』の放送がスタートする。相変わらず原作を読んでいない私は毎回とても楽しみに見ているのだが(声優さんの演技が大変素晴らしいと思う)、そのなかで、献血ポスター炎上問題をめぐるそれなりに重要そうな気づきを得たので、何番煎じかはわからないがここに記しておきたい。

 『宇崎ちゃんは遊びたい!』は、基本的に「ぼっち」とされるセンパイが、彼を慕う後輩の宇崎ちゃんから執拗にからかい半分のアプローチを受けるという構造になっている。例のポスターには「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか?」という挑発的なセリフが書き込まれていたが、アニメのほうも万事だいたいこの調子で、「センパイ、○○なんスか?」という宇崎ちゃんの「煽り」を受け続けるセンパイが、それに対して「うるせー」とかなんとか言いながら、結局は彼女のペースに巻き込まれていく様子がコミカルに描かれる。dアニメストアやニコニ動画でも配信しているので、未見の方はぜひ一度見てほしい。

 私がこのアニメを見てまず驚いたのは、宇崎ちゃんがどうやら自分の胸の大きさを自覚していないように見える、ということだ。宇崎ちゃんはしばしば、ちょうど胸の位置に「SUGOI DEKAI」とプリントされたラグランスリーブTシャツを着ているのだが、にもかかわらず、彼女の言動からは自分の胸が周囲の人とくらべてもいかに「でかく」、また男性からの性的なまなざしを集めやすいか、ということについての自己意識が欠落している(もしかしたらわざとそう振る舞っているのかもしれないが、そうだとすると、これは作品解釈上かなり重大な問題である)。この点で、例のポスターが「胸の大きい女性をエンパワーメントする」という私の主張はもろくも崩れ去ってしまった。残念ながら私は男性であり、いわば加害者側なので偉そうなことは言えないが、現実の胸の大きな女性がいかにそのことについて悩み、苦しんできたかを考えると、宇崎ちゃんの態度はまったく驚くべきものである。宇崎ちゃんのキャラクター造形には、彼女たちの苦しみに寄り添ったうえで、なおそれを自分の個性として力強く肯定してみせるという内面の屈託は感じられない。「SUGOI DEKAI」というコピーからは、むしろ、鑑賞者である男性オタクの性的なまなざしを「ネタ」として免罪するような意図さえ透けて見える。

 他方で、私がアニメを見て考えさせられたのは、宇崎ちゃんというよりもセンパイの描き方に対してだった。宇崎ちゃんに執拗につきまとわれるセンパイは、彼女に対して、基本的にたんなる大学の後輩か、せいぜい異性の友人として接しようとしている。言い換えれば、宇崎ちゃんを性的な対象としては見ていない、あるいは意識的にそう見ないようにしている。宇崎ちゃんのあまりにも天真爛漫な言動には、あからさまに性的な誘惑と受け取られかねないアプローチ(たとえば「センパイの家に泊まりたい」という発言など)が多数含まれており、センパイはその都度赤面したり動揺して口ごもったりする──そして鑑賞者はそれを見てニヤニヤすることが期待されている──のだが、それでも、彼は彼女をあえて邪険に扱うことで、性的な対象として見ることを一貫して拒否しているように見える(原作ではもっと仲が進展しているのかもしれないが、少なくともアニメではいまのところそうである)。要するに、センパイは例のポスター問題でフェミニストが批判するところの「女性の性的モノ化」を、なんとか避けようとしているように見えるのだ。

 これはかなり重要なポイントである。というのも、センパイというキャラクターはその言動を見るかぎり、フェミニズム的な価値観をある程度(完全にではないにせよ)内面化していると考えられるからだ。センパイは女性(宇崎ちゃん)を、自分の性的欲求を充足するためのたんなる道具や手段──つまりは性的な「モノ」──とはまったくみなしていない。それどころか、おそらく「女性の性的モノ化」を良くないことだと考え、意識的にそれを避けようとさえしている(たんに関心がないだけかもしれないが、少なくとも、彼の同期である金髪男性キャラのセクハラ発言とは対照的である)。宇崎ちゃんの大きな胸に思わず視線が行ってしまうことはあるが、センパイができるだけそういう目で彼女を見ないようにしているということは、実際に作品を見れば明らかである。だからこそ、すぐに二人が結ばれてめでたしめでたしとはならず、『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品自体がコメディとして成立する。

 逆にいえば、宇崎ちゃんは、センパイのそのようなフェミニズム的に正しい態度に挑戦する存在として描かれている。自分の胸の大きさを自覚せず、にもかかわらず「SUGOI DEKAI」などとアピールしてつきまとってくる小学生のような背丈の異性の後輩という設定は、現実的には(そういう体型の女性が実際にいるとしても)なかなか考えにくい。むしろ、宇崎ちゃんは徹底的にフィクショナルな存在であり、センパイが回避している「女性の性的モノ化」を積極的に促進するようなキャラクターとして造形されていると考えるべきだろう。つまり、彼女の「○○なんスか?」という煽りは、センパイに向けられたものであると同時に、フィクションからのフェミニズムに対する挑発でもあるのだ。

 このように考えると、例のポスターに対するフェミニストの批判は、まったく正当なものであるように思えてくる。そもそも宇崎ちゃん自身が、センパイのフェミニズム的な正しさを揺るがすためのフィクショナル・キャラクターなのだとしたら、当然、フェミニストは批判的に応答せざるをえない。彼ら/彼女らが見落としていることがあるとすれば(ポスターに描かれていないので仕方ないのだが)、少なくとも原作漫画やアニメには、宇崎ちゃんの「性的モノ化」への誘惑に耐える、あるいは受け流すセンパイというカウンターパートが存在することであり、さらにその様子をニヤニヤしながら眺める第三者としてのキャラクター(カフェのマスターとその娘)まで存在することだろう。例のポスターには、残念ながら、原作の持つこうした複雑な構造や文脈がまったく反映されていない。とくに問題なのは、宇崎ちゃんのアピールする相手がセンパイではなく、ポスターを見る鑑賞者自身になってしまっていることだ。

 アニメでも繰り返し強調されているように、鑑賞者はたんにセンパイに同一化するのではなく、宇崎ちゃんとのやりとりを第三者視点で「見守る」ことが期待されている。宇崎ちゃんが挑発するのはあくまでセンパイ相手であって、鑑賞者ではない。この構図にはフェミニズムに対するそれなりに辛辣な、屈折した見方がある。というのも、これは「女性の性的モノ化」を回避しようとするセンパイが、彼を挑発し誘惑し陥落すべく造形された宇崎ちゃんのような女性キャラクターに迫られても、果たしてフェミニズム的に正しい態度を維持できるのか──その顛末を鑑賞者はニヤニヤしながら眺めてほしい、というある意味で趣味の悪い実験だからだ。しかし、この趣味の悪さは『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品が、たんに「女性の性的モノ化」を肯定したり促進したりするためだけのポルノグラフィではない、ということの裏返しでもある。そこにはもっと高度な戦略がある。フィクションの力によってフェミニズム的な正しさを揺るがすという、悪趣味でしたたかな戦略が。

 

 

魚としての私たち──コロナ禍とアニメ、とくに『放課後ていぼう日誌』について

新型コロナウイルスの感染拡大にともない、『プリキュア』や『ONE PIECE』など、さまざまなアニメが新作の放送を延期している。私が今期楽しみにしていた『放課後ていぼう日誌』も、4話以降の放送を休止するという。これは同作を含む「日常系」と呼ばれるジャンルのアニメ作品にとっては、とくに危機的=批評的(critical)な事態だ。というのも、日常系アニメとは、まさにそのような危機が起こらないこと、つまりは「日常」を前提としてつくられてきたからである。

2011年に出版された『“日常系アニメ”ヒットの法則』(キネマ旬報映画総合研究所編)では、日常系の特徴について次のように語られている。

 

世間を揺るがすような大きな事件が発生するわけでも、超能力を持ったキャラクター同士が戦うわけでもない。それどころか、学園ドラマでは不可避とも言える「恋愛」に関する描写も皆無だ。小さな出来事に一喜一憂する「(その作品世界では)ごくごく普通の学生」の「当たり前の日常」が描かれていく。(26頁)

 

日常系アニメでは、多くの犠牲者を出すような大事件は、それが人為的なものであれ自然災害であれ、決して起こらない。したがって当然、コロナ禍もない。『放課後ていぼう日誌』に登場する個性豊かなキャラクターたちは、ウイルス感染のリスクにおびえることもなく、のびのびと釣りにいそしんでいる。彼女たちが通う学校も例年どおり入学式を開き、教室で授業を行う様子が描かれる。これは現実とは違う、フィクションなのだから当然といえば当然だ。けれども、在宅勤務のかたわら、パソコンの画面に小さなウィンドウを開き眺めていると、どこか落ち着かない気分にさせられる。

外出自粛要請が続く4月26日に放送された『サザエさん』は、主人公の磯野家がゴールデンウィークの旅行の計画を立てたり、動物園に出かけたりする話だった。これにネットの一部では「不謹慎だ」とクレームがついたという。多くのひとは「現実とフィクションの区別がついていない」と苦笑いするにちがいない。だが、たしかにこのふたつの関係は、それほど単純ではないのかもしれない。『サザエさん』もまた、日常系アニメと同様に「当たり前の日常」を描き、長らく「国民的アニメ」として私たちに寄り添ってきた。そこには単純な二分法ではなく、入れ子状の構造がある。フィクションをフィクションとして、この現実とは切り離された世界として鑑賞するという態度のほうが、じつは例外的なのかもしれない。

日常系アニメが流行し始めた2000年代後半、現実とフィクションはいまほど截然と切り分けられてはいなかった。アニメのなかのキャラクターは「俺の嫁」であり、作品は現実にある場所を背景として採用し、「聖地巡礼」によってそれらは地続きになった。一部のオタクたちは、あたかも現実よりもフィクションのほうが存在論的に優位であるかのように振る舞いさえした。もちろん、彼らが現実とフィクションを混同していたわけではないだろう。そうではなく、そもそもフィクションをフィクションとして割り切って鑑賞することの必然性が、いまよりもずっと小さかったのだ。そこに描かれていたのは、私たちのそれと同じ「当たり前の日常」だった。

2011年の東日本大震災福島第一原発事故のあと、日常系アニメはふたつの課題を背負い込んだように見える。ひとつは、「当たり前の日常」がいかに脆く、壊れやすいかということ。そしてもうひとつは、この日常が誰かの「犠牲」のもとに成り立っている(ことが誰の目にも明らかになった)ということ。震災前後の一部のアニメ(たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』『とある科学の超電磁砲S』『結城友奈は勇者である』など)が、日常をたんに謳歌するものとしてではなく、命がけで守るべきものとして描いたのは、前者に対するアンサーだろう。その一方で、後者の課題は重い。それは日常を守ることそのものの根拠を揺るがす、倫理的な問いだからだ。福島に原発を押し付け、あるいは沖縄に基地を押し付けることで成立してきた「当たり前の日常」に、守るべき価値などあるのか。私たちの一見おだやかな日常は、つねに彼らの犠牲の上に成り立ってきたのではなかったか。哲学者の高橋哲哉は、これを「犠牲のシステム」と呼んだ。

日常系アニメが、震災も疫病もない「当たり前の日常」を描くかぎり、私たちはそれを当然フィクションとして受け取らざるをえない。そんなものはもはや存在しないこと、存在すべきではないことを知っているからだ。かくして日常系はアニメのたんなる一ジャンルとなり、フィクションを文字通り現実とは別の世界と見なす「異世界転生」ものに取って代わられる。現実と地続きの「日常」から、現実と切り離された「異世界」へ。異世界転生とは、いってみれば、聖地巡礼に対する異議申し立てだ。ひとはトラックに轢かれることなしに、異世界に巡礼することはできない。現実とフィクションが重なり合っていた幸福な時代は終わりを迎えた。

『放課後ていぼう日誌』は、海沿いの田舎町に引っ越してきた主人公が高校の「ていぼう部」に入部し、先輩や同級生とともに釣りを始める物語だ。一見すると、同作は震災以後あらわになった日常の壊れやすさにも、あるいはそれが前提としている犠牲のシステムにも、とくだん注意を払っていないように見える。このアナクロニックな作品は、すでに述べたとおり、ウイルスの世界的な蔓延によって放送休止に追い込まれた。あたかもそのこと自体が、日常系アニメの抱える困難を象徴的に表しているかのようだ。

けれども、『放課後ていぼう日誌』は、時勢の変化に無自覚な旧態依然とした日常系アニメではない。それは日常の描写を通じて日常を問い直す、いわば「ポスト日常系アニメ」だ。放送された3話までの内容をつぶさに見ていくと、同作には切り離されてしまった現実とフィクションの関係が、釣りというモチーフを通じて巧妙に織り込まれていることがわかる。

もともと手芸部に入部する予定だった主人公は、魚を含め生き物全般が苦手で、釣った魚に対しても「気持ち悪い」と繰り返す。たしかに作中では、デフォルメされた平面的なキャラクターやふわふわしたぬいぐるみとは対照的に、魚は独特の光沢を放つリアルな存在として描かれている。他方で、魚に対するこの生理的な嫌悪感の表明は、言うまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』旧劇場版ラストシーンの「気持ち悪い」に通じるものだ。『放課後ていぼう日誌』の主人公にとって、魚とはそもそもコミュニケーション不可能な「異物」であり「他者」なのだ。

さしあたって同作は、主人公が釣りを通じて、このまったき他者としての魚とある種の関係性を構築する(=釣る/釣られる)物語として進行する。ただし、ここで注目したいのは、この「釣る」という行為そのものが、広く「消費者をひっかける」という意味のジャーゴンとしても機能しているということだ。この点で『放課後ていぼう日誌』は、魚だけではなく、私たち視聴者を「釣る」ことを目的とした、きわめて自己言及的な作品として理解できる。

視聴者は作品に「釣られる」存在であり、また作中のキャラクターにとっては根本的な異物でもある。したがって、この作品における魚とは、まさに私たち視聴者自身のことだ。私たちは魚として、つまりはキャラクターにとっての他者として『放課後ていぼう日誌』の世界に入り込む。実際、第1話では、釣り上げられたタコが主人公の足元にへばりつき、スカートのなかに触手を伸ばす。主人公は卒倒する。この性的なニュアンスの強い出会いの描写は、それを喜んで見るオタク、ひいては私たち視聴者一般の「気持ち悪さ」を的確に表している。

キャラクターと対等の存在としてではなく、物言わぬ魚の化身として作中に描き込まれること。もはや地続きではない、切断されてしまった現実とフィクションの関係、視聴者とキャラクターの非対称的な関係がそこには暗示されている。私たちは「俺の嫁」どころか、いまやキャラクターにとって「気持ち悪い」存在であり、拒絶の対象である。

『放課後ていぼう日誌』は、震災や疫病によってすれ違ってしまったこの両者を、再び和解させようとする試みといえるかもしれない。それは具体的には、断絶したコミュニケーションに代えて、「釣る/釣られる」という新たな関係を導入することを意味する。キャラクターは釣り、私たちは釣られる。第3話で、主人公は疑似餌を操り、あたかもそれが生きているかのように不規則に動かすことで、目当ての魚に食いつかせた。これはアニメーションそのものの隠喩ではないか。アニメもまた、静止画を連続的に表示することで運動の錯覚を生み出し、たんなる絵にすぎないものに生命を吹き込む(animate)。小魚のかたちをした疑似餌、それにまんまと釣られる私たち……。

「気持ち悪い」異物としての私たちは、釣られる存在としてようやくフィクションの世界に居場所を得る。初めて自力で大物を釣り上げた主人公は「怖かった」と涙するが、それはやがてレジャーへと変わるだろう。私たちはキャラクターとの駆け引きを通じて、キャラクターに喜びや楽しみを与え、そして最終的には釣り上げられ食べられるべき存在なのだ。主人公は釣った魚に「とどめ」を刺す。魚としてフィクションのなかに迎え入れられた私たちは、キャラクターの手で再びそこから放逐される。それは釣ったことの「責任」であるといわれる。

視聴者は作中での代理的な死をもって、キャラクターの血肉となる。作品から退場し、そのことによってキャラクターに生の喜びを与える。これは一種の代償、いや褒章ではないか。私たちがフィクションのなかに束の間受け入れられ、そして結局は排除されること、それそのものがキャラクターの糧となるのだから。そこでは死が意味づけられる。私たちのフィクショナルな死は、魚を釣り上げて喜ぶキャラクターの笑顔と引き換えなのだ。

『放課後ていぼう日誌』は、もはや現実とフィクションが地続きではない時代の、視聴者とキャラクターのありうべき関係を描いている。私たちは魚として、震災も疫病もないユートピアの海を泳ぎ回る。

 

 

失われた過去の可能性:『映像研には手を出すな!』について

 2020年1月から放送されているアニメ『映像研には手を出すな!』の第1話には、宮崎駿監督が手がけた『未来少年コナン』(1978)を思わせるアニメが登場する。主人公の浅草みどりは、幼少期にこの作品を見たことがきっかけで、アニメーション制作の道を志すことになる。実際にアニメ関係の仕事に就くかどうかは別にして、かつて似たような思いを抱いていた視聴者も少なくないはずだ。

 けれども『映像研』には、それを見る私たち視聴者とは根本的に相容れない特徴がある。浅草氏をはじめとする主要キャラクターもまた、アニメであるということだ。彼女たちは「実写」ではない。私たちのように生身の肉体を持っているわけではない。『映像研』のおもしろさの一端は、アニメのキャラクターがアニメをつくるという、この自己言及的な構造にある。

 しかし、そうだとすれば、第1話の『コナン』は、はたして私たちがふつう考えるような「アニメ」なのだろうか。それ自身アニメであるキャラクターにとってのアニメとは、むしろ、私たちにとっての「実写」と同じ意味を持つのではないか。すべてがアニメーションで表現されるこの作品のなかでは、原理的に、実写とアニメの区別は成立しない。『映像研』の第2話では、映像研の活動方針をめぐって「実写をやれ」「やらない」という教師とのやりとりが描かれるが、そもそもこの作品がアニメとしてつくられている以上、作中で実写とアニメを厳密に描き分けることはできない。このやりとりは、したがって『映像研』の本質的なパラドックスに触れている。

 実際、浅草氏の外見は、シンプルな描線で漫画的にデフォルメされているという点で、コナンとたいして変わらない。アニメキャラクターとしての浅草氏と、彼女が見るアニメのキャラクターとのあいだに、表現上の、あるいはこう言ってよければ、存在論的な区別は存在しない。二人はともに、アニメキャラクターとしての身体を所有している。つまり、浅草氏が見る『コナン』は、彼女にとっていわば「実写」の、現実と地続きの『コナン』なのだ。

 これに対して、私たち生身の視聴者とアニメキャラクターとのあいだには、はっきりとした存在論的な区別がある。デフォルメされたアニメキャラクターを、生身の人間と混同することはふつうありえない。したがって、私たちは浅草氏が「実写」として『コナン』を見るのとは別の仕方で、つまりは「アニメ」としてそれを見る。生身の肉体に縛られた私たちは、アニメキャラクターとしての身体、すなわちアニメ的身体を欠いている。この欠如こそが、私たちにとってのアニメ視聴の前提となる条件だ。それは言ってみれば、他なるものの経験である。

 浅草氏は、自分でスケッチしたイメージボードの設定画を想像のなかで実体化し、さまざまなマシンに乗り込み、自由自在に空を駆ける。想像と現実の境目はかぎりなく曖昧にされ、わずかに水彩画風のタッチでその区別が示唆されるにとどまる。これは浅草氏がアニメキャラクターだから、つまりはアニメ的身体を持っているからこそなしえる表現だ。生身の肉体を持たない彼女は、まさにそのおかげで、自分が描いた設定画のマシンにそのまま搭乗することができる。そこには存在論的な区別がない。紙の上のスケッチと、自分の身体とのあいだに齟齬がない。

 けれども、これは私たちがアニメを見る経験とは異なる。私たちは欠如を抱えている。アニメをアニメとして見ることは、私たちがそこから存在論的に遠ざけられていること、原理的に区別されていることを承認することだ。アニメのなかではすべてが可能になる。一人乗りのプロペラスカートで空を飛ぶことも、邪魔なビルを爆破して風車を回すこともできる。だが、それを見る私たちは、いまやその可能性のほとんどを奪われている。どうしてこうなってしまったのだろう。いつから私たちは、このほろ苦い認識とともにアニメを見るようになったのか。

 かつて私たちは、生身の肉体とともに、アニメ的身体を所有していた。アニメキャラクターに憧れ、ごっこ遊びのなかで彼らを模倣するとき、私たちはたしかにアニメ的身体を生きていた。アニメは他なるものの経験ではなく、この私の、現実と地続きの世界として現象していた。肉体はキャラクターの生が息づく舞台であり、想像と現実の境界を超えて、コナンのように、あるいは浅草氏のように自由に飛び回ることができた。成長するにしたがい、いつしかこの身体は失われてしまったけれども、私たちはそれが『映像研』のなかに、浅草氏の無邪気で奔放な想像力のなかに居場所を得たことを、かすかな疎外感とともに感じ取る。『映像研』のアニメーションの快楽は、同時に、私たちのノスタルジックな感傷をかき立ててやまない。