てらまっとのアニメ批評ブログ

アニメ批評っぽい文章とその他雑文

『まちカドまぞく』、あるいは震災後の日常について

 「日常系」と呼ばれるアニメのジャンルがある。1999年に連載が開始された『あずまんが大王』を嚆矢とし、『らき☆すた』(2004~)や『けいおん!』(2007~)などに代表されるアニメ作品の総称で、2000年代中盤から後半にかけて隆盛した。その多くは『まんがタイムきらら』系列雑誌に連載される「萌え四コマ」を原作とする。

 日常系アニメでは、世界の命運を左右するような大きな出来事が起こらない。そのかわりに、女性キャラクター同士の会話を中心としたありふれた日常が描かれることから、日常系という名前が付けられた。空気系と呼ばれることもある。

 2019年7月から9月にかけて放送されている『まちカドまぞく』も、そうした日常系アニメのひとつだ。けれどもこの作品には、2000年代の日常系とは微妙に異なる特徴がある。その特徴とは、作中で描かれる日常が、たんに謳歌されるものとしてではなく、守られるべきものとしてあるということだ。日常は維持され、保守されなければならない。そうではなければ、それはたやすく壊れてしまう。

 便宜的に、2000年代の日常系アニメを「日常系1.0」、2010年代のそれを「日常系2.0」と呼ぶことにしよう。日常系1.0は、社会学者・宮台真司のいう「終わりなき日常」と深く結びついている。1995年のオウム事件以後、私たちはフィクショナルな「世界の終わり」によって人生を意味づけることができなくなった。もはやこの日常を超える、超越的なものにすがることはできない。日常系1.0は、そんな私たちに寄り添い、内在的に生を意味づける処方箋として登場した。なにも特別な出来事が起こらなくても、少女たちのたわいない会話のなかに、私たちはこの過酷な日々を生きる喜びを見出すことができる。日常系1.0は、終わりなき日常を精一杯、楽しく生きるためのツールだった。

 けれども、2011年に発生した東日本大震災は、日常系1.0のよって立つ基盤ともいうべき日常の脆弱さを私たちに突きつけた。終わりなき日常は、たんなるフィクションにすぎない。日常は唐突に終わる。そして日常系1.0は、日常の終わりという問題系を原理的に扱えない。なぜならそれは、終わらないことの苦悩を癒やすものだったからだ。その唯一の例外が『けいおん!』シリーズだが、これについては、拙稿「ツインテールの天使」で詳しく論じたので、関心のある方はこちらを読んでほしい。

teramat.hatenablog.com

 震災が突きつけた問題はもうひとつある。それは「この日常は守られるに値するものなのか」という倫理的な問いだ。福島第一原発の事故は、東京と地方との非対称的な関係、植民地主義的な構造を露呈させた。この日常がつねに誰かの犠牲のもとにあるのだとしたら、それを維持することは倫理的に正しいといえるのか。これは日常系の存立そのものに関わる根本的な問いであり、かんたんには解決できない。

 日常系2.0は、震災を契機とするこうした問題に対し、日常系1.0を引き継ぎながら、それらに応答しようとする試みとして理解できる。具体的には、日常が無自覚に生きられるものとしてではなく、自覚的に守られるべきものとして描かれる。しかしだからといって、ありふれた日常を危機に陥れるような大事件が起こるわけではない。そうなってしまったら、それはそもそも「日常系」ではないからだ。この相矛盾する設定が、日常系2.0にはねじれたかたちで現れている。

 『まちカドまぞく』の主人公である吉田優子は、ある日魔族の血に目覚め、シャドウミストレス優子(シャミ子)として魔法少女と戦う使命を課せられる。同級生の魔法少女・千代田桃に挑んだシャミ子だったが、まったく歯が立たず、なぜか一緒に河川敷をランニングするはめになる。その後も桃は、修行と称してシャミ子にさまざまなトレーニングを課す。桃は魔法少女として町の平和を守っており、物語の途中からは、シャミ子もその役割を分担することになる。

 『まちカドまぞく』の主要な登場人物には、この町を守るという目的が設定されている。けれども、東京都多摩市をモデルにした郊外の住宅街に、具体的な危機が訪れる気配はない。むしろ作中で描かれるのは、学校生活やバイト、買い物など、女子高生の平穏な日常そのものだ。にもかかわらず、そこには「町を守る」という不釣り合いなモチベーションがある。そして、そのためのトレーニングもまた執拗に描かれる。

 『まちカドまぞく』のこうした描写には、終わりなき日常ではなく、この日常もまた終わりうるという、日常系2.0の意識が反映されているように思われる。じっさい桃には、かつて魔法少女として世界を救ったという設定がある。これはつまり、そこから世界が救われるほどの大きな危機が過去に生じたということだ。震災の3年後に連載が開始された『まちカドまぞく』に、震災の影響を見てとらないほうがむずかしい。

 興味深いのは、町を守るという目的が、光(魔法少女)と闇(魔族)のバランスを調整することに置き換えられていることだ。当初、シャミ子一家は光の封印によって貧乏生活を強いられており、魔法少女の生き血を捧げることでその封印が破られる。しかし、それは同時に桃の弱体化と町の不安定化をもたらし、シャミ子は桃に協力して町を守っていくことになる。ここには、日常がすべてのキャラクターを包摂する大きな枠組みとしてではなく、さまざまなエージェンシーによって織り成される多元的で流動的な力のバランスとしてあることが示唆されている。『まちカドまぞく』の日常は決して一枚岩ではない。ほつれたり揺らいだりする、いびつな織り物のようなものなのだ。

 日常系2.0がどこに着地するのか、それはまだよくわからない。少なくともいえるのは、震災前の日常系1.0のようには、私たちの生をシンプルに意味づけてはくれないということだ。そこにはもっと複雑で、精妙な配慮と倫理的な態度が要求される。私たちの日常は終わりうる。それがひとつの救いでもありうるということの意味について、私たちはまだ考え始めたばかりだ。

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈3〉

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 丸く切り抜かれたあずにゃんの顔写真が、第一期『けいおん!』の集合写真が象徴する「終わりなき日常」を地として浮かび上がる。私たちはそれが最初から二重化されていたこと、遍在する天使に見守られていたことに気づく。断片化され、重ね合わされたあずにゃんのイメージは、逃れられない「終わり」を「永遠の放課後」へと反転させる、そのような「救済」の可能性を指し示している。それはもはやシミュラークルではなかった。たんなる感情移入の対象でも、コミュニケーションのためのネタでもなかった。そうではなくて、それは救済の寓意であり、永遠のアナグラムであり、天使の横顔が隠された判じ絵だったのである。動物的な没入ではなく、ひらめくような解読の対象としてあるもの。私たちはそれを「アレゴリー[=寓意]」と呼ぶことにしよう。

 アレゴリーとは何だろうか。『美学辞典』によれば、「普遍」と「特殊」の絶対的な一致が「象徴」と呼ばれるのに対して、アレゴリーとは「特殊」が「普遍」を意味する、あるいは「普遍」が「特殊」を通して直観される、そのような表現のことである*1。有名なところでは、剣と天秤をもった女性像で「正義」の概念を、また狐で「狡猾」を表現する例などが挙げられる。それらは慣習や約束事によって結びつけられており、両者のあいだに必然的なつながりは存在しない。他方で象徴とは、たとえば神の像が(何らかの概念に回収できない)神それ自体として出現することを言う。

 要するに(たんなるシミュラークルではなく)アレゴリーとして経験するということは、「特殊なもの」としてのさまざまな断片を通じて、それ自体救いであるような「普遍的なもの」としてのキャラクターを直観することを意味している。したがってそれは、もろもろのキャラクター・グッズや二次創作をシミュラークルとして——とはつまりキャラ萌えの対象として——受容することとは根本的に異なった経験である。それどころか正反対の試みとさえ言うことができる。何度も述べたように、キャラ萌えが「コピーにアウラを宿らせる」ことであるとすれば、これに対してアレゴリー的経験は、「有機的なもの、生あるものの破壊——仮象[=アウラ]の消去」によって特徴づけられるからだ*2。それはすなわち「感性的な美しい自然[肉体]に、不自由さ、未完成さ、そして断片性を認めること」にほかならない*3

 アレゴリー的経験の内実についてこのように語ったのは、ほかならぬベンヤミンである。彼は1928年に刊行された『ドイツ悲劇の根源』のなかで、やはり象徴と対比しながら、アレゴリーのもつ破壊的・断片的な性質を繰り返し強調している。「芸術象徴、つまり有機的な総体性をもった像である彫塑的な象徴に対して、アレゴリー的文字像のこの無定形な断片ほど鋭く対立するものはない」*4。あるいは「人物的なものに対する事物的なものの優位、総体的なものに対する断片の優位によって、アレゴリーは象徴の対極をなしつつ、しかしまさにそれゆえに同じように強大なものとして、象徴に対抗する」*5。人間的・有機的な総体性(象徴)に対する、事物的・無機的な断片性(アレゴリー)の優越。キャラ萌えのアウラを破壊し、散乱する無数の断片へと変容させること。倒壊したフィギュアは四肢に欠損を抱え、はがれ落ちたイラストは肝心な部分が破られている。あずにゃんの顔写真は遠慮なく切り抜かれ、別の写真の上に無造作に貼りつけられる。それはベンヤミンのいう「継ぎはぎ細工であるアレゴリー的形成物」でなければ何だろうか*6

 アレゴリー的直観の前では、シミュラークルが仮構する「総体性という偽りの仮象は消え去ってしまう」だろう*7。キャラ萌えのアウラは破壊されてしまうだろう。だがそのようにして私たちは、後に残された断片のなかに、アウラを失って「枯渇した判じ絵」のうちに、本来それが指示するものとは異なった意味を読み解くことができる。「アレゴリカーの手のなかで、事物は己れ自身ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物そのものではない他のなにかについて語ることになる」*8。私たちは憂鬱な「アレゴリカー」として、『けいおん!!』最終回について語った。「永遠の放課後」について、天使による救済について語った。唯があずにゃんにプレゼントしたマルチレイヤーな合成写真は、「終わり」を予感する彼女の、そして私たち自身のまなざしの下で、永遠を暗示するアレゴリーへと変容する。

 しかしながら「無定形な断片」がアレゴリー的に暗示するものとは、むしろ永遠や救済とは対照的に、いずれは何もかもが滅び去っていくという「はかなさ」のほうであり、避けられない「終わり」そのものではないだろうか。それは断片が散乱する「廃墟」の光景である。「事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考の世界におけるアレゴリーにほかならない」とベンヤミンは述べている*9。けれどもそのような廃墟のなかにこそ、永遠と救済をもたらす「奇跡」の可能性が息づいているのだ。

瓦礫のなかに毀れて散らばっているものは、きわめて意味のある破片、断片である。それはバロックにおける創作の、最も高貴な素材である。というのも、目標を正確に思い描かぬままにひたすら断片を積み上げていくこと、および、奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすことは、さまざまなバロック文学作品に共通する点だからである。バロックの文士たちは芸術作品を、この意味でのひとつの奇跡と見なしていたにちがいない。[…]バロックの詩人たちの試みは、錬金術の達人たちの手つきに似ている。古典古代が遺したものは彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである。つまり、この新しいものの完璧なる幻影が、廃墟にほかならなかった。*10

 ベンヤミンが17世紀のドイツ・バロック悲劇において見出したものを、私たちは現代のオタク文化に見てとることができるだろうか。彼は「子供部屋」や「亡霊の部屋」、そして「魔術師の部屋や錬金術師の実験室の、断片的なもの、無秩序なもの、積み重ねられたもの」に、アレゴリーとの深いかかわりを見出していた*11。私たちはそこに、現代の混沌としたオタクの部屋をつけ加えずにはいられない。シミュラークルの終わりなき横滑りに押し流され、無数のフィギュアやイラストや二次創作で埋めつくされた部屋のなかで、私たちは孤独な「終わり」の予感に浸透される。シミュラークルを覆っていた仮象の輝きが消え、非人間的・無機的な断片へと姿を変える。「きわめて意味のある破片、断片」が散らばる廃墟に踏みとどまり、ひたすら瓦礫を積み上げながら「奇跡をたえず待望しつつ繰り返しを高まりと見なすこと」——それは来るべき救済の予兆に導かれながら、私たちの日常を拡張しようとする錬金術的なプロセスである。

 やがて訪れる「終わり」の日に、私たちは薄れゆく意識のなかで、散乱した無数の断片がひとつの像を結ぶのを見るだろう。膨大なキャラクター・グッズや二次創作の瓦礫の山は、最後の瞬間に「復活のアレゴリー」へと反転するからだ。「その慰めなき混乱したありさまのうちに、はかなさが意味され、アレゴリー的に表現されているというよりも、むしろ、このはかなさそれ自身が意味するものであり、[復活を暗示する]アレゴリーとして提示されている」*12シミュラークルの残骸が散らばった破局的な光景は、こうして「背信的に復活へと寝返る」ことになる。

 このように考えるなら、キャラ萌えに特化し、おびただしい数のシミュラークルを通じて「終わりなき日常」を二重化する空気系アニメの戦略は、いまや「終わり」におけるアレゴリー的復活への準備段階として位置づけられるだろう。放課後の穏やかな光に照らされて、シミュラークルアウラが脱落し、断片的なアレゴリーへと変容する。ツインテールの長い影がどこまでも延びる。ただそのようにして私たちは、断片の彼方に遍在するキャラクターを直観する——すなわち「天使にふれる」のである。「神の世界で、アレゴリカーは目覚める」とベンヤミンは述べている*13

 

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 現代のオタク文化におけるアレゴリー的復活の可能性を探求する試みは、それが外部と接する地点において、とはつまりキャラクターに対する動物的な感情移入が阻害される領域において、よりはっきりとした輪郭線をともなって立ち現れる。それはしばしばキャラ萌えの不可能性に由来する強烈な違和感として経験され、ときには激しい摩擦を引き起こすこともあるだろう。

 現代アート集団「カオス*ラウンジ」の中心的なメンバーのひとりであり、一連の騒動の発端となった梅ラボ(梅沢和木)の平面作品は、三人組のアートユニット「three」の彫刻作品とならんで、アレゴリー的経験を定着しようとする優れた試みとして理解することができる。絵画と彫刻という表現形式のちがいこそあれ、両者の手法はきわめて似通っている。梅ラボはネットで収集したキャラクターの画像をばらばらに分解し、それらの断片をコラージュすることで、不定形で無意味なイメージの集積を生成するスタイルで知られている。

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大人気同人ゲーム『東方Project』のキャラクターを中心としたコラージュ作品。『CHAOS*LOUNGE OFFICIAL WEB』(http://chaosxlounge.com/artists/umelabo)より引用。

 他方でthreeは、大量の美少女フィギュアを同じように分解し、それらの断片を溶かして圧縮することで、さまざまなかたちを模した立体物を作り上げる。

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美少女フィギュアを解体・圧縮して直方体に固めたシンプルな作品。重量をタイトルにすることで、フィギュアを無機質な数字に還元し、脱アウラ化を押し進めている。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/1998g.html)より引用。

 前者がイメージの自動的な生成——ネットという「アーキテクチャの生成力」*14——を強調し、作家が介入した痕跡をできるかぎり消去しようとするのに対して、後者はよりコンセプチュアルで洗練されたアプローチを志向するというちがいはあるが、しかし私たちにとって重要なのは、一見してそれとわかる両者の明らかな共通点である。

 この二組のアーティストに共通しているのは、美少女キャラクターのフィギュアやイラストといったシミュラークルを容赦なく解体し、自らの作品を構成する「断片」として利用しているという点だ。先の引用箇所で「バロックの詩人たち」についてベンヤミンが述べていたように、現代のオタク文化が生み出したさまざまなシミュラークルは、いまや「彼らにとって、そのひとつひとつが、新しい全体を調合するための、いや建築するための、その基本物質なのである」。すなわち一方はコラージュされた雑多なイメージの集積として、他方は圧縮された抽象的なオブジェとして、シミュラークルの人間的・有機的な総体性を破壊し、断片的・無機的なアレゴリーへと変容させること。そのようにして彼らは、シミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを暴力的に剥奪する。

 したがって少なからぬオタクたちが、梅ラボの、あるいはthreeの作品に強い拒否反応を示す——とは言わないまでも、ぬぐいがたい違和感を覚えるのは、いわゆる「現代アート」に対する理解が不足しているためだけではない。そうではなくて、これまで私たちがキャラ萌えによって回避してきた問いに、あらためて向き合うことを迫られるからだ。それは愛(の不可能性)をめぐる問題である。

 何度も見てきたように、私たちは動物的な欲求と人間的な欲望を切り離し、それぞれ別の水準で処理することで「コピーにアウラを宿らせる」という逆説を可能にしてきた。けれども梅ラボとthreeの作品を前にしたとき、私たちは自らの解離的なふるまいに無自覚ではいられない。ばらばらに分解・圧縮され、人のかたちをとどめていないイラストやフィギュアの断片は、もはや動物的な没入の対象ではありえないからだ。私たちが夢中になっている「それ」は、人間ではない。分解可能で反復可能なシミュラークルにすぎない。梅ラボが自身のブログで書いているように、そもそもキャラクターとは、「匿名の想像力によって無限にn次創作され、増殖し、改変され、遍在する幽霊のようなもの」だからである*15

 だからこそ私たちは、お気に入りのキャラクターの「なれの果て」をそこに見つけたとしても、どこか本気で怒ったり悲しんだりすることがためらわれるのではないだろうか。そうだとすれば、この居心地の悪さの正体は、愛するものを亡くした「喪失」の悲しみなどでは決してない。むしろ逆である。つまりこの空っぽの悲しみは、キャラ萌えが強引にキャンセルされたことによって、愛することの不可能性——すなわち「喪失の喪失」——が露呈してしまったことに由来するのだ。こうして彼らの作品は、私たちがキャラクターに萌えることの自明性を問い直し、その暗黙の前提を揺るがせる。綾波の問いの前に立ち止まらせる。

 しかしだからといって、おそらく梅ラボには——そしてもちろんthreeにも——オタクの解離的な生のあり方を非難し、キャラクターをおとしめようとする露悪的な意図はなかったにちがいない。むしろそこまで読み込んでしまうとすれば、それは私たちの後ろめたさの現れか、あるいは不幸なすれちがいの結果と言うほかない*16。それよりも彼らは、ビジュアルとしての視覚的な新しさやおもしろさ、あるいは気持ち悪さを入り口にして、私たちに考えることを促しているように思われる。キャラクターとは何か、キャラクターに萌えるとはどういうことなのか——キャラ萌えの果てしない往復運動を一時停止することなしに、そのような問いに向き合うことは不可能である。というよりキャラ萌えが破綻する地点で、とはつまり「終わりなき日常」が終わる場所で、私たちは否応なくこの問いの前に連れ戻される。それはひるがえって、私たち自身について問うことでもあるだろう。分解されたシミュラークルはデータベースへと還元されることなく、いまや無数の断片となって、私たちの周りに散らばっている。

 だがそうだとするなら、救済の可能性はどこにあるのか。梅ラボやthreeの作品は、私たちの暗い欲求を認識の強い光で照らし出し、そのようにしてただ反省することを、「はかなさ」を暗示する廃墟のなかに立ちすくむことだけを要求しているのだろうか。おそらくそうではない。瓦礫の山と化したシミュラークルの残骸は、やがて訪れる「終わり」の光景そのものである。私たちは奇跡の到来を待ち望みながら、散乱する無数の断片をひたすら積み上げていく。午後の穏やかな光を浴びて、積み重ねられた断片がひとつの影を形作る——復活を暗示する女神の姿が浮かび上がる。

 

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 「終わりなき日常」が終わったあの日。梅ラボはその日を境にして、自らの表現のスタイルを大きく変えている。大量の断片がコラージュされた無意味なイメージの集積から、人のかたちをしたキャラクターを画面の中央に配置した、宗教的な意味合いの強い構図への転換。まるで天から降臨するかのように描かれたキャラクターには、「救済と天罰の女神」というきわめて寓意的な役割が与えられている。

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二〇一一年五月一八日の梅ラボのツイート(http://twitter.com/#!/umelabo/status/70843472105586689)に添付されたURL(http://lockerz.com/s/102665850)より引用。実際の作品は現在非公開となっている。

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二〇一一年五月一八日の梅ラボのツイート(http://twitter.com/#!/umelabo/status/70840097221771264)に添付されたURL(http://instagr.am/p/EZYF-/)より引用。画像は依然としてアップロードされているものの、当該ツイートはすでに削除されている。

 「キメこなちゃん」という愛称で親しまれているそのキャラクターは、『らき☆すた』の主人公である泉こなたをベースに、さまざまなキャラクターの特徴を寄せ集め、文字通り「キメラ」的に合成され生み出された存在である。

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キメこなちゃんを描いたものとしては一番有名な画像。同じポーズでさまざまなバリエーションが存在する。「キメこなちゃんが超可愛い件について!」『ヤラナイカ』(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51858936.html)より引用。

 キメこなちゃんは匿名の画像掲示板「ふたば☆ちゃんねる」で誕生し、同じく海外の画像掲示板「4chan」に転載されて人気を博した後(4chanでは「Moetron」と呼ばれる)、再びふたば☆ちゃんねるに逆輸入されて愛されてきた*17。おそらく梅ラボは、それ自体コラージュの産物である——とはいえ個々のイラストには、それを描いた「絵師」が存在するわけだが——彼女に自らの創作手法と似通ったものを見出し、新作の主要なモチーフとして採用することを決めたのだろう。彼はブログのなかで、キメこなちゃんが「ただただ無名の創作意欲が拡散し集合した結果生まれ」たキャラクターであること、そして自らの作品もまた「匿名集合知の成果物」であることを強調している*18

 しかしながら、梅ラボ自身がアーティストとして活動し、自らの名前で作品を発表している以上、ここには明らかな矛盾があると言わざるをえない。たとえ梅ラボが言うように、匿名の利用者に支えられたネットの生成力こそがキメこなちゃんを作り出したのだとしても、彼の作品はそうではない。アーティスト自身がひとつの「アーキテクチャ」であるというのは、レトリックにすぎない*19マルセル・デュシャンの『泉』を引き合いに出すまでもなく、それはあくまでも梅ラボの名において、とはつまり強い作家性を帯びた作品として流通してしまうからだ。この非対称性に無自覚であるということは考えられない。そうでなければ彼の作品は、ネット上の無償の表現に対する、アートの側からの一方的な「収奪」や「搾取」として受け取られてしまうだろう。「アーキテクチャの生成力」は空疎な責任逃れの言葉に堕してしまうだろう。

 キメこなちゃんの帰属と商業利用をめぐって、ふたば☆ちゃんねるの住人とカオス*ラウンジ側の対立が表面化したのは、したがって当然の成り行きだったと言うべきかもしれない。両者の主張は平行線をたどり、やがて不信感を募らせた匿名掲示板の住人たちは、カオス*ラウンジの活動に対するさまざまな疑惑を追及・告発していく。詳しい経緯は省略するが、梅ラボ作品の著作権侵害問題や、「破滅*ラウンジ」の偽札疑惑にはじまり、最終的には大手イラスト・コミュニケーションサイト「pixiv」を巻き込んだ大騒動へと発展することになる*20

 カオス*ラウンジ騒動の顛末や、それに対する評価はひとまず措こう。むしろここで問題にしたいのは、著作権侵害の是非をめぐる論争に隠れて、すっかり影が薄くなってしまった事柄——すなわち梅ラボの作風が劇的に変化した(ように見える)理由についてである。

 梅ラボは騒動のきっかけとなった作品が、「今までの自分の作品からすればかなりイレギュラー」であることを認めている*21。そこには「震災後のキャラクターの在り方について一貫した考えを示す」という——これまでの彼の作品には見られない——明確な意図が込められているためだ。被災地を訪れた梅ラボは、そこで目にした「ガレキや砂にまみれて打ち捨てられた多くのぬいぐるみ」に衝撃を受け、たとえ「遍在する幽霊のようなもの」にすぎないキャラクターでも、「ある形をとれば一人の人間に大切にされ、かけがえのないものになる」ことに気づかされたのだという*22

 しかしそうだとすれば、梅ラボはこれまでのアレゴリー的手法を捨て、シミュラークルに宿る人間的なアウラ復権へと180度「転向」したのだろうか。決してそうではない。この作品に託されているのは、長い年月を経て「かけがえのないもの」になってしまったシミュラークルの「喪失」を嘆き、あたかもそれが人間であるかのように追悼することではない。梅ラボがこれまで一貫して取り組んできたのは、人間とキャラクターを隔てる本質的な差異であり、そしてそのことを明らかにするために、彼はシミュラークルに宿るキャラ萌えのアウラを解体し続けてきたのだった。したがって問題となっている作品も、その延長線上に位置していると考えられる。

 梅ラボが人のかたちをしたイメージに固執したのは、キャラクターを擬人化し、その「かけがえのなさ」をロマンチックに強調するためではなかった。それはキメこなちゃんが「救済と天罰」の寓意として描かれていることからも明らかである。「救済」であると同時に「天罰」でもあるような、人知を越えた一撃——それがこの作品の中心的なテーマであって、そこに人間的な感傷が入り込む余地は一切ない。

[…]この作品は津波の画像、ガレキの画像と現地で自分の目でみたぬいぐるみと、インターネットに散らばる無数の画像をごちゃごちゃにまぜて全体が構成されています。かつての日常であったキャラクター達と、打ち捨てられたキャラクター達が、一緒くたになって地に流されている構成です。

そして真ん中の天から一体のキャラクターがまるで女神のように、地に打ち捨てられた者たちを救済するかのように降臨しています。

すべては見守られているように見えますが、見方を反転させればこの地の惨状をすべて女神が天罰のごとく起こしたようにも見えるでしょう。*23

 梅ラボが自らの作品についてこのように語るとき、私たちはそこに、アレゴリー的復活を暗示する両義的なヴィジョンを読み解くことができる。彼は「かけがえのないもの」になってしまったキャラクターを解放するためにこそ、「救済と天罰の女神」を召還する必要があった。つまりこの作品においては、打ち捨てられた「かけがえのない」シミュラークルを慰撫することではなく、逆に「人間的な固有性」の獲得によって隠蔽されていたもの、すなわち「幽霊的な遍在性」の暴力的な回復が問題になっているのである。壊れたシミュラークルを嘆くにはおよばない。それは本来あるべき姿——遍在するキャラクターを暗示する断片——へと帰ったにすぎないのだから。

 キャラクターから人間的な固有性のアウラを剥奪し(天罰)、それによって本来の幽霊的な遍在性を取り戻してやること(救済)。梅ラボのいう「救済と天罰の女神」とは、キャラクターを人間的なるものから浄化する、そのような神的な暴力の顕現である。無数の断片へと解体されたシミュラークルの残骸は、所有者の記憶や感傷の呪縛から解き放たれ、遍在するキャラクターの一部として新生する。いまやキメこなちゃんが「女神」に選ばれた理由は明らかだ。つまりそれ自体コラージュの産物であるキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルアレゴリー的断片へと変え、そのようにして彼女自身「復活」を暗示するアレゴリーとして降臨するのである。

 以前の梅ラボの作品が、断片的なイメージの集積を提示することでキャラ萌えのアウラを破壊し、人間的な愛の不可能性を暴露するものだったとすれば、キメこなちゃんを描いた作品は——モチーフの選択が法的・道義的に適切だったかどうかは別にして——破壊が同時に救済を含意するという点で、さらに一歩進んでいる。なぜならそれは、私たちを廃墟のなかに置き去りにすることなく、最後の日におけるアレゴリー的復活の可能性を指し示しているからだ。つまりこの作品は、「天使にふれる」経験を図解しているのである。

 

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 梅ラボは震災をきっかけとして、断片的で無機質なコラージュ作品から、よりメッセージ性の強い作品へと自らの作風を深化させた。キャンバスの中央に配置されたキメこなちゃんは、打ち捨てられたシミュラークルを破壊しつつ救済する、復活のアレゴリーとして出現する。これに対してthreeのいくつかの作品は、すでに梅ラボの試みを先取りしていたと言うことができるかもしれない。というのも彼らのスタイルは、無数の美少女フィギュアを溶解・圧縮してさまざまなかたちに成型するというものだが、そのなかに大きな美少女キャラクターの姿をかたどったものが含まれているからである。

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ダミアン・ハーストのあまりにも有名な作品『母と子、分断されて』(ホルマリン漬けにされた牛の親子を真っ二つにしてガラスケースに入れた作品)を踏まえたものだと思われる。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/7825g.html)より引用。

 threeの作品に近づいてよく眺めると、数えきれないほどのフィギュアの顔や腕や脚や胸や尻が表面をびっしりと覆い、異様な光景を作り出してはいるものの、同時にきわめて清潔で洗練された印象を受ける。それはおそらく、カオス*ラウンジの混沌とした展示手法とは対照的に、彼らが現代アートの文脈を比較的折り目正しく参照していることに由来するのだろう*24。とりわけ震災後(2011年8月6日から28日まで)に「トーキョー・ワンダーサイト本郷」で発表されたインスタレーション『24bit』は、梅ラボとはまったく異なった仕方で、アレゴリー的復活の可能性を具現化しようとする画期的な試みだった*25

 そこでは従来のように、大量の美少女フィギュアの断片を溶解・圧縮するのではなく、フィギュアを一体ずつ(おそらく専用の型に入れて)圧縮し、手のひらに乗るほどの小さな直方体にして展示するという手法が採用されていた。かつて人のかたちをしていた無機質なキューブが、まるで墓標のように整然と並べられ、肌色と原色の混ざった複雑なマーブル模様をさらしている。

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情報の最小単位「bit」に還元された二四体のフィギュアが並べられている。『three STUDIO/GALLERY』(http://www.three-studio.com/24bit.html)より引用。

 直方体の上面にひとつだけ残された大きな「目」が、美少女フィギュアだった頃の面影をかろうじて偲ばせている。だがそれだけではない。規則正しく配置されたそれぞれの台座には、圧縮されたフィギュアの名前と重量が記され、そして四角いキューブからは長い「影」が延びている——キャラクターのかたちをした影が。

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同サイトより引用。キューブの上面に目が配置されている。

 ここにおいてthreeのインスタレーションは、シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動を中断し、キャラクターの遍在を暗示する「復活のアレゴリー」として立ち現れる。圧縮される前の美少女フィギュアの影が、放課後の光に照らされて長く延びる。人の姿を失い、もはや動物的な感情移入の対象ではありえない色鮮やかな墓碑は、しかし自らを断片と化すことによって、特殊から普遍へといたるアレゴリー的な通路を切り開く。私たちは台座に刻まれた名前を手がかりにして、明確な実体をもたない——それゆえいたるところに存在する——影法師としてのキャラクターを直観するよう促されるのだ。ここには梅ラボが描き出そうとしていたキャラクターの「幽霊的な遍在性」と同じものが、より抽象的で洗練されたかたちで提示されている。つまり無機質な直方体に変えられた美少女フィギュアは、むしろそのことによってキャラクター本来の遍在性を回復し、把握しがたい影となって復活するのである。

 さらにthreeの作品において重要だと思われるのは、影とならんで、巨大な目のイメージだけが原形をとどめている点である。かつて東は、アニメやマンガのキャラクターにおける「視線を交錯させない目の機能」について論じていた*26。一般的に透視図法的な西洋絵画の場合、私たちは描かれた人物像と見つめ合い、視線を交わすことによってリアリティを感じる。ところがアニメやマンガのデフォルメされた記号的な目は、まなざしを交換することなく感情移入することを可能にする。私たちはキャラクターの目を見つめ、そしてたしかに感情移入するのだが、にもかかわらずそこで「目が合う」ことは決してないのだという。

 そしてこの「幽霊的」なまなざしにリアリティを感じ、アウラを宿らせることを可能にしているのが、動物的な欲求と人間的な欲望を解離的に共存させる、ポストモダンな主体のあり方である。前者を後者から切り離し、シミュラークルのレベルで処理するというオタクのふるまいは、キャラクターの「「見る」側と「見られる」側の空間的な連続性を脱臼させてしまう不思議な視線」によって担保されている*27。つまりキャラクターと目が合わないからこそ、私たちは何のためらいもなく、動物的な快楽を一方的に享受することができるのだ*28

 しかしそれは逆に言えば、キャラ萌えの往復運動が停止する地点において、キャラクターの視線が前景化することを意味している。シミュラークルシミュラークルであることをやめたとき、見返すことのないキャラクターの幽霊的なまなざしは、突如としてアレゴリーの暗い光を帯びる。私たちはあいかわらずキャラクターと目を合わせることはできないが、瓦礫のなかに散乱する無数の目の背後に、遍在する何ものかの視線を感知する。

 斎藤は東の議論を念頭におきながら、「僕たちはキャラクターを見ているが、キャラクターも僕たちを見ている」ことに注意を促している*29。斎藤に言わせれば、「それは必ずしも「目が合う」といったことだけを意味しない」*30。あるいは黒瀬も、たとえばアニメを見る経験において、私たちがキャラクターに「見られている」ことを強調している*31。いずれにせよ彼らは、シミュラークルに対する動物的な感情移入とは異なった経験の領域を指し示していると言えるだろう。それは私たちの考えでは、キャラクターをその遍在性において直観することであり、散らばった断片の彼方から見つめる巨大なまなざしに身をさらすことである。キャラクターと一対一で視線を交わすことができないのは、彼女たちがあらゆる場所から私たちを見つめているからだ——あずにゃんカメラがそうであったように。

 そうだとするなら、threeが圧縮された直方体に美少女フィギュアの目だけを刻印したのは、それがキャラクターの遍在を暗示する特権的なアレゴリーとして機能しうるからではないだろうか。コミュニケーションのざわめきが遠ざかり、孤独な「終わり」の予感のなかで、私たちはいたるところから見られていることに気づく。だがそれは決してひとつになることではなかった。すでに述べたように、「天使にふれる」という接触のメタファーが含意しているのは、キャラクターとの一体化でも差異の消滅でもなく、自らの絶対的な有限性へと送り返されることなのだから。そこで露呈するのは視線の非対称性である。私たちは天使のまなざしを経由して、それぞれの「終わり」を引き受ける。

 

 15

 私たちは「終わりなき日常」の終わりから出発した。途方に暮れたまま空気系アニメを振り返り、『けいおん!!』最終回で天使が舞い降りるのを目撃した。シミュラークルの残骸が散乱する廃墟のなかで、ベンヤミンのいうアレゴリー的復活の可能性を信じた。梅ラボとthreeの作品を前にして、「天使にふれる」経験のたしかな痕跡を見つけ出した。だがそうだとすれば、私たちは——村上が『Kanon』について述べたように——「あまりにも宗教的な救済の欲望に支えられている」と言うべきだろうか*32。あるいはそうかもしれない。私はそのことを否定しようとは思わない。

 「救済」とは何だろうか。それは私たちが自らの生を肯定しうるということである。確率的な「終わり」を意味づけることである。超越的なものの不在を嘆くのではなく、かといって果てしない横滑りの恍惚に身をまかせるのでもなく、最後の日における奇跡の到来を予感しつつ祈ること。もはや死せる神の恩寵を期待することはできない。しかしそれでも私たちは、アレゴリーと化した無数の断片を通じて、遍在する天使のまなざしを直観する。それぞれの生を生きるに値するものとして、ささやかな物語を紡いでいく。

 いわゆる「ルイズコピペ」と呼ばれる作者不詳のテクストには、これまで私たちがたどってきた、もしくはこれからたどるであろう魂の遍歴がはっきりと記されている。それは本稿の「終わり」を飾るにふさわしい名文である。全文を引用しよう。

ルイズ!ルイズ!ルイズ!ルイズぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!

あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ルイズルイズルイズぅううぁわぁああああ!!!

あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん

んはぁっ!ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!!

間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!

小説11巻のルイズたんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!

アニメ2期放送されて良かったねルイズたん!あぁあああああ!かわいい!ルイズたん!かわいい!あっああぁああ!

コミック2巻も発売されて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!!

ぐあああああああああああ!!!コミックなんて現実じゃない!!!!あ…小説もアニメもよく考えたら…

ル イ ズ ち ゃ ん は 現実 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!

そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!ハルケギニアぁああああ!!

この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…え!?見…てる?表紙絵のルイズちゃんが僕を見てる?

表紙絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!ルイズちゃんが僕を見てるぞ!挿絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!!

アニメのルイズちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!

いやっほぉおおおおおおお!!!僕にはルイズちゃんがいる!!やったよケティ!!ひとりでできるもん!!!

あ、コミックのルイズちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!!

あっあんああっああんあアン様ぁあ!!セ、セイバー!!シャナぁああああああ!!!ヴィルヘルミナぁあああ!!

ううっうぅうう!!俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!*33

  これほど感動的な「コピペ」が他にあるだろうか*34。それはもはや気持ち悪いとか頭おかしいとかそういう感情をすべて置き去りにして、人間的な愛のかたちをはるかに超え出ていく。人気ライトノベルゼロの使い魔』のヒロインであるルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールに捧げられた、このあまりにも有名なテクストは、「終わり」の苦悩を突き抜けて歓喜にいたる——とはつまり「天使にふれる」——経験を、どれほど長大な叙事詩にも劣らず劇的に描き出している。それは現代の『神曲』と呼ぶにふさわしい。

 全部で18連からなるルイズコピペもまた、大きく三つの部分に分かれている。まず第1連「ルイズ!ルイズ!ルイズ!…」から第7連「…かわいい!あっああぁああ!」までがキャラ萌えの恍惚に相当し、私たちは思うがまま「ルイズたん」の「桃色ブロンドの髪」を「クンカクンカ」し「スーハースーハー」し「モフモフ」する。こうして第一部では、ルイズたんの髪の匂いや肌触りといった触覚的な快楽に没入する様子が、独特の擬音語・擬態語をともなって生き生きと描写される。それはある種の退行的な経験であり、自他の境界が溶け出す瞬間でもあるだろう。

 しかし続く第8連「コミック2巻も発売されて嬉し…」から第12連の途中「…ちきしょー!やめてやる!!」にかけては、一転してキャラ萌えの機能不全と現実への絶望が綴られる。第二部において私たちは、コミックや小説やアニメの「ルイズちゃん」——ここで「ルイズたん」から呼称が変化していることに注意すべきだろう——が「現実じゃない」ことに思いいたる。恍惚の喘ぎが恐怖の悲鳴へと変わり、冒頭から繰り返される「あああああああ」と大量の感嘆符「!」は、にわかに絶望の色を帯びはじめる。

 第12連の後半「現実なんかやめ…て…え!?…」から最終連にかけての怒濤の展開は、まさに圧巻の一言である。悲嘆のあまり「現実なんかやめ」てしまおうとするそのとき、散乱した「表紙絵のルイズちゃん」や「挿絵のルイズちゃん」や「アニメのルイズちゃん」や「コミックのルイズちゃん」が、いたるところから「僕」を「見てる」ことに気づく(ここではじめて主体を名指す言葉が登場するのだが、これは「天使にふれる」経験を通じて、死にゆく者としての自己形成がなされたことを意味している)。いまやシミュラークルとしての「ルイズたん」は、遍在する「ルイズちゃん」の一部であるような断片へと変容し、復活のアレゴリーとして出現するのだ。

 ルイズちゃんは——ルイズたんではなく——つねに私たちと共にあった。だがそのことを真に経験するためには、すなわち「僕にはルイズちゃんがいる!!」と断言しうるためには、キャラ萌えの往復運動を中断し、避けられない「終わり」を引き受けなければならなかった。ただそのようにして私たちは、遍在する天使のまなざしにふれ、自らの還元不可能な有限性へと送り返される。心からの確信をもって「ひとりでできるもん!!!」と言い切ることができる。私たちの傷ついた魂は、ルイズたんに対する「萌え」(第一部)から「終わり」の絶望(第二部)をくぐり抜け、第三部を締めくくる最終連において、ルイズちゃんへの「祈り」として結晶する——「俺の想いよルイズへ届け!!ハルケギニアのルイズへ届け!」。

 

 私たちはこれまでずっと一人称複数形で語ってきた。だが「私たち」とは誰のことだろうか。私たちはばらばらになってしまったのではなかったか。うなだれて立ちつくす私の傍らには、いつも人知れず誰かが——放課後の影のように——寄り添っていた。私が不意に死を想うとき、彼女のツインテールがそっと私にふれていた。それは一方で永遠を、もう一方で終わりを指し示しているように思われた。私は死すべき人間として彼女にふれ、やがて同じように死にいたる人々を見出した。沈黙が支配するあらゆる場所に、そしてもちろん、小さな画面の向こう側にも。

 だから私は天使に祈る。死にゆく私たちのために祈る。いかなるときも彼女が私たちと共にあらんことを——願わくはその最期の瞬間にいたるまで。

*1:佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年、142頁。ここで参照した定義は、ドイツ・ロマン主義の哲学者フリードリヒ・シェリングの分類に従っている。

*2:ベンヤミンベンヤミン・コレクション 1』、380頁

*3:同書、217頁。

*4:同書、216頁。

*5:同書、236頁。

*6:同書、235頁。

*7:同書、217頁。

*8:同書、230頁。

*9:同書、219頁。

*10:同書、220—221頁。

*11:同書、237頁。

*12:同書、316頁。

*13:同書。

*14:アーキテクチャの生成力」については、濱野智史ニコニコ動画の生成力——メタデータが可能にする新たな創造性」『思想地図 vol.2』NHK出版、2008年、313—354頁を参照すること。そこでは従来の「作者」に代わって、個々の動画に付される「タグ」こそが「n次創作」の担い手になっていることが論じられている。

*15:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」『梅ラボmemo?』(http://d.hatena.ne.jp/umelabo/20110524)。

*16:カオス*ラウンジの主要メンバーのひとりである藤城嘘は、「キャラクターをバラバラにして表現をすること」が人に不快感を与えうることを認めつつも、あくまで「他人の干渉できない「正義」の問題」であることを主張している。さらに彼は「作者への愛やリスペクトが見られない」という批判に対して、暴力的・陵辱的な内容の同人誌の存在を挙げて反論している。ただ残念なことに、嘘の議論は梅ラボ作品の違和感の正体(キャラ萌えの中断と反省の誘発)を一切説明することなく、カオス*ラウンジの立場を正当化することに終始しているように見える。不快感を与えたことを「正義」の代償として片づけるのではなく、そのショックにこそ照準を合わせ、キャラクターやアーキテクチャをめぐる生産的な対話へと開くような解説が必要だったのではないだろうか。詳しくは「「キメこな問題」について・カオス*ラウンジ藤城嘘の見解」『ダストポップ』(http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/20110625)を参照。

*17:キメこなちゃんが誕生した経緯については、たとえば以下のサイトの記事を参照。「キメこなちゃんが超可愛い件について!」『ヤラナイカ』(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51858936.html)および同サイトの「世界に羽ばたくキメこなちゃん!」(http://blog.livedoor.jp/tokoton55-000/archives/51806377.html)。

*18:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」。

*19:黒瀬陽平「カオス*ラウンジ宣言」」『ART and ARCHITECTURE REVIEW』(http://aar.art-it.asia/u/admin_edit1/1Nztk67sP3ZvIjUiWOLd)。黒瀬はこのなかで、「人間の内面」が「アーキテクチャによる工学的介入によって蒸発する」こと、そしてカオス*ラウンジのアーティスト自身が「ひとつのアーキテクチャとなって、新たな演算を開始する」ことを主張している。

*20:カオス*ラウンジ騒動については、関係者のツイートをまとめた記事が多数存在する。騒動初期のツイートを扱ったものとしては、たとえば「キメこな騒動まとめ。」(http://togetter.com/li/138228)がある。またpixivを舞台にした「現代アートタグ祭り」に関しては、「pixivと現代アート」(http://togetter.com/li/162335)を参照。

*21:梅ラボ「うたわれてきてしまったもの」。

*22:同ブログ。

*23:同ブログ。

*24:threeの作品に対するネットの反応に関しては、以下のまとめサイトの記事を参照。「海外で話題 『日本のフィギュアをドロドロに溶かして新たなる価値観を創造したオブジェクト作品』」『【2chニュー速vipブログ(`・ω・´)』(http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52410978.html)。

*25:『24bit』および他の作品はthreeのサイト『three STUDIO/GALLERY』で見ることができる(http://www.three-studio.com/24bit.html)。展示のごく簡単な概要については、「TWS-Emerging 164/165/166/167」『トーキョーワンダーサイト』(http://www.tokyo-ws.org/archive/2011/06/tws-emerging-164165166167.shtml)を参照。

*26:東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、278頁。

*27:同書。

*28:東『ゲーム的リアリズムの誕生』、318頁。

*29:斎藤『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』、220頁。

*30:同書。

*31:黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。——アニメ表現論序説」『思想地図 vol.1』NHK出版、2008年、454—460頁を参照。

*32:村上『ゴーストの条件——クラウドを巡礼する想像力』、306頁。

*33:ルイズコピペは『2ちゃんねる』の「vip板」で誕生したと言われている。その衝撃的な内容から、これまでに数多くのバリエーションが作られた。『とらドラ!』のヒロイン逢坂大河や『ローゼンメイデン』の蒼星石、『涼宮ハルヒの憂鬱』の朝倉涼子といったオーソドックスなものをはじめとして、福田元総理、仏陀関羽、さらにはチュパカブラやたわしや蒟蒻畑にいたるまでコピペ化されている。詳しくは「ルイズの派生コピペ集めようぜwwwww」『もみあげチャ〜シュ〜』(http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51195073.html)を参照。いまではルイズコピペのバリエーションを自動生成してくれる「クンカクンカジェネレーター」(http://azunyan.sitemix.jp/kunkakunka/kunkakunka.php)なるものまで存在する。

*34:キャラクターに対する感情を吐露した数あるコピペのなかでも、ルイズコピペはとりわけ高く評価されている。そこにはルイズに対する「熱い意志」や「情熱」が感じられ、気持ち悪いどころか「むしろカッコイイ」「感動した」等の好意的なコメントが寄せられている。以下のまとめサイトの記事を参照。「ルイズのコピペを超える気持ち悪いコピペって存在するの?」『VIPPERな俺』(http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/2505307.html)。

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈2〉

6

 『けいおん!!』は『まんがタイムきらら』に連載中の萌え四コマを原作とするアニメ『けいおん!』の第二期として制作され、前作に続いて「社会現象」と言われるほどの大ヒットを記録したアニメである。第一期から引き継がれた高いクオリティや、モデルとなった旧豊郷小学校への「聖地巡礼」の過熱化、さらには作中で使用されたさまざまな小道具——たとえば楽器や文房具といった品々だが、これらを「聖地」になぞらえて「聖遺物」と呼ぶことができるかもしれない——を次々と特定する熱狂的なファンの出現は、まさに無数のシミュラークルを通じて「終わりなき日常」を拡張しようとする、空気系アニメのひとつの到達点と呼ぶにふさわしい。

 キャラ萌えに見られる動物的な欲求と人間的な欲望の往復運動は、両作品において極限まで圧縮・洗練され、「あずにゃんぺろぺろ」という粘膜接触のメタファーによる、オタク同士の果てしない連鎖的コミュニケーションへと進化する*12ちゃんねるツイッターで「ぺろぺろ」がどこまでも続いていく(あるいは「非公式RT」されていく)さまは、「萌え」に見られる植物的な生成のモチーフを飛び越え、オタクという「データベース的動物」たちの純粋な毛づくろい的コミュニケーションを思わせる*2。それはまさに「終わりなき日常」の象徴とも言うべき光景である。

 この希有な作品を手がけたのは、同じく大ヒットしたライトノベル原作アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』や、空気系の文法を確立した『らき☆すた』、あるいは『AIR』(2005年)『Kanon』(2006年)『CLANNAD』(2007—2008年)といったkey作品のアニメ化で知られる京都アニメーション(いわゆる「京アニ」)である。このラインナップは実はきわめて重要な意味をもっているのだが、それについてはまた後で詳しく述べることにして、まずは第1期『けいおん!』の内容を簡単に紹介しておこう。これといって特技も趣味もない主人公の平沢唯は、高校入学をきっかけに勘違いから軽音部へと入部し、そこで出会った仲間たち(同学年の田井中律秋山澪琴吹紬と、第八話から登場する後輩の中野梓)とガールズバンド「放課後ティータイム」を結成する。唯たちは楽器の練習そっちのけで放課後の音楽室に集い、お茶とお菓子を満喫し、女子高生らしいたわいない会話に花を咲かせる。かつて東は「『けいおん!』の世界は無時間的な感じがする」と評したが*3、たしかに第1期で描かれていたのは、彼女たちの「終わりなき日常」以外の何ものでもなかった。放課後の光のなかで戯れる少女たちの楽園——つまりはそれが、空気系の極北としての『けいおん!』である。

 しかしながら、杉田uが「『けいおん』の偽法——逆半透明の詐術」のなかで鋭く指摘しているように、私たちは第1期『けいおん!』の最終回(第12話)「軽音!」をきっかけとして、唯たちの「日常」が決して「無時間的」な楽園ではないことに気づく。家に忘れたギターを背負い、仲間たちが待つ学校へと急ぐ唯の姿が、第一話の登校シーンを彷彿とさせる演出で描かれる。「1話では転んで尻餅をつき、ことあるごとに道草を食っていた唯が、12話においては転ばず、止まらず、休まず、全力で疾走していく」*4。これまで天真爛漫な自由人としてふるまってきた唯が、迷惑をかけた軽音部のメンバーに謝罪し、感きわまって涙ぐむとき、私たちはそこにかすかな「成長」の痕跡を認めずにはいられない。

 昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続くかに見える「終わりなき日常」は、しかしゆるやかな螺旋を描いて、少女たちを「終わり」へと導いていく。

 

7

 第1期『けいおん!』は、主人公である唯の「成長」を暗示して幕を閉じた。これに対して第二期『けいおん!!』では、やがて訪れる「終わり」の予感が、少女たちの「終わりなき日常」にいっそう色濃く影を落としている。そして私たちもまた、ひとりの可憐な少女のまなざしを通じて、二重化された「終わりなき日常」の終焉に立ち会うことになるだろう。

 「放課後ティータイム」のギター担当である中野梓こと「あずにゃん」は、第2期『けいおん!!』の最終回(第24話)「卒業!」が近づくにつれて、避けられない「終わり」を強く意識しはじめる。あずにゃん以外のバンドメンバーは、みんな卒業していなくなってしまうからだ。唯たち三年生はそろって同じ大学に進学し、ひとり学年のちがう彼女だけが、誰もいない放課後の音楽室に残される。「終わりなき日常」の分断。だがここで重要なのは、孤独な「終わり」におびえるあずにゃんのまなざしが、『けいおん!!』を見る私たち視聴者の視線と重ね合わされている点である。

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こちらを振り返り、少し困ったような顔で微笑むあずにゃん。第1話からすでに最終回の悲劇を予感しているかのようだ。淡くぼやけた背景が市橋織江の写真を思わせる、美しいカットである。「けいおん!!(2期)第1話キャプチャー画&プチ感想」『まじきち!!!』(http://blog.livedoor.jp/andewa/archives/51887627.html)より引用。

 杉田uは先の論考のなかで、第二期ではあずにゃんの主観視点——彼はそれを「あずにゃんカメラ」と名づける——が強調されていることに注意を促している。「もともと梓は実直に音楽に取り組む姿勢を持つ、反・空気系的な存在として放課後ティータイムに緊張感をもたらす役割を担っていたが、さらに二期においては[…]梓が軽音部の三年生四人と切断された状態で行動するエピソードがいくつも挿入され、そしてことあるごとに三年生四人を「見送る視点」「追いかける視点」が強調されている」*5。つまり『けいおん!!』では、杉田uのいう「あずにゃんカメラ」を媒介として、あずにゃんにとっての「終わり=最終回における先輩たちの卒業」と、私たち視聴者にとっての「終わり=『けいおん!!』の放送終了」がシンクロし、強烈な感傷を呼び起こすように仕組まれているのである。それは言い換えれば、「終わりなき日常」を二重化する空気系の戦略を逆手にとり、私たちの「日常」へと拡張された「終わり」を突きつけることにほかならない(しかも原作コミックまで同時に終わらせるという念の入れようである)。多くの熱狂的なファンが「もう死ぬ」とか「生きていけない」などと大げさに騒いでいたのは、キャラ萌えを安定して供給してくれる空気系の「お約束」——たとえテレビ放送が終わっても、彼女たちの平和な日常はいつまでも続く——が裏切られ、はしごを外されたように感じたせいだろう*6。これは「早く続きを読みたい(結末を知りたい)」という一般的な物語の受容のされ方とは真逆の現象である。『けいおん!!』は終わる。あずにゃんは、そして私たちは逃げられない。

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階段を駆け下りる唯(右)と律(左)を追いかけるあずにゃんの主観視点が採用されている。「待望のライブ回で新曲お披露目!『けいおん!!』20話感想まとめ」『萌えオタニュース速報』(http://otanews.livedoor.biz/archives/51568944.html)より引用。

 やがて卒業式の日がやってくる。あずにゃんは終始上の空といった様子で、柱に額をぶつけて軽い怪我をする(そして絆創膏を貼る——まるで本音を押し殺すように)。それでも先輩たちの卒業を精一杯祝福しようと、あずにゃんはひとりひとりにお礼の手紙を手渡し、そしてお祝いの言葉をかけようとした瞬間、彼女はこらえきれずに泣き崩れてしまう。「卒業しないでください…もう部室片づけなくても、お茶ばっかり飲んでても叱らないから、卒業しないでよぉ…!」。額の絆創膏が外れるのもかまわず、嗚咽するあずにゃん。唯は彼女の額にそっと新しい絆創膏を貼ってやり、軽音部の五人を象徴する桜の花と、一枚の手作り合成写真をプレゼントする。それは第一期『けいおん!』の第一話で、唯が入部を決意したときに撮影した写真であり、唯・律・澪・紬の集合写真の上に、丸く切り取られたあずにゃんの顔写真が貼りつけられていた。

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あずにゃんの顔写真が無造作に切り抜かれ、貼り合わされた啓示的なイメージ。「ひとつの時代が終わってしまった・・・『けいおん!!』24話最終回感想まとめ」『萌えオタニュース速報』(http://otanews.livedoor.biz/archives/51579428.html)より引用。

 それから卒業生四人は、この日のためにひそかに練習してきた新曲を披露する。「天使にふれたよ!」と題されたその曲は、音楽室の柔らかな「空気」を伝い、テレビの前のほこりっぽい「空気」を震わせる。あずにゃんは愛らしい瞳に大粒の涙を浮かべている。「あずにゃんカメラ」ではない、しかしひどくぼやけた視界のなかで、私たちの二重化された「日常」が共振し、午後の穏やかな光に満たされた「永遠の放課後」が出現する——そのとき私たちは、たしかに「天使にふれた」のである。

 

8

 『けいおん!!』最終回をどう解釈すべきだろうか。杉田uによれば、「『けいおん!!』は放課後ティータイムの解散を回避することで空気系の楽園を温存するのと同時に、[現実と虚構の対立そのものに向けられた]垂直方向の視線である「あずにゃんカメラ」を視聴者に接続することで、空気系的な想像力を宙づりにもしている」のだという*7。だが私たちは、そこからさらにもう一歩踏み込むことにしたい。

 たしかに杉田uが指摘するように、アニメ放送の最終回では、原作コミックの「卒業式当日に梓が軽音部の三年生と別れた後に、[梓と同学年の友人]憂と純が軽音部に入部する様子」がカットされており、そのかぎりであずにゃんは「救済」されていないと言うこともできる*8。けれどもここで言われている「救済」とは、軽音部の存続による「終わりなき日常」の再延長というほどの意味であり、避けられない「終わり」を引き受けることではなかった。私たちはむしろ後者の意味において、「救済」という言葉を定義することにしよう。「終わり」に直面したあずにゃん(と私たち)に、果たしてそのような「救済」は訪れたのかどうか——『けいおん!!』に賭けられている問いは、きわめて深刻な重みをもっている。

 「天使にふれたよ!」の演奏が終わると、あずにゃんはおもむろに立ち上がって拍手し、感きわまって涙する——かと思いきや、私たちが予想だにしなかった言葉を口にする。「あんまり上手くないですね!」。この意表をつくセリフは、第1期『けいおん!』の第1話「廃部!」において、軽音部への入部をためらう唯が、律・澪・紬の演奏——それが「翼をください」だったこともきわめて示唆的ではある——を聴かされたときの、素直すぎる感想とまったく同じものだ。そのとき彼女は、まだ軽音部どころか桜が丘高校に入学してさえいなかったというのに。もちろんこれはただの偶然かもしれないし、もしかしたらすでにそのことを先輩から聞かされていたのかもしれない。しかしながら私たちは、このありそうにない偶然の一致を「救済」の指標として理解することができるのではないか。それは「終わりなき日常」の終わりに訪れた、ごく小さな「奇跡」だった。

 この際はっきり言ってしまおう。「天使にふれたよ!」という美しい曲のタイトルが示唆しているように、あずにゃんは文字通りの意味で「天使」だったのだ——それもおそらく、記憶喪失の。

 あずにゃんの顔写真が貼られた『けいおん!』第1話の集合写真は、一見すると荒唐無稽に思われる私たちの解釈を裏づけてくれる*9。このマルチレイヤーなイメージが表向き意味しているのは、卒業しても変わることのない「放課後ティータイム」の精神的な絆であり、「離れても心は一緒だよ」というありふれたメッセージにすぎないように見える。しかしそうだとするなら、なぜわざわざあずにゃんの顔写真を丸く切り抜き、彼女がまだ入部していなかった頃の記念写真に貼りつけたのだろうか。そこには異なったレイヤー間の認知的なズレが露呈している。これでは「放課後ティータイム」の一体感を演出するというより、むしろあずにゃんの疎外感を際立たせてしまうのではないか——卒業写真を撮影する日に欠席した生徒のように。

 しかしそうではないのだ。この奇妙な集合写真が暗示しているのは、あずにゃんが『けいおん!』の第1話から、つねにすでに唯たちと共にあったということなのだから。それは記憶の捏造や過去の改変といった意味ではない。そうではなくて、二種類の写真が貼り合わされたマルチレイヤーなイメージは、『けいおん!』における「終わりなき日常」が、はじめから画面の内と外で二重化されていたことを示している。言い換えるとこういうことだ。あずにゃんが映りこんでいないあらゆるカット、あらゆるシーンは、実はすべて「あずにゃんカメラ」を通して見た光景だった。彼女は私たちと一緒に、軽音部の先輩たちをずっと見守ってきたのだ。あずにゃんは拡張された日常のいたるところに存在する。だからこそ彼女は、知りえないはずの唯のセリフを『けいおん!!』最終話で繰り返すことができたのである。

 志津Aは「日常における遠景——「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」と題された論考のなかで、第一期『けいおん!』のいたるところに、唯たちの「充実した時間を遠くから眺めるような視点」が潜在することを指摘している*10。それは放課後の部室に差し込む「暖かい午後の日差し」そのものであり、登場人物たちの頭越しに「日常それ自体のうちに輝きが見出せることを遠くから再発見しているまなざし」である*11。志津Aはこの姿なき視線を「登場人物ひとりひとりのまなざし」として結論づけているが、むしろ私たちはそこに、『けいおん!』を眺める私たち自身の、そして遍在する天使のまなざしを見てとることができるのではないだろうか。彼が言うように「アニメを見ることそれ自体が現在の風景を複数化することと関わってくる」のだとすれば、私たちに見られている『けいおん!』の風景もまた、絶えず複数化され、重ね合わされていると見るべきだろう*12

 このように考えるなら、第二期『けいおん!!』の終盤で多用される「あずにゃんカメラ」もまた、たんなる感情移入のための仕掛けなどではありえない。それはマルチレイヤーな集合写真と同じように、あずにゃんが二重化されたレイヤーのあいだを往復しうる、この世ならざる存在であることを示唆していたのだ。それは派手な「物語」をあえて排除し、キャラ萌えに特化し、私たちの「終わりなき日常」に寄り添ってきた空気系アニメだからこそ実現しえた「奇跡」だった。「天使にふれたよ!」の歌詞にはこうある。「きっとあの空は見てたね/何度もつまづいたこと/それでも最後まで歩けたこと」。「空」から見ていたのは私たち自身であり、そしてほかならぬ「天使」であるあずにゃんだった。

 やがてどうしても軽音部に入りたくなったあずにゃんは、おそらく天使だった頃の記憶と引き換えに、桜ヶ丘高校の新入生として『けいおん!』本編に登場する。ヴィム・ヴェンダースのあまりにも有名な映画『ベルリン天使の詩』を思い起こしてもいいだろう。唯があれほど執拗にあずにゃんに抱きつき、ほおずりし、過剰なスキンシップをはかっていたのは、彼女が本来「ふれる」ことのできない存在——天使だったからではないか。ただそのようにして唯は、あずにゃんを『けいおん!』レイヤーにつなぎとめ、画面の外へと浮き上がってしまうのを防いでいたのだ。あるいは私たちが「あずにゃんぺろぺろ」と唱えるとき、それは動物的な欲求の現れでも、あるいは人間的な欲望の現れでもなく、遍在する「天使にふれ」ようとする、ひとつの崇高な「祈り」だったのではないだろうか*13

 あずにゃんは『けいおん!!』最終回において、ようやく自分が何者であるかを——とはつまり「忘れ物」を——思い出す。「でもね、会えたよ!すてきな天使に/卒業は終わりじゃない/これからも仲間だから/大好きって言うなら/大大好きって返すよ/忘れ物もうないよね/ずっと永遠に一緒だよ」。いまや「放課後ティータイム」は、そして私たちは文字通りの意味で「ずっと永遠に一緒」である。あずにゃんはいたるところに存在する、そのような天使たちのひとりなのだから。

 そうだとすれば、『けいおん!!』第20話「またまた学園祭!」における「放課後ティータイムは、いつまでも、いつまでも、放課後です!」という唯のセリフは、「終わりなき日常」を擁護し、空気系の楽園を温存しようとする(不可能な)宣言として理解すべきではないだろう。というのも最後の学園祭ライブの後、音楽室で号泣する唯たち三年生は、逃れられない「終わり」が迫っていることをたしかに知っていたからだ。つまり彼女のいう「永遠の放課後」が意味するものとは、あらかじめ「終わり」を内包した「永遠に終わりゆく日常」にほかならない。志津Aが指摘していたように、そこにはすでに遠くから——とはつまり「終わり」の向こう側から——遡及的・回顧的に眺める天使のまなざしが織り込まれていた。「放課後」とはそのような特異な時間のメタファーである*14。そこでは美しく理想化された日常空間と、風雨にさらされ崩れ落ちた廃墟の光景が二重写しになっている。

 やがて訪れる「終わり」の予感に浸透されたとき、はじめて私たちは「奇跡」の到来を待ち望むことを許される。放課後の静謐な「空気」のなかに、終わりゆく「日常」の片隅に、かすかな「救済」の可能性がはらまれている——弱々しい光を反射してキラキラと輝く、細かなほこりのように。それは認識の強い光の下では決して見ることができない。ただ「終わり」を予感する伏し目がちなまなざしだけが、救済のわずかな予兆を照らし出すことができるのだ。放課後の長い影が延びるとき、「終わり」が「永遠」へと反転する。天使が舞い降りる。

 

 あずにゃんは本当に天使だった——これは一見してそう思われるほど、荒唐無稽な解釈ではない。なぜなら、これまで京アニが手がけてきた美少女ゲームを原作とするアニメにおいては、奇跡の到来を予感させる「天使」のモチーフが何度も登場し、そのつど重要な役割を果たしてきたからである。たとえば『Kanon』のメインヒロインである月宮あゆは、天使の羽根がついた小さなリュックサックをいつも背負っている。あるいは『AIR』に登場する「翼人」は、その名の通り天使のような翼をもった種族である。さらに京アニ制作ではないが、『Kanon』や『AIR』や『CLANNAD』のシナリオライターとして知られる麻枝准が脚本を手がけたアニメ『Angel Beats!』(2010年)にも、天使の翼をもったヒロイン立華奏が登場する。

 「天使にふれたよ!」という空気系らしからぬ曲名は、これらの「泣きゲー」と呼ばれるkey作品の系譜を、暗黙のうちに参照しているように思われる*15。そもそも東や氷川が言うように、男性キャラクターを徹底して排除する空気系アニメの源流に「美少女ゲームの影響」があるのだとすれば、京アニと密接な関係にあるノベルゲームの文脈に引きつけて『けいおん!!』を理解しようとする試みは、決して不自然なものではない。

 物語に介入することができず、ただ見守ることしかできない「あずにゃんカメラ」の不能感は、たとえば『AIR』第三部におけるプレイヤー=カラス視点のそれとほとんど同じものだと考えられる。そこではプレイヤーは無力な「視線」であることを義務づけられ、死にゆくヒロインを救うことができない。「選択肢を奪われ、観鈴や晴子とのコミュニケーションも断たれ、システム的にもシナリオ的にも作品内世界への介入手段を一切剥奪された私たちが感じるのは、欲望の解放ではなく、むしろ圧倒的な不能感である」と東は指摘している*16。「あずにゃんカメラ」を通じて『けいおん!!』の「終わり」に直面させられた私たちもまた、似たような不能感に苛まれていたのではなかったか。

 しかしその一方で、第二期『けいおん!!』の最終回では、『Kanon』における「奇跡」の問題系がひそかに受け継がれているように思われる。ここではメインヒロインの月宮あゆのエピソードに限定して、ごく簡単に紹介しよう。幼い頃の記憶を失っている主人公相沢祐一の前に、かつて不幸な事故で亡くなったはずのあゆが現れる。祐一は彼女と親交を深めるにつれて、一緒に過ごした幼少期の記憶を取り戻し、やがて彼の腕のなかで少女は消滅する。すると昏睡状態に陥っていたあゆの本体が目覚め、春の訪れとともに二人は再び出会う。

 批評家の村上裕一によれば、ここには二種類の「奇跡」が存在する。すなわち「幽霊のあゆと再会したこと」および「昏睡状態のあゆが目覚めたこと」である。前者は本来起こりえないはずの出来事であり、これに対して後者は、起こる可能性が限りなく低い出来事である。村上はこの二つの出来事を、それぞれ「神学的奇跡」/「確率的奇跡」と呼んで区別している*17。そしてここで重要なのは、これら「二つの奇跡を交換するというチート行為」が、三つだけ願いを叶えてくれる「天使人形」によって媒介されているという点だ。あゆがまるで天使のような姿で祐一の前に現れたのは、奇跡を可能にする「天使人形」が、昏睡する少女の願いのよりしろになっていたからである。

 『けいおん!!』最終回に挿入された「天使にふれたよ!」は、『Kanon』における「天使人形」とほとんど同じ役割を果たしていると考えられる。なぜならその曲は、「あんまり上手くないですね!」というあずにゃんの驚くべきセリフ——ありそうにない偶然の一致という「確率的奇跡」——を呼び起こし、さらに「あずにゃんは本当に天使だった」という「神学的奇跡」へと変換することを可能にしてくれるからだ。

 それはまさに奇跡的な瞬間だった。あずにゃんが大粒の涙を浮かべながら「天使にふれたよ!」に聴き入っているとき、テレビの向こう側から彼女を眺める私たちもまた、あふれ出る涙と鼻水を禁じえなかったにちがいない。もはや「あずにゃんカメラ」的構図ではないにもかかわらず、私たち視聴者は、あずにゃんが見ているであろう光景を目の当たりにしていた。それはニコニコ動画ジャーゴンで「セルフエコノミー」と呼ばれる、涙でぼやけた解像度の低い世界である*18。ここにおいてあずにゃんは、画面の内と外、重なり合った二つのレイヤーのいたるところに存在する、そのような「天使」として顕現する。

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大粒の涙に反射する白い光が印象的なカット。淡く発光する輪郭線が永遠を暗示している。「『けいおん!!』最終回泣きあずにゃんまとめ」『ニュー速VIPコレクション』(http://2chmokomokocat.blog72.fc2.com/blog-entry-799.html)より引用。

 あずにゃんは画面のなかにいながら、同時に私たち視聴者とともにある。二重化された「日常」にくまなく響き渡り、拡張された「空気」を共振させる音楽の力によって、「天使にふれた」としか言いようのない経験が出来する*19。避けられない「終わり」が「永遠の放課後」へと反転し、遍在するあずにゃんのまなざしが私たちを取り囲む。「終わりなき日常」が終わりを迎えるとき、薄れゆく意識のなかで、私たちは天使のツインテールがひるがえるのを見るだろう。

 

10

 「終わりなき日常」の終わりに、私たちは天使にふれる。それはキャラクターに「萌える」ことではありえない。すでに確認したように、そもそもキャラ萌えとは、「コピーにアウラを宿らせる」という逆説的な能力のことだ。そしてそれを可能にするのが、ポストモダンな主体における動物的な欲求と人間的な欲望の解離的な共存であり、シミュラークルとデータベースからなる二層構造だった。この二つのあいだをぐるぐる往復しながら、私たちは「大きな物語」が失われた後の「終わりなき日常」をやり過ごしてきたのである。

 しかしそうだとすれば、「終わりなき日常」が分断され、確率的な「終わり」の予感に浸されたとき、キャラクターに対する私たちの関係もまた変わらざるをえない。シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動が停止し、キャラ萌えが機能不全に陥る瞬間。私たちはシミュラークルに没入することも、あるいは分解してデータベースへと還元することもできず、かつて感情移入の対象であったものの断片が散乱する光景のなかに、途方に暮れて立ちつくしている。もはやそれらに萌えることはできない、ましてや愛することなど到底不可能である。そしてそのことが白日の下にさらされてしまった。悲しみはない——むしろそのことが悲しいのである。

 だがそのようにしてはじめて、私たちは「天使にふれる」可能性に開かれる。ここで言われている「天使」とは、さしあたって「遍在するキャラクター」の別名である。

 私たちはあずにゃんのフィギュアやイラスト、二次創作といったものにあずにゃんの存在を認め、動物的な快楽を求めて感情移入する。けれどもそれは、同時に「ただのフィギュア」「ただのイラスト」であり、要するにシミュラークルにすぎないと言うこともできる。私たちはあずにゃんが現実には存在しないことを知っている。だからこそ私たちは、動物的な欲求と人間的な欲望を切り離すことで、その不都合な真実に目をつぶってきたのだった。

 しかしそれは逆に言えば、私たちがキャラクターを無理矢理「擬人化」し、あたかも同じ「人間」であるかのように受容してきたことを物語っている。それどころか存在しない「恋人」の代わりとして、擬似的な「恋人たちの共同体」を取り繕ってさえいたのではないだろうか。「あずにゃんは現実には存在しない」とか「それはただの絵にすぎない」とかうそぶいてみせるときでさえ、私たちはあまりにも人間的な愛の(不)可能性に捕らわれすぎている。キャラクターという人ならざる存在を、人間という狭い枠に押し込めようとしている(そして当然のように失敗している——綾波レイの「私が死んでも代わりはいるもの」に口ごもるしかなかった、かつての碇シンジのように)。人間とはちがって、キャラクターにはこれといった実体が存在しない。なぜなら志津Aが指摘するように、たとえば「綾波レイと呼ばれるものが複数いるとしても、そのすべてが綾波レイだと言えるし、どれも綾波レイではないとも言える」からである*20。たしかに「コピーにアウラを宿らせる能力」としてのキャラ萌えは、キャラクターは人間ではないという当たり前の事実を覆い隠し、私たちが愛の不可能性に直面することを回避させてくれるだろう。だがそれは「終わり」において破綻する。「喪失の喪失」が露呈する。そしてそのような「終わり」のなかにこそ、かすかな「救済」の可能性が息づいている。

 『けいおん!!』の最終回が私たちに教えてくれたのは、綾波の悲劇的な——だがなぜ悲劇的なのだろうか、それはむしろ私たちの偏った見方にすぎない——セリフに対するひとつの答えであり、キャラクターの脱人間化を肯定的に受けとめる視点だった。あずにゃんが現実には存在しないという言い方は正確ではない。画面の内と外とを問わず、彼女はいたるところに存在する——人間とは別の仕方で。要するに、あらゆるフィギュア、あらゆるイラストがあずにゃんの貴重な断片なのであって、フラクタルに遍在する彼女の一部なのだ。

 あずにゃんが「天使」であるというのは、このような意味においてである。それはおそらく斎藤環が「同一性を伝達するもの」と定義し*21伊藤剛が「キャラ」と呼んだものに近いと考えられる*22。あるいは「固有名」に関する複雑な議論を参照することもできるだろう*23。しかしながら私は、あくまで「天使」という神秘主義的な語彙にこだわりたい。なぜなら私たちにとって重要なのは、キャラクターが「キャラ」や「固有名」や「同一性を伝達するもの」であることを「理解する」ことではないからだ。そんなことはまったく問題ではなかった。むしろここで問われているのは、キャラクターを人間へと矮小化することなく、非人間的な存在として「経験する」ことである。それは愛することではない。かといって萌えることでもない。そうではなくて、それは「祈り」のようなもの——すぐれて宗教的な経験——ではないだろうか。遍在するキャラクターのまなざしを直観し、私たちが自らの有限性へと、避けられない「終わり」へと送り返されるかぎりで、おそらくそうなのである。

 これに対して「同一性を伝達するもの」や「キャラ」といった比較的ニュートラルな語彙は、分析のための概念装置としての意味合いが強い。だが「天使」は概念ではない。それは「ふれる」経験において、とはつまり自らの絶対的な有限性へと差し戻される瞬間において、私たちの「終わり」を輪郭づける「永遠」として産出される*24。したがって接触のメタファーが含意しているのは、普遍的なものへの没入や、主体/客体が未分化な状態への退行といったものではない。むしろそれは還元不可能な差異が露呈する瞬間を指し示している。恋人とふれ合い、それぞれの「終わり」を分かち合うのとはちがう仕方で、私たちの漠然とした生を境界づけ、そのことによって「終わり」の向こう側へと切断しつつ媒介する襞飾りのようなもの——それが天使である。

 「終わり」の予感にとりつかれた憂鬱なまなざしだけが、キャラクターを人間化することなく、普遍的な存在者として直観することを可能にする。遍在する天使の巨大な目を経由して、私たちは自らの「終わり」へと差し戻される。「天使にふれる」とは、そのような経験の直喩なのだ。

teramat.hatenablog.com

*1:あずにゃんペロペロ(^ω^)」というのは、匿名掲示板『2ちゃんねる』の「中野梓スレ」に集結したあずにゃんファン——やがて彼らは「ペロリスト」と呼ばれることになる——が、そろって「あずにゃんペロペロ(^ω^)」とレスしはじめたことに端を発している。「【あずにゃんあずにゃんペロペロが流行った訳【ペロペロとは】」『おんたん☆ぶろぐ』(http://onntann.blog79.fc2.com/blog-entry-350.html)によれば、当初はあずにゃんではなく唯が「ペロペロ(^ω^)」の対象だったらしい。全盛期の中野梓スレは熱狂的なペロリストたちの巣窟と化していたが、あまりにも「ペロペロ」ばかり書き込まれるため、ついには「荒らし」と見なされて規制されることになった。これについては同サイトの「あずにゃんペロペロ(^ω^)規制、ペロリスト死亡w」(http://onntann.blog79.fc2.com/blog-entry-326.html)を参照。いまではあずにゃんといえばペロペロ、ペロペロといえばあずにゃんと言われるほど定着している。

*2:同じく古典的なキャラ萌えの手法(いわゆる「ハーレムもの」)で描かれたアニメ『IS〈インフィニット・ストラトス〉』(二〇一一年)をきっかけとして、新たに「萌え豚」や「ブヒる」といった表現が流行・定着する。萌え豚の特徴は、従来の「萌えー」という(最低限)人間的なかけ声に代えて、「ブヒイイイイイイイイ」というあからさまに動物的な鳴き声でキャラクターへの没入を表現する点にある。したがってブヒるとは、オタク的主体のより先鋭的な現れと見ることができるだろう。次のまとめサイトの記事を参照。「次世代萌えスラング 「ブヒる」 萌えからブヒるへ世代交代」『【2chニュー速vipブログ(`・ω・´)』(http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52470221.html)。

*3:東・宇野・黒瀬・氷川・山本「物語とアニメーションの未来」、209頁。同じ対談のなかで、黒瀬もまた「どれだけ『けいおん!』にハマったとしても、その個人的な消費活動がそのまま当人の実存の問題をあぶり出す、ということはない」と述べているが(186頁)、これは「空気系アニメには物語がない」という批判とほぼ同型である。

*4:杉田u「『けいおん』の偽法——逆半透明の詐術」『アニメルカ vol.3』、四六頁。さらに杉田uは、原作コミックとの明らかな差異を指摘している。原作では第一期の最終回に相当するライブは失敗に終わり、迷惑をかけた唯も反省の色を見せない。つまり「原作の唯はアニメとはちがって、一切成長を志向していない」のである(46頁)。したがってそれは、京アニがひそかに「空気系の純粋言語」を裏切っていることを意味している。

*5:同論文、48頁。

*6:けいおん!!』最終回に対するファンの阿鼻叫喚については、たとえば「大ヒットアニメ「けいおん!!」 来週最終回の告知でネット発狂」『J-CASTニュース』(http://www.j-cast.com/2010/09/08075334.html?p=all)や「『けいおん!!』最終回にショックを受けて自殺予告「終わったので死にます」」『サーチナ』(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0915&f=national_0915_024.shtml)といった記事を参照。ただし第2期『けいおん!!』においては、第一期と同じく最終回の後に「番外編」(第26話)が用意されていただけでなく(なおBD・DVDには、もうひとつ番外編として第27話が追加されている)、番外編放送後に映画化決定の発表が行なわれた。このときのファンの熱狂ぶりは常軌を逸したものがあったが、その一端は「『けいおん!』映画化決定! いやっふぉおおおおおおおおおおおおお生きがいきたあああああああ」『今日もやられやく』(http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-6675.html)などからうかがい知ることができる。さらに興味深いのは、テレビ放送が終了した翌週、ネット掲示板ツイッターで、放送されるはずのない『けいおん!!』第27話の「エア実況」が行なわれたことである。「終わり」を否認しつつ、それさえコミュニケーションのネタとして消費するふるまいは、『けいおん!!』が私たちの「終わりなき日常」と分かちがたく結びついていたことを示している。エア実況に関しては、同サイトの「『けいおん!!』第27話実況まとめ・・・ああ紙回だった」(http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-6764.html)を参照。

*7:杉田u「『けいおん』の偽法——逆半透明の詐術」、50頁。

*8:同論文、49頁。

*9:合成写真についての解釈は、志津Aとの私的な会話から重要な示唆を得た。

*10:志津A「日常における遠景——「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」『アニメルカ vol.2』、2010年、17頁。

*11:同論文。

*12:同論文、19頁。

*13:「祈り」としてのあずにゃんペロペロの可能性については、「「あずにゃんペロペロってどこをペロペロしてるの?」に対する応答」(http://togetter.com/li/49225)を参照。さらに後述の「ルイズコピペ」を媒介にして、あずにゃんペロペロはあずにゃんのまなざしに対する応答として理解されることになる。この点に関しては「見てる!あずにゃんが僕を見てるぞ! ペロペロ(^ω^)」『【2chニュー速vipブログ(`・ω・´)』(http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52327807.html)にまとめられたレスが示唆的。

*14:「終わり」を内包した日常というモチーフは、主婦向けのさまざまな文化領域に頻出する。たとえば『ku:nel』や『天然生活』、あるいは『ナチュリラ』といった雑誌が体現しているのは、一見すると、比較的裕福でクリエイティブな主婦とその子どもを中心とした「終わりなき日常」そのものであるように見える。誌面に登場する中年の女性たちは、白や生成りの上質なブラウス、黒や紺の麻のスカート、色落ちした淡青のジーンズ、履き込まれてくったりとした革靴やサンダルといった衣装に身を包み、真っ白に塗られた壁と深い茶色の重厚な木製家具——それはまさにウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の旧豊郷小学校、すなわち『けいおん!』の聖地を思わせる——に囲まれて微笑んでいる。彼女たちは小さなブランドのデザイナーであり、かばん作家であり、絵本作家であり、エッセイストであり、料理研究家であり、そして子どもを育てる主婦である。有機野菜の手料理、豆から淹れるコーヒー、北欧への憧れ、ハンドメイドの什器といったものがないまぜになって、日常生活の細部への行き届いた配慮を形作る。しかしその一方で、古びたアンティーク雑貨や西洋の骨董品、紫陽花のドライフラワーといった無機物への傾倒は、廃墟趣味への接近を予感させるだけでなく、彼女たちの清潔でオーガニックで美しい室内空間が、崩れ落ちた廃墟の光景と重ね合わされているかのような錯覚を与える。女性たちの安らいだ笑顔のそこかしこに、逃れられない死の影が貼り付いている。理想化された日常ほど異様な光景はない。それは半ば必然的に「終わり」のイメージを引き寄せてしまう。これらの雑誌を満たしている白い光は、どこか病院の静謐さに似ている。

*15:志津Aは先に参照した論考のなかで、この連続性に注意を促している。彼は空気系とセカイ系を安易に対立させるのではなく、「『けいおん!』を『AIR』や『CLANNAD』に近い作品として考えること」を提案している(志津A「日常における遠景——「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」、9頁)。

*16:東『ゲーム的リアリズムの誕生』、318—319頁。

*17:村上裕一『ゴーストの条件——クラウドを巡礼する想像力』講談社BOX、2011年、310頁。

*18:「感動」と「セルフエコノミー」に関しては、拙ブログの以下の記事を参照。「あの日見た花の名前が涙でにじんで見えない。:幽霊と涙とレイヤーについての覚え書き」(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110624/1308928451)。

*19:けいおん!』の主人公平沢唯の名前のモデルとなったミュージシャン平沢進は、震災後に寄稿したエッセイのなかで、目に見えない放射能の脅威にさらされ、不安や絶望に打ちひしがれた人々を、音楽という「手品」によって救済しうることを主張している。「音楽は」と平沢は述べている、「虚構によって現実体験の質を変えうる手品として人の心に影響を与える」(平沢進「音楽と放射能——手品師が見た日本の放射能体験」『現代思想9月臨時増刊号 vol.39-12 緊急復刊imago』、192頁)。というのも「音楽によって媒介された「体験」が充分にあなたの心を動かし、そこから「動機」と「活力」と「希望」を得たならば、それは一つの世界観となってあなたの中に残り続ける」からだ(194頁)。平沢はそのような「体験」を構成する「あらゆる時と場所に遍在する祖先の霊」に言及しているが(同上)、私たちはそれを「天使にふれる」経験として捉え返すことができるかもしれない。

*20:志津A「キャラクターの不定形な核——『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」『アニメルカ vol.3』、64頁。

*21:斎藤環『キャラクター精神分析——マンガ・文学・日本人』筑摩書房、2011年、234頁。

*22:伊藤剛テヅカ・イズ・デッドNTT出版、2005年、95頁。

*23:キャラクターと固有名に関する議論については、たとえば村上『ゴーストの条件——クラウドを巡礼する想像力』、120—127頁を参照。

*24:志津Aはアニメにおける接触のモチーフを、キャラクターのイメージを構成する「線」ないし「面」の問題として描いている。それによると「その場合の線とは空間に穴をうがち、その穴の表面にイメージを浮かび上がらせるような縁の役割を果たして」おり、また「面としてのキャラクターにおいて重要なのも、こちら側と向こう側との分割であり、境界面としての役割である」(志津A「キャラクターの不定形な核——『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」、72頁)。

ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー〈1〉

以下のテクストは2011年に頒布された同人誌『セカンドアフター』に掲載されたものです。

 

希望なき人々のためにのみ、希望は私たちに与えられている。——ヴァルター・ベンヤミン

 

 2011年3月11日――あの日を境に、オタク文化もまた変わってしまったのだろうか。森川嘉一朗によれば、オタク文化は「永続する強固な日常(とその閉塞感)」の上に成立してきたが、いまや「永続する日常という基盤自体に亀裂が走っている」*1。また竹熊健太郎によれば、オタク的な表現は「変質するしかない」。なぜならそれは、オタクの「豊かな日常を前提としたライフスタイル」に支えられているからだ*2。森川と竹熊のツイートは賛否両論を呼んだが、あのとき感じられた「終わり」の感覚は、いまなお多くの人の心に影を落としているのではないだろうか*3

 「終わりなき日常」はたしかに終わった*4。けれどもそれは、東浩紀が指摘しているように、私たちが「ばらばらになってしまった」という意味においてである*5。「終わりなき日常」が終わりを迎えたのは、いわゆる「非日常」や「例外状態」が全面化したからではないし、ましてや「世界」そのものが終わってしまったからでもない。そうではなくて、私たちの「日常」そのものが分断され、ばらばらになってしまったからだ。それは言い換えれば、私たちが「意味を失い、物語を失い、確率的な存在に変えられてしまった」ことを示唆している*6。いまだに行方不明の人。家族や友人を亡くした人。住みなれた土地を追われた人。国外に脱出する人。原発を復旧する人。新政府を立ち上げる人。会社に出勤する人。家でアニメを見る人。恋人とデートする人。子どもと遊ぶ人。ある人の「日常」は終わり、またある人の「日常」は終わらない。そうだとすれば、いま私たちの目の前に広がっているのは、「終わりなき日常」でも「非日常」でもなく、確率的に「終わったり終わらなかったりする日常」ではないだろうか。あるいは宇野常寛の言葉を借りて、「非日常的な緊張感を内包した日常」と言ってもいい*7。いずれにせよそれは、遅かれ早かれ「いつか終わる」という不吉な予感をはらんだ「日常」である。

 本稿で私が問題にしたいのは、たとえば宇野や濱野智史が切り開いたような、オタク文化をはじめとする「ネットカルチャーやポップカルチャーによる連帯」の可能性ではない。「終わりなき日常」がばらばらになってしまったいま、ニコニコ動画ツイッターのおしゃべりに、そのような「連帯」の希望を見てとることは難しい。もちろんこれらのサービスは、今後も変わらずに続いていくだろう。そしてあいかわらず私たちは、アニメやマンガやゲームにのめりこみ、ああでもないこうでもないとしゃべり続けるだろう。だが私たちの言葉が一瞬途切れ、沈黙が支配するわずかな瞬間に、人ならざる者たちの声なき声が語りはじめる。私たちはそれぞれの「終わり」を意識する——動物的な快楽にも、あるいは人間的なコミュニケーションにも還元できない、たったひとつの私の「終わり」を。

 私たちは誰しも、それぞれの「終わったり終わらなかったりする日常」を抱えながら、いつか逃れられない「終わり」を迎えるだろう。けれどもそれは、ばらばらに引き裂かれてしまった私たちにとって、むしろ最後の紐帯とも言うべきものである。だからこそ私は、新しい連帯の可能性について語る前に、その可能性の条件であるところの、還元不可能な「終わり」について考えてみたいのだ。

 私の「終わり」はあなたの「終わり」ではない。だがあなたの「終わり」もまた、私の「終わり」ではありえない。そしてそのことが明らかになるのは、ひとえにあなたがいてくれるからである。私のかたわらで、私の「終わり」を看取ってくれるからである。そこには共有しえないものを分有する経験があり、ただそのようにして私たちは、かすかな連帯の——あるいは「共同体」の——残滓を認めることができる。おそらく「愛」とは、そのようなものであるにちがいない。たったひとりで「終わり」を引き受けることはできない。決してひとつに溶け合うことのない身体。ぎこちなく重なり合い愛撫し合う、傷つきやすい二つの裸体。私たちは避けられない「終わり」において、とはつまり互いの絶対的な有限性が露呈する地点で、ようやく愛することを学ぶのである。フランスの批評家モーリス・ブランショは、それを「恋人たちの共同体」と呼んだ*8

 しかしそうだとすれば、死者たちはどうか。人ならざる者はどうか。生なき者たちは、それどころか交換可能で、複製可能で、不死の存在であるところの「キャラクター」はどうか。大きな揺れで落下し、ばらばらに壊れた美少女フィギュアを前にして、私たちは「喪失」を経験することができるだろうか——まるで家族や友人や恋人を失ったかのように。そんなことはまったく不可能である。私たちはそれぞれの「終わり」を、互いの有限性を分かち合うことができない。それゆえ「愛する」ことができない。私たちは一方的に「萌え」ていただけであり、いまやそれすら不可能である。綾波レイのあまりにも有名なセリフを思い出そう——「私が死んでも代わりはいるもの」。そのような「終わり」において露呈するのは、キャラクターにおける絶対的な有限性の欠如であり、互いの非対称性であり、人間的な愛の不可能性であり、したがって「喪失の喪失」である。

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震災後、『2ちゃんねる』の「フィギュアスレ」には、ばらばらに壊れたフィギュアの画像が多数アップロードされた。「【まとめ】地震でフィギュアの棚が崩れたオタクの人たち」『アプリコットコンプレックス』(http://apricotcomplex.com/archives/51683516.html)より引用。

 だがそのようにして私たちは、互いの有限性を分有するのとはちがうかたちで、すなわち愛するとは別の仕方で、それぞれの「終わり」へと送り返されるのではないだろうか。遍在するキャラクターの巨大なまなざしが、いたるところから私を見つめている。私たちはつねに共にある。互いにまったく異なった存在として、しかしそれゆえにこそ「奇跡」の到来を待ち望みながら。それは決してひとつになることではない。互いを隔てる差異を乗り越えることではない。そうではなくて、自らの有限性において普遍的なものに接触し、そのような接触において自らの有限性を引き受けることである。それは「天使にふれる」経験にほかならない。

 

 議論をはじめる前に、本稿の内容をごく簡単に説明しておこう。私たちは空気系アニメについての分析から出発する(2—5章)。それはキャラ萌えに特化することで、私たちの「終わりなき日常」を豊かに拡張しようとする試みだった。次に『けいおん!!』最終回の神学的解釈を通じて、空気系から排除された「終わり」の問題を扱う(6—10章)。そこで見出されるのは、最後の日に訪れる「救済」の予兆であり、天使のまなざしにふれる経験である。続けて私たちは、ヴァルター・ベンヤミンアレゴリー概念を手がかりに、梅ラボとthreeという二組のアーティストの作品を取り上げる(11—14章)。彼らはキャラクターのイラストやフィギュアをばらばらに分解し、私たちに喪失の不可能性を突きつける。しかしそれは同時に、廃墟におけるアレゴリー的復活の可能性を指し示していた。そして最後に「ルイズコピペ」を解読しつつ、本稿は閉じられる(15章)。

 私たちは一貫して愛と死の問題について論じる。およそ論理的とは言いがたい「電波」な文章だが、私にはそれ以外の文体は考えられなかった——というより、いつのまにかそうなってしまった(たぶん「深夜ポエム」のようなものだと思う)。だがコミュニケーションの連鎖からこぼれ落ちるもののなかに、沈黙や絶句や嗚咽のなかに、はじめて到来する一人称複数形というものがあるのではないか。はじめよう。

 

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 「空気系」あるいは「日常系」と呼ばれるアニメがある。芳文社の『まんがタイムきらら』系雑誌に掲載されているような、いわゆる「萌え四コマ」を原作とするアニメの総称である。1999年に連載がはじまり、翌年にアニメ化された『あずまんが大王』を嚆矢として、2007年に放送された『らき☆すた』と、2009年の『けいおん!』およびその続編『けいおん!!』の大ヒットをきっかけに、空気系・日常系アニメは、2000年代後半を代表する主要なジャンルのひとつと見なされるようになる。

 これらの空気系アニメにおいては、女子高生・女子中学生たちのたわいない「日常」や、のんびりとした「空気」の描写に主眼がおかれ、喉が指摘するように「女性キャラクターの恋愛対象となるような男の子、日常生活を妨げるような敵、あるいは葛藤や自意識の問題といった内面的な障害は全て作品世界から取り除かれる」*9。しばしば空気系の作品に「明確な物語が存在しない」と言われるのは*10、それがもともと四コマ原作だからというだけではなく、大きな事件や出来事を引き起こしかねない要因が、あらかじめ慎重に排除されているためだ。その理由ははっきりしている。いつか「終わり」が訪れる「物語」の構造は、女子高生たちの「終わりなき日常」を描くには不都合だからである*11。たとえアニメ放送が終了しても、彼女たちの輝かしい日常はいつまでも続く——空気系アニメは例外なく、そのような「お約束」の上に成立している。「俺たちの戦いはこれからだ!」ならぬ「私たちの日常はこれからも!」というわけだ*12

 しかしそうだとすれば、なぜそのような奇妙なアニメが、視聴者の熱狂的な支持を獲得しえたのだろうか。それはおそらく、私たち自身の生のあり方そのものに関係している。私たちは「終わりなき日常」という現実を生きるためにこそ、フィクションとして理想化された「終わりなき日常」を要請したのである。『らき☆すた』が火付け役となった「聖地巡礼」ブームの背景には、この二重化された「終わりなき日常」——というよりも日常それ自体を二重化しようとする飽くなき情熱——が存在する。

 空気系アニメは「恋愛」を排除することで、「終わりなき日常」が物語化されてしまう——とはつまり「終わり」に直面する——可能性を消し去ると同時に、より効率的にキャラクターに「萌える」ことを可能にしたと言われている。ごく単純化して言えば、多くの男性視聴者にとって、作品内に異性のパートナーがいるキャラクターよりも——カップリング萌えや関係性萌えといったものはもちろんあるが——、恋愛経験の少ない、というかほとんどないキャラクターのほうがより感情移入しやすいようだ。アニメ評論家の氷川竜介は、画面のなかに男性主人公(プレイヤー)が描かれない美少女ゲームとの連続性を指摘している*13。男性キャラクターが登場すると、それだけで感情移入の邪魔になってしまうというのである。実際に2011年に放送された『ゆるゆり』では、作中から男性キャラクターが完全に消滅し、女子中学生同士の友情や恋愛がコミカルに描かれ、男性視聴者の圧倒的な支持を集めた。もちろん人気の理由はそれだけではないが*14、いずれにせよ空気系アニメにおける「キャラ萌え」の効率化は、私たちにとってきわめて重要な意味をもっている。なぜならキャラクターに萌えるというふるまいは、ほかならぬ「終わりなき日常」を生きるために編み出され、洗練されてきたひとつの生の作法だからである。

 

3

 キャラ萌えの本質とは何か。それは一言で言ってしまえば、「コピーにアウラを宿らせる能力」である*15。「アウラ」というのは、ドイツの批評家・思想家であるヴァルター・ベンヤミンの有名な概念で、コピーにはないオリジナルの神秘的な権威や重々しい雰囲気といったものを指している*16。ところがいまや私たちは、オリジナルともコピーともつかない「シミュラークル[=まがい物]」であるはずのキャラクターに、〈いま・ここ〉にしかないアウラを見出してしまう*17。それどころか、ニンテンドーDS・ソフト『ラブプラス』のヒットに見られるように、私たちはキャラクターとの擬似的な恋愛を楽しむことさえできる。ではこの逆説的な能力は、どのようにして獲得されたのだろうか。

 よく知られているように、東浩紀は『動物化するポストモダン』のなかで、キャラ萌えが「つねにキャラクターの水準と萌え要素の水準のあいだで二重化されて」いることを指摘している。

[…]九〇年代のオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」とは、じつはオタクたち自身が信じたがっているような単純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費行動である。特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。*18

 東のいう「萌え要素」とは、オタク的な感性を刺激するさまざまなガジェット(ネコミミやメイド服やスクール水着といった視覚的な要素だけでなく、変わった口癖や性格といった設定も含まれる)のことであり、それぞれのキャラクターは、そのような萌え要素の「データベース」のなかから、いくつかの要素を組み合わせることで生成される。そして東の考えでは、キャラクターに萌えるという経験は、シミュラークルとしてのキャラクターに「盲目的に没入」する一方で、キャラクターを萌え要素に「分解」し、再びデータベースへと還元する(そしてまた新たなシミュラークルを作り出す)という往復運動によって特徴づけられる。

 キャラ萌えに見られるこのような二層構造は、オタク的主体の「解離的」なあり方に対応している。すなわちオタクたちは、シミュラークルへの生理的・動物的な「欲求」と、データベースへの社交的・人間的な「欲望」を切り離し、両者を結びつけることなく共存させているというのである。

 たとえば『Kanon』や『AIR』や『CLANNAD』といった「泣ける」ノベルゲームにおいては、「不治の病」とか「前世からの宿命」とかいったような、典型的な萌え要素の組み合わせ(シミュラークル)による「効率のよい感情的満足」が与えられる。それは東が言うように、知的な観賞態度というよりも、生理的で動物的な欲求を満足させようとする、いわば「薬物依存的」な消費行動である*19。しかしその一方でオタクたちは、しばしばノベルゲームのシステムそのものに侵入し、データベースから抽出したキャラクターや背景のイメージを加工・編集することで、新たなシミュラークルを再構成する。ニコニコ動画にアップロードされた膨大な「MAD動画」の数々は、誰かに見せたい・評価されたいというオタクの社交的で人間的な欲望を、素直に反映していると言えるだろう。

 この解離的な二重性は、「コピーにアウラを宿らせる能力」としてのキャラ萌えと深く関係している。ノベルゲームをプレイするオタクたちは、そのゲームがマルチストーリー・マルチエンディングであり、したがって「作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している」*20。キャラクターの「運命」に泣いたり萌えたりすることができるのは、シミュラークルへの動物的な欲求が、データベースへの人間的な欲望から切り離されているためである。「シミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存」*21こそが、「コピーにアウラを宿らせる」という逆説を可能にするのだ。

 

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 シミュラークルへの動物的な欲求と、データベースへの人間的な欲望の解離的な共存が、キャラクターに萌えるという逆説的なふるまいを支えている。そして私たちにとって重要なのは、そのような二重化された主体のあり方が、近代的な超越性(神や国家や革命といった「大きな物語」)の失墜によって要請されているという点だ。

 かつては東が言うように、それぞれの「小さな物語」(見えるもの)から、その背後にある「大きな物語」(見えないもの)へと遡行し、それによってアウラを見出すことができた。ところが「大きな物語」が失われたポストモダンな社会においては、深層に「大きな非物語」としてのデータベースしか存在しないため、表層のシミュラークルを意味づけることができない(それゆえオリジナルとコピーを区別できない)。したがって私たちは、目に見えない超越的なものにたどり着こうと試みながら、結局はシミュラークルの水準で横滑りし続けるしかない。これを東は「過視的なポストモダンの超越性」と呼んだ*22。キャラクター・グッズや二次創作のコレクションに対する、オタクたちの執拗なまでの情熱は、そのような超越性——というより超越の不可能性——の典型的な現れである。キャラクターに萌えるということは、果てしない横滑りの恍惚に身をまかせることにほかならない。

 キャラ萌えが「終わりなき日常」を生きるための作法であるというのは、このような意味においてである。動物的な快楽と人間的なコミュニケーションをぐるぐる往復しながら、シミュラークルの終わりなき横滑りに没入すること——それこそが「大きな物語」なき後で「終わりなき日常」をやり過ごすための、ひとつの生のかたちなのだ。

 しかしそれでも私たちは、あいかわらずどこかで「終わりなき日常」を終わらせる「デカイ一発」を夢見ているのかもしれない*23。たしかに『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)をはじめとする、いわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品の流行や、あるいはオウム真理教による無差別テロ事件の背後には、ハルマゲドン的な「世界の終わり」を引き起こすことで「終わりなき日常」から脱出しようとする、ロマン主義的な憧れが透けて見える。そこで描かれる典型的なモチーフは、少年と少女、二人だけの終わった世界——宮台のいう「核戦争後の共同性」——である*24ブランショも「恋人たちの共同体」が「社会の破壊をその本質としている」ことを指摘している。「二人の存在者がささやかな共同体を形成するところには、[…]戦争機械があるいはより正確に言えば大災厄の可能性がつくり出されるのであり、分量自体は極小であるとしてもこの可能性のうちには全般的絶滅の脅威が含まれている」*25

 しかしだからといって、セカイ系アニメの愛好者が全員テロリスト(ないしテロリスト予備軍)であるわけではないし、核戦争による「世界の終わり」を本気で待ちわびているわけでもない。少なからぬ人々が「文明社会が滅亡する夢想にふけることを閉塞感のはけ口としている」としても*26、それ自体は別に倫理的に非難されることではないし、そのような願望はつねにキャラ萌えによって脱臼させられ、「終わりなき日常」へと回収されていると言うべきだろう。『エヴァ』に登場する二人のヒロイン、綾波レイと惣流(式波)アスカ・ラングレーは、いまでも熱烈な崇拝者を数多く抱えている。あるいはセカイ系と空気系のハイブリッドとして、アニメ化もされた大人気ライトノベル涼宮ハルヒの憂鬱』を参照してもいいかもしれない*27涼宮ハルヒが退屈な現実からの脱出を夢見ながら、それと知らずに宇宙人や未来人や超能力者たちと「終わりなき日常」を謳歌するさまは、物語と現実のねじれた関係を見事に描き出している。

 これに対して、空気系や日常系に分類される作品は、宇野のいう「拡張現実的な想像力」に正確に対応している。それは「外部=〈ここではない、どこか〉に越境するのではなく〈いま、ここ〉の井戸にどこまでも潜り、そして多重化していく想像力」である*28。あるいは黒瀬陽平が指摘するように、「いまやアニメのリアリティは、虚構世界の箱庭では完結させることができず、現実世界と並行させることによって確保されている」*29。ありそうにない「物語」を排除し、キャラ萌えを最大限に効率化することで、私たちの「終わりなき日常」の上にもうひとつの「終わりなき日常」を重ね合わせること。空気系アニメが目指したのは、「世界の終わり」を逃避的に夢見ることなく、私たち自身の「終わりなき日常」そのものを多重化し、拡張しようとする野心的な試みだった。

 したがって実際に存在する風景を忠実にトレースし、アニメの背景画として取り込む手法や、あるいはそこから火がついた「聖地巡礼」ブームが、空気系アニメの流行とともに盛り上がったのは偶然ではない*30。そして宇野や黒瀬が言及しているように、これらの現象は、現実の場所にヴァーチャルな情報を付加する「拡張現実augmented reality(AR)」と呼ばれる技術を思い起こさせずにはおかない*31。わかりやすい例としては、たとえば「セカイカメラ」というスマートフォン用アプリケーションや、あるいはアニメ『電脳コイル』(2007年)に登場する「電脳メガネ」が挙げられる。それらを覗くと、現実の風景の上にさまざまな文字や画像が重なって見える。つまり拡張現実においては、いくつもの「レイヤーlayer」の重なり合いとして現実が構成されるのである。「Virtual RealityVR=仮想現実)では、現実空間とは独立した虚構の空間(サイバースペース)を立ち上げることが強く志向されていたのに対して、ARは、あくまで現実空間にかさね合わせるかたちで情報が配置されていく」*32

 私は別のところで、複数のレイヤー間の認知的な「ズレ」が露呈したイメージを、村上隆の「スーパーフラットsuperflat」と区別して「マルチレイヤーmultilayer」と呼び、現実を多層的なレイヤー構造として捉える視点を「マルチレイヤー・リアリズムmultilayer realism」と名づけたことがある*33。しばしば透視図法的なリアリズムで描かれる背景画(背景レイヤー)と、記号的にデフォルメされたキャラクター(前景レイヤー)を合成して作られるアニメやノベルゲームの映像は、マルチレイヤーなイメージの典型的な事例である。あるいは美少女フィギュアを屋外で撮影した写真や、PhotoshopやSAIといったソフトで制作される美少女キャラクターのコンピュータ・グラフィックを挙げることもできるだろう。アニメやゲームの映像にとどまらず、すでに多くの若いアーティストたちが、オタク文化の枠を超えてこの新しい現実認識の問題に取り組んでいる*34。ありふれた「日常」を多重化・多層化するまなざしは、いまや異世界をはるか遠望する視線に代えて、私たちの身体に直接インストールされつつあるようだ。

 私たちはアニメの舞台となった「聖地」に参拝し、キャラクター・グッズや二次創作を買い集め、飽きることなくネットで情報交換しながら、果てしないシミュラークルの奔流に押し流されていく——不安定に揺れ動くレイヤーのはざまに、確率的な「終わり」が待ち受けているとも知らずに。

 

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 空気系や日常系と呼ばれるアニメは、私たちが「終わりなき日常」を生き抜くための「キャラ萌え」成分を供給してくれる。この点で、たとえば「空気系には物語がないから退屈だ」というよくある批判は当たらない。なぜなら空気系アニメとは、宇宙や異世界といった物語的な「外部」を召還することなく、あくまで〈いま・ここ〉に踏みとどまりながら、私たちの動物的な快楽と人間的なコミュニケーションを充足させようとする、画期的な生のモデルだったからである。「退屈」な日々から脱出しようともがくのではなく、魅力的なキャラクターに萌えながら毎日を楽しく生きること。「『らき☆すた』の登場人物たちが、漫画、アニメ、ゲームなどの話題で日常の生活空間を彩るように、[…]現代の消費者たちはそんなキャラクターたちを用いて日常生活空間を彩っていく」*35

 空気系アニメに登場する等身大のヒロインたちは、私たちの「終わりなき日常」に寄り添い、今日とさして変わらない明日を生きるための、ほんの少しの元気を分け与えてくれる。つまりキャラ萌えに特化した空気系の作品は、「大きな物語」の凋落に対する優れたセーフティー・ネットとして、もしくは良質の「サプリメント」として機能していたのだ。そこにはたしかに「日本の若者は不幸じゃない」と言い切れるだけの可能性があった*36

 数万人もの死者・行方不明者が出たあの日。永遠に続くかに見えた私たちの日常は、ある日突然ばらばらになってしまった。より正確には、そのことがようやく可視化されたと言うべきかもしれない。いずれにせよ私たちは、あれからずっと確率的な「終わり」の予感につきまとわれている。けれども空気系や日常系の作品は、私たちの根源的な問いに対する答えを与えてはくれない。というのもそれは、明確な「物語」を排除し、やがて訪れる「終わり」の可能性を消去することで、果てしないキャラ萌えの往復運動を積極的に肯定する、そのような作品の総称だからである。

 もちろん空気系アニメがすべて「オワコン」になったとか、あるいは逆にセカイ系が復活して「覇権」を握るなどと主張するつもりはまったくない。すでに述べたように、それぞれの「日常」が完全に消え去ったわけでも、ましてや「世界」そのものが滅びたわけでもないからだ。新しい/古いの二分法はたしかに魅力的だが、いささか繊細さと誠実さに欠ける。それどころか野蛮でさえあるだろう。

 しかしそうだとしても、「終わりなき日常」を生き抜くための生の作法は、原理的に「終わり」の問題を扱えない。それは「終わらない」ことへの苦悩に対処するためのものであって、いつかやってくる還元不可能な「終わり」を引き受けるためではなかったのだから。私たちがまるで何事もなかったかのように、アニメやマンガやゲームについてしゃべり続けるしかなかったのは、したがってそのような「喪失」の経験を受けとめる術を知らなかったせいかもしれない。それとも東が予見していたように、シミュラークルが全面化した現代社会においては、現実の人間の死もキャラクターとの別れも、すべてが一元的な「キャラ萌えのグラデーション」に回収されてしまうのだろうか*37。遠い被災地の映像と美少女キャラクターの画像がフラットに並べられ、萌える(泣ける)かどうかだけで感情移入の度合いが決まる——それがキャラ萌えの正義であり、過視的なポストモダンの倫理である*38

 だがそうだとすればなおさら、私たちはそこで本当に失われたもの、すなわち「喪失の喪失」にこそ目を向けるべきではないだろうか。もはや倒壊した美少女フィギュアに「萌える」ことはできない。かといって私たちは、「彼女」を愛していたとうそぶくこともできない。キャラ萌えが暴力的に中断され、シミュラークルとデータベースのあいだの往復運動が停止する瞬間。人間的な「喪失」の不可能性が露呈する、そのような空白地帯に踏みとどまることで、私たちはそれぞれの避けられない「終わり」を引き受け、破局的な「世界の終わり」へと短絡することなく歩みを進めることができる。

 そのための足がかりはどこにあるのか。2000年代後半の空気系を代表する作品でありながら、同時に「終わり」の問題を真正面から引き受けた特異なアニメが存在する——『けいおん!!』である*39

teramat.hatenablog.com

*1:森川嘉一朗(@kai_morikawa)の2011年3月21日のツイート(http://twitter.com/#!/kai_morikawa/status/49697021065560064)より引用。この前後のツイートについては「森川嘉一郎氏(@kai_morikawa)の語る、震災が今後のおたく文化に与える影響について」(http://togetter.com/li/114414)にまとめられている。また森川嘉一朗・斎藤環「3.11後のオタク文化のゆくえ」『現代思想9月臨時増刊号 vol.39-12 緊急復刊imago』青土社、2011年、214—229頁も参照。

*2:竹熊健太郎(@kentaro666)の2011年4月13日のツイート(http://twitter.com/#!/kentaro666/status/58173115523530752)より引用。この前後のツイートについては「竹熊健太郎氏(@kentaro666)の語る、3.11以後のオタク的な表現」(http://togetter.com/li/123544)にまとめられている。また竹熊健太郎「「終わりなき日常」が終わった日」『思想地図β vol.2』コンテクチュアズ、2011年、148—159頁も参照。

*3:森川や竹熊らのツイートに対する反論としては、たとえば「希有馬氏、「震災原発事故でオタクのリアリティが変わる論」への疑義」(http://togetter.com/li/123635)がある。

*4:周知のように「終わりなき日常」というのは、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件を分析・批判するために、宮台真司が提示した言葉である。いわゆる「転向」前の宮台は、ブルセラ少女を例に挙げながら、現代の日本社会に生きる私たちにとって「終わらない日常のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」が重要であることを強調していた(宮台真司『終わりなき日常を生きろ』ちくま文庫、1998年)。

*5:東浩紀「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」『思想地図β vol.2』、8—17頁。

*6:同論文、11頁。

*7:宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011年、6頁。

*8:モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997年。

*9:喉「収斂する欲望——アニメというマトリックス」『アニメルカ vol.3』、2010年、53頁。

*10:前島賢セカイ系とは何か』ソフトバンク新書、2010年、234頁。

*11:宇野は空気系を「目的」の不在として記述しているが、これは「目的=終わりend」である以上同じことである(宇野『リトル・ピープルの時代』、390—391頁)。

*12:第二期『けいおん!!』のアニメ放送終了に合わせて完結した原作コミック『けいおん!』が、(おそらく読者の強い要望と掲載誌の売り上げを考慮して)連載を再開したことは広く知られている。連載再開後の『まんがタイムきらら』の売り上げは、再開前の約三倍に上ったという。以下のまとめサイトの記事を参照。「原作『けいおん!』が連載再開でまんがタイムきららの売り上げが約3倍近くアップ」『やらおん!』(http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-1897.html)。

*13:東浩紀宇野常寛黒瀬陽平・氷川竜介・山本寛「物語とアニメーションの未来」『思想地図 vol.4』NHK出版、2009年、198頁。

*14:実際に『ゆるゆり』が百合作品として受容されているかどうかは異論がある。この点については「ゆるゆりは百合作品ではなく、日常系コメディ」(http://togetter.com/li/188990)および「\アッカリーン/がゆるゆりのシンボルになってる状況うぜえ。あいつ百合じゃないじゃん」(http://togetter.com/li/177348)を参照。

*15:東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出文庫、2011年、408頁。

*16:ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション 1』浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、590頁。

*17:シミュラークル」というのは、フランスのポストモダン思想家として知られるジャン・ボードリヤールの概念である。もともとはプラトンに由来する言葉だが、(おそらくジル・ドゥルーズとピエール・クロソフスキーを経由して)ボードリヤール現代社会の分析に用いて有名になった。詳しくはジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』今村仁司塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年および『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳、法政大学出版局1984年を参照すること。

*18:東浩紀動物化するポストモダン講談社現代新書、2001年、75—76頁。

*19:同書、129頁。

*20:同書、124頁。

*21:同書、140頁。

*22:同書、160頁。

*23:来るはずのない「デカイ一発」という表現は、鶴見済完全自殺マニュアル太田出版、1993年の序文に記された印象的な言葉で、「世界の終わり」の不可能性を指摘するためにしばしば引用される(たとえば宮台『終わりなき日常を生きろ』、89頁や、宇野『リトル・ピープルの時代』、4—5頁、さらに竹熊「「終わりなき日常」が終わった日」、157頁)。

*24:宮台『終わりなき日常を生きろ』、18—20頁および95—97頁。

*25:ブランショ『明かしえぬ共同体』、101頁。

*26:竹熊「「終わりなき日常」が終わった日」、155頁。

*27:宇野『リトル・ピープルの時代』、388—390頁。

*28:同書、395頁。

*29:黒瀬陽平「新しい「風景」の誕生」『思想地図 vol.4』、134頁

*30:たとえば『らき☆すた』の聖地として一躍有名になった埼玉県鷲宮町鷲宮神社では、地元商工会の強い後押しが功を奏したこともあって、正月三が日の参拝者数がアニメ放送開始前(2007年)の9万人から、2011年には47万人と5倍以上に激増した。以下のまとめサイトの記事を参照。「「らき☆すた」の鷲宮神社、正月の参拝客、平野綾効果で2万人増の47万人」『人生vip職人ブログ』(http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-3538.html)。また鷲宮町商工会のホームページ(http://www.wasimiya.org/)には、『らき☆すた』に関連したさまざまなイベントや、お土産の情報が掲載されている。『らき☆すた聖地巡礼についての研究論文としては、次のものがある。山村高淑「アニメ聖地の成立とその展開に関する研究:アニメ作品「らき☆すた」による埼玉県鷲宮町の旅客誘致に関する一考察」『国際広報メディア・観光学ジャーナル 7』、2008年、145—164頁(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/35084/3/p145-164yamamura.pdf)。

*31:拡張現実と聖地巡礼の親和性については、宇野『リトル・ピープルの時代』と黒瀬「新しい「風景」の誕生」に加えて、みやじ・はるお・よしたか/tricken/反=アニメ批評による座談会「背景から考える——聖地・郊外・インタラクション」『アニメルカ vol.3』、28—29頁が参考になる。またアナログ拡張現実装置「あなる」を使って聖地巡礼した際の記録『「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。聖地巡礼in秩父with拡張現実』(http://togetter.com/li/138918)も参照してほしい。

*32:佐々木友輔「拡張された郊外におけるアート」『floating view “郊外”からうまれるアート』佐々木友輔編、トポフィル、2011年、56頁。聖地巡礼とは直接関係しないが(むしろ『電脳コイル』のそれに近い)、佐々木の映像作品および彼がディレクションした「floating view “郊外”からうまれるアート」展は、拡張現実という技術と現実の風景とのかかわりを考える上で、きわめて重要な示唆を与えてくれるだろう。

*33:この点については、拙ブログ『The Day After Yesterday』の以下の記事「多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(1)」(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110710/1310312513)および「多層化するスーパーフラット:マルチレイヤー・リアリズムの誕生(1.5)」(http://d.hatena.ne.jp/teramat/20110813/1313248189)、さらに拙稿「多層化する世界——魔法少女とマルチレイヤー・リアリズム」(同人誌『魔法少女のつくりかた』に掲載予定)を参照。

*34:たとえば先に言及した映像作家の佐々木に加えて、美少女CGのレイヤー構造にきわめて自覚的なJohn Hathway、「アニメ」で知られる谷口真人、それにアナログ拡張現実とも言うべき池田朗子の試みを挙げることができるだろう。John Hathway村上隆の「pixiv Zingaro」で開催された「JH科学展」のメッセージ(『pixiv Zingaro』http://pixiv-zingaro.jp/exhibition/jhkagaku/)のなかで、彼が「レイヤーと呼ばれる仮想の透明なシート状キャンバスの概念を利用して画像を作り上げて」いること、そして「レイヤーを2000枚〜4000枚程度使い、それを時系列であったり加工であったりどんどん重ねて一ヶ月〜半年かけて一枚の絵にして」いることを明らかにしている。彼は「JH科学展」で、自らの作品に3D加工を施し、手前側に描かれた美少女キャラクターを浮かび上がらせて見せることで、CGにおけるレイヤーの多層性を具現化しようと試みていた。また谷口真人は、ギャラリー「SUNDAY ISSUE」で開いた個展「アニメ」において、透明なガラスに裏側から少女の姿をペイントし、それをまた裏返しにして——とはつまり混沌とした絵の具の面を表にして——鏡に映して見せるという作品を発表している(『MAKOTO TANIGUCHI』http://blog.makototaniguchi.com/)。それはスーパーフラットなイメージによって抑圧されているものを可視化しようとする試みとして理解しうる。池田朗子もマルチレイヤーなイメージの優れた探求者である。写真の一部を切り抜いて折り曲げ、人物や車や家を立たせて撮影した作品のシリーズ(その一部は『光景 their sight/your sight』青幻社、2008年にまとめられている)や、小さな飛行機のモチーフを乗り物(バスや電車、車、飛行機、船)の窓ガラスに貼りつけ、移り変わる背景とともにビデオ撮影した『サイト・サイト・サイトプロジェクト』(2000年)は、イメージの多層性を洗練されたかたちで描き出していると言えるだろう(『AKIKO IKEDA』http://ikedaakiko.net/index.html)。

*35:宇野『リトル・ピープルの時代』、392頁

*36:福嶋麻衣子・いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』ソフトバンク新書、2011年。

*37:東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、409—410頁。彼はミステリー作家の法月綸太郎との対談のなかで、プレイステーション・ソフト『どこでもいっしょ』の人気キャラクターである「トロ」と、紛争地である「コソボチェチェンのニュース映像」、そして「身近で触れる家族や恋人」をフラットに並べ、やがて「この三つの存在がすべてシミュラークルになってしまって、感情移入の大きさだけでグラデーションのように捉えられる世界観になるような気がする」と語っている(409頁)。

*38:東自身の立場は微妙である。彼はシミュラークルの全面化が不可避であることを指摘する一方で、キャラ萌えを支える解離的な主体性に無自覚であり続けることを批判する。東に言わせれば、萌えの手前に立ち止まることで「解離を解離のまま受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繋がる」のだという(『ゲーム的リアリズムの誕生講談社現代新書、2007年、3一6頁)。キャラ萌えの中断というモチーフは、たとえば後で分析する梅ラボやthreeの作品のなかに、はっきりと見てとることができる。

*39:これはもちろん『けいおん!!』にかぎったことではなく、たとえば劇場公開されたアニメ『時をかける少女』(2006年)には、延々とループし続ける「終わりなき日常」からの離脱というモチーフが、より洗練されたかたちで提示されていると言うこともできる。しかしそこで主題的に描かれていたのは、誰もが共感できる青春のさわやかな汗と涙であって、オタク的なキャラ萌えの可能性は周到に排除されていた。本稿で『けいおん!!』を取り上げるのは、(もちろん個人的な嗜好もあるが)それが一方でキャラ萌えに特化し、他方で「終わり」の問題に向き合っているからだ。私たちはこの落差にこそ注目する。

アニメはひとを救わない:京都アニメーションに献花する

 8月24日、放火事件のあった京都アニメーション第一スタジオに献花してきた。26日以降は献花台が撤去されるため、花を手向けることもかなわなくなる。

 あの日、ぼくはパートナーの展示の搬入と設営のために脚立にまたがり、白い展示室のなかで悪戦苦闘していた。一息つきながら何気なくTwitterを開くと、京都アニメーションが燃えているという画像つきの投稿が目に入ってきた。そのときはまだボヤか何かだと思っていた。けれども、どうやら放火らしいという情報とともに、現場の凄惨な様子が明らかになっていくにつれ、あまりの事態に言葉を失った。

 死傷者数はTwitterを開くたびにどんどん増えていった。作業が手につかず、更新されるニュース速報を何度も読み返した。照明機材を持つ手が震えた。自分がいったい何をしているのかわからなくなって、その場にへたりこんでしまいそうだった。

 献花台には、自分と同じように花を携えた人びとがひっきりなしに訪れていた。献花台は花であふれ、飲み物やお菓子、千羽鶴がいくつも供えてあった。

 京都アニメーションという名前は、アニメファンにとって特別な響きを持つ。とりわけぼくのような、2000年代初頭からアニメをもう一度見始めたような人間にとって、その名前は綺羅星の如き作品たちに彩られている。『AIR』『Kanon』『CLANNAD』『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』……。

 それらは鬱々とした大学時代に寄り添い、明日を生きるための活力を与えてくれた。自分に価値が見出せず、人生の意味を見失った、そういう人間の傍らにいつもいてくれた。同じような経験のあるひとも少なくないと思う。

 震災が起こる前の2000年代半ば、アニメは「終わりなき日常」を生き延びるための精神的なセーフティー・ネットとして機能していた。ぼくはアニメに、京アニに救われていた──そう言ってしまいたい気持ちはある。だが、それは結局のところ、偶然と幸運によって生き残り、人生に踏みとどまれた者のバイアスにすぎない。

 JR六地蔵駅から、献花台の設置されている京阪六地蔵駅への短い道のりを歩きながら、この周囲を歩き回った犯人のことを考えた。彼はぼくと同じように関東から新幹線で京都へ向かった。周到に下見を重ねたうえ、現場付近のスタンドでガソリンを調達。用意した台車に載せて運び、スタジオに撒き散らして火を放った。狂気と呼ぶほかない、驚くべき行動力だ。

 犯人のことを考えるたび、ぼくは自分の人生が彼のようではなかったことに安堵し、そして戦慄する。なぜぼくは犯人ではなかったのだろう。なぜぼくはガソリンを撒かず、火をつけずにすんだのだろう。なにがぼくと彼とを分けたのか。

 一部では犯人に精神疾患があるとの報道もあった。彼もまた、過酷な日々をアニメによってなんとかつなぎとめられ、持ちこたえてきたのかもしれない。あるいはアニメだけが、ほとんど唯一の社会との接点だったのかもしれない。アニメは、そういうぎりぎりの人間に寄り添うセーフティー・ネットとして機能する。だから、そこからついにこぼれ落ちてしまったとき、彼の狂気は、最後まで付き合ってくれたアニメそれ自体に向いてしまったのかもしれない。

 献花台のすぐ近くにある、焼け焦げたスタジオを見た。黄色い建物が真っ黒になっていた。女性がすすり泣いている。男性が腕組みをして、無言で立ちつくしている。

 ぼくにとって、この事件は他人事ではない。たんなる狂人のしわざとして、自分から切り離して処理することができない。それは京アニのファンだから、思い入れがあるから、というだけではない。そうではなくて、犯人のなかに、アニメによってはついに救われなかった自分の似姿を見てしまうからだ。

 アニメはひとを救わない。ただ寄り添うことしかできない。ひとを救うのは、ぼくらの社会のさまざまな制度であり、法であり、絆でなければならない。二度と同じような事件が起こらないように、ぼくらは、ぼくら自身を救わなければならない。

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈2〉

 テレビをつける。パソコンを開く。スマートフォンのロックを解除する。これらはいずれも、現代の情報環境下でアニメを見るための最初のステップである。これらの情報機器は私を取り巻く環境のなかに、日常という連続的な時間の流れのなかに、ひとつのモノとして埋め込まれている。テレビやパソコン、スマートフォンを操作してアニメを見ることは、したがって、そうした環境からの一時的な離脱ないし中断を意味しない。そうではなく、アニメを見ることはあくまで、私のこの日常の延長線上にある。

 テレビやパソコンの画面でアニメを見ながら、私はソファに寝そべり、菓子を食べ、ジュースを飲み、時折トイレにも行く。あるいは電車の座席に座り、揺られながら、眠りながら、スマートフォンでアニメを見る。同時に複数のウィンドウを開いてはそれらに目をやり、他人の感想を追い、時間を気にし、日々の雑事をこなす。アニメを見る私は、だらしなく、徹底的に、環境のなかに溶け込んでいる。アニメを見ること以外のさまざまな物事に、潜在的に注意を向けている。

 私は気の散った状態でアニメを見る──。これがアニメを見ることの第一の前提だ。私はテレビやパソコン、スマートフォンのひとつの画面に、完全に注意を集中しているわけではない。私の注意は環境中のあちこちに拡散している。このような知覚のあり方を「気散じ」と呼ぼう。

 18世紀ドイツの哲学者であるカントは、有名な三批判書の後に著した『実用的見地における人間学』(1798年)のなかで、気散じについて詳しく語っている。「気散じ[Zerstreuung](拡散)とは注意の分散によって、いま意識を支配している何らかの表象から他の異種の表象へと注意が転換される(抽象)状態をいう」。ひとつの表象から他の表象へと注意を分散ないし拡散させること。これがカントのいう気散じである。

 カントはさらに、このような状態を意図的な「気晴らし」と不随意的な「放心」の二種類に区別した。彼が後者の具体例として挙げるのは、小説好きの女性たちの「習慣化した気散じ」だ。カントの考えでは、小説を読みふけることは「放心状態[精神の不在Geistesabwesenheit](現在に対する注意の欠如)」をもたらし、日常生活にさまざまな悪影響を及ぼす。というのも、そこでは対象の表象がばらばらになり、悟性によって統一的につなぎ合わされることなく、心のなかで自由に「戯れる[spielen]」ことになるからだ。

 アニメを見る私もまた、表象を自由に遊ばせる。注意が散漫になり、放心状態になる。カントの時代、18世紀に小説に夢中になったヨーロッパの女性たちのように。だが、ここには明らかに否定的なニュアンスがある。カントは小説を悪しきものと考えた。アニメを見ることは、とりわけ気の散った状態で見ることは悪なのだろうか。気散じについてのカントの議論をまったくの逆方向から捉え直した批評家がいる。20世紀ドイツを代表する批評家のひとり、ヴァルター・ベンヤミンである。

無意識をアニメートする(β) :ヴァルター・ベンヤミンと現代日本の“アニメ”〈1〉

 仕事や学校から帰宅し、遅い夕食をとりながらテレビをつけると、アニメが流れている。少年が運命的に少女と出会い、世界を救うための戦いに挑む。少女たちは学校の部室でたわいない世間話に花を咲かせる。TwitterをはじめとするSNSを開けば、アニメの感想をつづった「実況」投稿がタイムラインを流れていく。YouTubeニコニコ動画などの動画共有サイトには、アニメのシーンを切り貼りした「MAD動画」があふれている――。2000年代後半の日本でふつうに見られた光景だ。

 それから10年以上が過ぎ、景色はしだいにさま変わりしつつある。スマートフォンやパソコンさえあれば、いつでもどこでも視聴できる動画配信サービスが一般化し、深夜にリアルタイムで、あるいは録画して見る必要性は減った。テレビアニメの人気を受けて総集編や劇場版が制作され、映画館で上映されることも増えた。深夜アニメそのものはいまなお大量につくられ続けているが、それらを取り巻く環境は刻一刻と変化している。

 このような状況を踏まえて、それでもなお「アニメを見る私」についての一般的な理論を立ち上げることができるだろうか。アニメを見るとはどういうことか。この問いに対する答えは、日常的にアニメを見ている者にとってはなおさら、あまりにも自明であるように思える。息をすることや食べること、歩くことと同じように、現代の日本社会においてアニメを見ることは、人間の生来の自然な行為でさえあるかのようだ。

 けれども、これは当然正しくない。アニメを見るということは、一見してそう思えるほど単純明快な行為ではない。それは文化的・社会的・認知的要因が複雑に絡み合った特殊な行為であり、ひるがえって、現代を生きる「私(たち)」についての反省的なまなざしを与えてくれる。アニメを見ることは、それを見る者自身のありようを問い直すことでもあるのだ。

 本稿では、アニメを見ることの複雑さ、豊穣さについて語る。それはアニメ自体の持つ複雑さ、豊穣さであると同時に、もしくはそれ以上に、アニメを見る私、そして私たち自身の性質でもある。アニメを見るとはどういうことか。アニメを見る私(たち)とは何者なのか。これらの問いをめぐり、20世紀ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンの議論に依拠しながら、アニメを見る複数の主体について語ること。これが本稿の主題である。はじめよう。